第百十三話2:頭痛の種(side:結果)
第百十三話2:頭痛の種(side:結果)
煙草の煙と、瓦礫から立ち上るほのかに甘い、それでいて埃っぽいにおいをかぎながら、
「……考え得る限り、一番面倒な道に転がり落ちたみたいだ」
彼の唇は悩みを吐き出し、そして、そのまま噛みしめられる。薄いそれが引き結ばれ、つま先は足下に転がる小さな何かの破片を踏み砕いた。
じゃり、と荒い砂を踏みにじるような音を立てながら、祐はそのつま先を小刻みに床に叩きつける。
それは、大抵の国で共通の、苛立ちの仕草だ。
「しかたあらへん。
全身で不満と機嫌の悪さを示す祐に、横合いからのんきな声が横やりを入れる。
伊達の黒縁眼鏡に、似非なしゃべり方を
「まだ鼻血が止まらへん……なあ、上向くんやっけ、それとも下やっけ?」
「知らないよ、放っておけば止まるでしょ。そんなことより、会話だけでクエストをうやむやにされるなんて……それに、奴らの会話聞いたかい? 奥の手は運営には見せない? 愉快な奴らだ。大型イベントで目にもの見せてやらなきゃ――」
うろうろと瓦礫の隙間を歩き回りながら、祐は歯ぎしりと共に皮肉を吐き捨てる。他の所員達は慣れたもので、幹部のぼやきは全て無視。
数人の所員は、掃除の邪魔だからどいてください、と祐と沢渡を容赦なく部屋の隅に追いやるほどだ。
大人しく部屋の隅に場所を変え、笹原と琥珀が帰ったことでぶっちゃけた話もできるようになった二人は、互いにぐちぐちと抱えたストレスをぶつけ合い始めるという、不毛な作業を開始する。まず初めに口火を切ったのは、沢渡の方だった。
「難易度担当がそないに性格悪いから、比例してプレイヤーも捻くれていくねん。自業自得っていうんや、そういうの」
「性根が腐ってる毒物担当に言われたくない。言っとくけどね、君のが一番評判悪いからね。君が立案した、4類、12種の解毒アルゴリズムなんて、管理AIだって一度は匙を投げたんだよ?」
「でも、最後には調整しきったんやから、問題なし。優秀な――ああいや、諦めへんガッツを持った奴は大成するっていう、いいお手本やないか」
「立案した本人は途中でぶん投げたんだっけね。ああ、そうか。そうだね確かに――大成してない」
パイプ椅子の背凭れに向かって座る沢渡を見下ろして、祐はたっぷりと嫌みを乗せてそう呟く。視線の先を確認するまでもなく、それは沢渡に向けられた特大の嫌みだ。
対する沢渡は、その発言に眉をはね上げ、これまた嫌みったらしい言い方で反撃に出る。
「ふううん? そやけど、小者ぐあいで言ったら、負けますわー。俺は『ショータイムだ』とか言うて思いっきり無視されるなんて出来へんし? そういう? 痛いっちゅーのかなぁ、そないなこと、ぜーんぜん出来へんしぃ?」
最初の嫌みより、さらに的確で酷い
それでも隠しきれない怒りがこめかみをひきつらせた。形だけは笑顔で固定されているが、その目はくすりとも笑っていない。
「……偉くなったね、沢渡」
「地頭に頼りすぎて自信過剰なサブリーダーに比べたら全然」
「ひゅー! あ、さーせん!」
続く追い打ちに聞き耳を立てていた他の所員が茶々を入れ、祐に静かに視線を向けられ、すぐに頭を書類の影に引っ込める。
掃除をしている所員達からは、喧嘩する元気があるなら掃除手伝えよ、とつっこむ声もあるが、それはやりたくないのか、どちらもぴくりとも反応しない。
「くそっ、やっぱり沢渡の雇用には反対するべきだった。これだから放送部は!」
「放送部関係ないやろ! 大体、いつまで中高時代のこと根に持ってんねん! 何かにつけて放送部と写真部は言うけど、お前んとこの追跡同好会だって同じ穴の狢やん!」
「他人事みたいに言ってくれるじゃないか。ああ、そうか、放送部と追跡同好会を兼部してた沢渡は二重で最悪ってことだね」
