第九十一話:わずかな油断が命取り
第九十一話:わずかな油断が命取り
ニブルヘイムの頭の上で夜風を浴びること数十分。だんだんと慣れてきた身体がバランスの取り方を自然に覚え、その腕にかかる負担も小さなものになってきていた。
夜空に浮かぶ月に近づきながら飛ぶ黄金のドラゴンは、地上から見上げればもう一つの巨大な月にも見えるのだろうか。
地上から見上げずとも、ちょっと肩越しに振り返るだけでわかる美しさがそこにある。巨大な翼爪が空気を割り、生じた風を孕んで分厚い翼膜がはためいて、優雅に空を舞い続ける。
「すごいね。翼膜まで金色だ」
鮮やかだが、派手ではない自然の中の金色を全身に宿す竜の首を撫でながら、
上空からのフィールド紹介が終わり、生放送はいったん休憩中。放送中はずっとテンションを上げていた朶さんも、今ではすっかり落ち着いた様子で尻の下の鱗を撫でては、うっとりと目を細めている。
「よしよーし。いやぁ、竜って良いねぇ」
朶さんの呟きに、ニブルヘイムは無言。しかし、機嫌が悪い時特有の目を細めるという仕草もないし、もう一つの感情表現器である長い尾は、緩やかに風に漂うままになっている。
「ニブルヘイムは特に綺麗ですからね。映像にも
人間は嫌いだと言いながらも、ニブルヘイムは意外にも自分や朶さんに撫でられるのを嫌がらない。いや彼も明確にはそう言わないが、むしろ喜んでいるふしすらあった。
やたらと滑る鱗にも慣れ、角に足をひっかける角度などの、細かいバランスがとれるようになった頃。
力を込めなくてもよくなった片腕が手持ち無沙汰で、なんとはなしに不思議な指触りのニブルヘイムの頭と、足に尾を絡みつけ膝の間で眠るネブラを交互に撫でていたのだが、しばらく撫でていたら突然、ニブルヘイムが低く唸りだしたのだ。
最初は威嚇されたのかと思い、手を引っ込めたものの、彼はそのまま無言。目も細まっていないし、尾が鋭く振られる様子も無かったので、怖々と撫でるのを再開すれば、面白いことに彼はまたごろごろと低く唸り始める。
どうやらリラックスしている
「ネブラは?」
「ぐっすりです。尻尾は足に絡んでいるので、落ちる心配はないですよ」
「ならよかった。そのうち触らせてくれると良いんだけどなぁ」
ニブルヘイムの低い唸り声を伴奏に、ネブラはぐっすりと眠っている。はじめの頃こそ、ギリー達が“眠る”様子にだいぶ疑問を持ったものだが、ニブルヘイムの言葉を信じるのならば、それにもあまり違和感を持たなくなっていた。
穏やかな寝息を立てて、一人と一頭の“親”に挟まれながら、ネブラがもぞもぞと4枚の翼を動かす。自分の太股には蛇のような感触の尾が巻き付けられていて、ブーツの底はネブラの尾を痛めないように、一つ上の角にひっかけられている。
これも、滑りやすいニブルヘイムの鱗に慣れてきたから出来る芸当だ。ただし、まだまだ、この状態で戦闘が出来るとは思えない。
まさか成竜に乗った自分たちを襲う人もいないだろうと思うが、ネブラが自分を乗せて飛べるようになる頃には、そうも言っていられなくなるだろう。何か上手い方法か、よほど安定性のある良い鞍を造らなくてはならない。
「橙くんは?」
「さっき確認したらもう寝たそうです。
さきほどから、雪花とハンドサインで必要最低限の連絡を取りながら進んでいるが、数十分前に橙はダウン