「な、このっ……ちょいボンボンが!」
両者睨み合い、拳を固め、所員達の溜息の中で互いの怒声が響き渡る。周りから見ているとどうみても子供の喧嘩だが、本人たちが大真面目だからこそ、厄介さは子供のそれよりも酷いものだ。
「ちょいっ……! その低い鼻、更に低くしてあげたっていいんだよ!」
「俺の鼻は低くあらへん! 周りが高いだけや! そないなことより、お前こそハゲの心配しーや! あのドングリンの甥っ子なら、そろそろデコがヤバいんとちゃう!?」
びしぃ、とデコに指を突き付ける沢渡に祐は絶句。思わず、と言った様子で、別に一応、まだ撤退は始めていない前髪を右手で押さえ、はくはくと何度か口を開け閉めしてから、突き付けられた指を思いっきり叩き落とす。
「――言っていいことと悪いことがあるだろう沢渡ィィ!!」
「ブーメランや! その言葉、そっくりそのまま返す!!」
幹部の喧嘩を眺めながら、休憩組の所員は、誰だよドングリンとか呟きながらお茶を飲む。余波で缶が歪んだからという理由で、勝手にお客さん用の高めの茶葉を飲む所員達は、いつもより寛大な気持ちで二人の言い争いを聞き流すことが出来ていたが、未だ仕事をしている組からすれば、特大の騒音被害に他ならない。
苛々と貧乏ゆすりをしていた所員の堪忍袋の緒が切れて、その手がデスクに飾られていた獣王のぬいぐるみをわしづかむ。
「いい加減に、静かにしろやァ!」
ぎゃあぎゃあと言い争う二人に向けて、ニヤニヤ笑いのリアルな黒猫のぬいぐるみがぶん投げられ、見事に沢渡の側頭部に命中。
体勢を崩した沢渡の頭上を祐の右ストレートが掠め、ちゃちなパイプ椅子ごと倒れ込んだのをきっかけに、幹部二人はようやくばつが悪そうな顔で口を閉じた。
がたがたと倒れた椅子を直しながら起き上り、悪化した鼻血を袖で押さえながら、沢渡はじとりとした目で祐を睨む。
「……休戦や」
祐もまた、ぶん投げられた獣王のぬいぐるみを拾い上げながら、冷たい目で沢渡を見る。落ち着きなく前髪を弄りながらも、休戦だね、と小さく呟いた。
すぐにふい、と互いにそっぽを向いたが、次の瞬間、獣王のぬいぐるみをぶん投げた所員が、今度は真っ青な顔で悲鳴を上げた。向いたそっぽは無駄になり、全員が悲鳴の元に視線を向ける。
「なに?」
「どないしたん?」
短い悲鳴を上げた所員は、震える指で画面を指さし、こう言った。
「ハ、ハッチ17番――炎の精霊王役のエンヴィオが無理やり回線を切断! 自己判断でログアウトし、さっさと壁を開けないと焼き融かすと!」
「――ちょっと何言ってるかわかんない」
「運営にかけあうって言ってたけど、せめて0時まで待てへんかったんか!」
反乱、というわけでもなさそうだが、突然の事件に所員達の顔色はみるみる悪くなっていく。今日だけで大事件がてんこ盛り。シメはドラゴンかー、と死んだ声でぼやく所員達は、幹部の指示を仰ぐために全員が沢渡と祐を見る。
片方はよれよれで鼻血が止まらず、片方は先程の暴言を気にしてまだ前髪を押さえている、という何とも情けない姿ではあったが、二人は迅速に指示を飛ばす。
「ハッチ開けて! すぐに沢渡が行くからお散歩は止めてって言っといて!」
「車の準備! 外側のシャッターが全部閉まってるか確認せえ! ドラゴンのドの字も外に見せるんやない!」
「了解!」
すぐに慌ただしい空気に満たされた雑居ビルの一室。夜は長く、運営の苦労は果てることがない。
「陵真がいない時っていっつもこうなんだから! 頼むよ沢渡! どうにか大人しくさせて!」
「アイツ実は疫病神なんや! 絶対そうに決まってる!」
上着を引っ掴み、沢渡は大急ぎで非常階段を駆け下りて、準備させた車に乗り込みながら、
――果たして、無事に朝を迎えられるのか?
そんなことを思ったのだった。
竜。龍。ドラゴン。ドラクル。メルトア。ローバニァ。ヴェザニア。ドルムル。
――
数えきれない呼び名を持ち、様々な逸話を持ち、そして人類が一度、滅びを迎える前の前から、ずっとこの世界に存在したもの。
轟暦より前、ハブ・エント紀を越え、人類再出発の日と定められた諸暦を更にさかのぼり、亡暦を辿り、世界が西暦と呼ばれていた頃さえも越えられるほどのはるか昔。
その生き物はずっと世界と共にあり、世界と共に生き死にを繰り返して君臨してきた。竜とて不死身ではないが、かといって、事故さえなければ幾星霜を歩む生き物。
掟に従う、偉大なる血。それは西暦にて、人類に滅びを
それは滅亡と共に現れ、幼子だけを救い上げたと伝えられる。
故に、竜とは滅亡の証。それと同時に、大いなる希望の証でもあった。
今や絶滅したと言われ、その美しさを見ることは叶わないとされていても、秘境にてその存在を望まれるほど、人々の憧れを抱える存在。
人々に紛れて隠れ住み、そして今もなお人類を見張る自然の代弁者。その存在が――、
『――
――此処にいた。
【Under Ground Online】の運営である、オフィス《meltoa》が有する建物の中。巨大なハッチに、これまた巨大な爪を引っかけて、ギリギリとヤバそうな音を立てながら、赤の竜、エンヴィオがいぶかし気に首を傾げた。
透き通るような明るい赤の鱗に、若い牡鹿のような短く太い赤黒い角。立派な翼の翼膜と腹部は黒いまだら模様に覆われていて、がっしりとした四肢が持つ鋭い爪が、ついにハッチに穴を開けた。
長い首を伸ばし、現実に肉持つ竜はしゅー、と小さな呼気と共に蒸気を吐き出す。真っ白な牙が噛み鳴らされ、威厳をもって首をもたげる。
その視線の先には、竜と比べれば小さな存在が立っていた。オフィス《meltoa》――それが運営するVRMMO、【Under Ground Online】にて、毒物や生産に関わるシステムを担当する、
けれども、それは威厳を持った呼称ではない。
そもそもが役職名をはっきりと持たないオフィス《meltoa》において、先輩やら、先生やら、名前呼びやらと呼び名が安定しない沢渡や祐のような存在は、所員達からは雑な感じに幹部と括られているだけだった。
確かに、他の所員と比べれば偉いのは偉い。システムの重要な部分を任されてもいるし、所員達が知らない一部のことも知っている。けれど、これまた社長だとか、リーダーだとか、陵真さんだの、呼び名がふらふらしている陵真の掲げる社風がそもそもいけなかった。
「みんな、本気で。でも、それなりに楽しくやろう」という、そんな社風が、今の緩く心地よい空気を作っているのはわかってはいるが、沢渡はいつも思うのだ。
なんだかんだいってやってる仕事は死ぬほど大変なわりに、偉い立場にあるという気がしない。それってなんだか割に合わない、と。
――そんな思いは、ただいま現在進行形で。しっかりと腕を組み、唇をへの字に曲げて、黒縁の伊達眼鏡を押し上げて、沢渡は伝説に生きていたはずの生き物を見上げて口を開く。
「――驚いた。赤のドラゴン様が、まだ俺のことを乗り手と言ってくれるなんてね」
『茶化すな。竜は生涯、一人しか人は乗せぬ。掴んで運んでやることはあってもな。背に乗せるのは生涯に一人だけだ。そう決められている。それが掟なのだから』
「たった一度、乗せただけでも?」
『たった一度でも、だ。俺の真白い牙と、この翼にかけて言おう。あの日、幼いお前を乗せてやったのは、気まぐれでも憐れみでもないことを、いい加減に納得するんだな。お前は自己評価が低すぎる。確かに、存在感も個性もないがな。あと、やはり少しだが鼻も低い』
「……一言も、二言も多いわー、この赤トカゲ」
沢渡の暴言に喉の奥で笑い、赤の竜が決して広くはない空間で翼を動かす。生じた風に煽られながらも、沢渡はまっすぐに竜を見上げた。
『用件はわかるな? なに、お膳立てなどいい。教えてくれさえすればな。そうすれば祭りに参加する権利くらいは、俺が自分で勝ち取ろう』
「わかってる。レベックのステータスが揃ったら、教えるから……だからな? その、ハッチを焼き融かす! とかいう脅しは止めてくれへん?」
ただでさえ、ちょっと世間で危うい状態である運営としては、これ以上の問題は致命傷になりかねない、と竜に向かって沢渡は低く呻く。
例えば、絶滅したはずの竜をVRに繋いで、炎の精霊王として使ってます☆ なんてこと、マスコミが嗅ぎつけたらどんな話に曲解されるか分からない。
合意の上です、という言葉を信じてくれればいいが、下手をしたら逃げ出さないようにこんな大型施設まで作って、竜をVRの実験台にしていただとか言われかねない大事だった。
絶滅していないかもしれない竜を崇める団体だとか、普通に動物愛護団体だとか、世界幻獣保護機構だとか、
『いや、なに。レベックを見ていたら昔のお前を思い出してな。今よりもっとお前が馬鹿だった頃をだ』
懐かしむように灰色の目を細める赤い竜に、嫌な話の流れを読み取った沢渡は唇を更にへの字に曲げる。
「……それが何で脅しに関係するねん」
『関係するのだ。思い出したらな、ついでにあの時のお前の暴言も思い出した。それでイラッときたので、意趣返しに呼び出そうと思ってな。言ってくれただろう、「この、根性無しの赤トカゲ野郎! 一生その穴倉でうじうじしてろ玉無しが!」とな。あれが未だに腹立たしくて、腹立たしくて……』
「まだ根に持ってたんか!? 10年以上も前の話を!」
呼び出された理由のあんまりなくだらなさに、沢渡は悲鳴を上げて座り込む。あー、そんなことで呼ばれたん? 必死に走ったのに、理由がそれ? と呻きながら、疲れでドライアイになった両目を片手で押さえる人間に、赤の竜は巨大な鼻面を寄せ、容赦なく小さな生き物を小突いて転ばせる。
「何すんねん!」
すぐさま転がされた状態から起き上がり、文句を言う沢渡の眼前に巨大な牙の群れが迫る。思わず身を固くする沢渡の前で、赤の竜は見た目に比べたら穏やかな声で言う。
『まあ、呼び出した理由はそれだけではないのだ。俺くらいの竜になればな、例えVRなるものにログインとやらをしていても、こちらの気配も辿れるわけだが――』
「俺くらいになればなって、お前だけやVRにログインしてる竜なんて」
『――話の腰を折るな』
「ちょっ! やめ、止めろ! すごく怖い!」
沢渡が目の前に迫っていた大顎を
そのまま首を曲げて自分の背中にそっと下ろし、では、話の続きだがな、とマイペースに続きを語り出した。
『あの猫がな――』
初め、沢渡はもっと、竜の話を軽く見ていた。どうせ大した話ではないだろうと。しかし、その話は沢渡にとって、いや、恐らくオフィス《meltoa》に所属する所員全員にとって、驚愕に値する話だった。
『――あの猫、獣王に、人間に好かれるにはどうしたらいい? と聞かれたのだ』
赤の竜は、まるで世間話でもするようにそう言った。それにどれだけ驚いたか。獣王が、あの、比喩でも何でもなく
「い、いやいやいや、嘘やん」
『嘘ではない。何でも、珍しく暴力的ではない方法で、仲良くしたいらしい。俺は最初、また奴の遊びが始まったのかと思ったが、どうも違うようなのだ。茶飲み友達のようにくだらん話をぽつりぽつりとやりたいらしいのだ』
「……じ、実は油断させようとしてるとか?」
『ふん、仮想世界で油断させ、寝首をかいて、そして次にどうすると言うのだ? 奴はな、この前何か〝やらかした〟らしい。その人間を怒らせたんだそうだ。まあ、奴のデリカシーの無さから言ったら当たり前だろう』
仮想世界、その単語を聞いて、沢渡は更に目を見開いた。その単語を、混乱に混乱を重ねる脳でどうにかこうにか処理をして、慌てて赤の竜に食ってかかる。
「ちょいっ……ちょい待ち! あの猫の世話しとる所員の誰かとかいう話やなくて、VRの――プレイヤーの一人と仲良くなりたい言い出したん!?」
『そうだ。名前までは言わなかったな。だが、ちょっとした嫉妬心と意地を張って、ついでに試すようなことをしたら、約束が曖昧になってしまったと。もう探しに来てくれないかもしれないと――ううむ、奴は声の調子が変わらんからな。わかりにくいが、多分、落ち込んでいたのだと思う』
「落ち込む!? あのド級の危険生物が!?」
あり得ない! と叫び、本当に本当なのか、とうるさい沢渡を巨大な舌で舐め上げて落ち着かせながら、赤の竜は繰り返す。
『確かに言った。好かれるためには、どうしたらいい? と』
――あの猫は、確かにそう言ったのだと。炎の精霊王役を務める
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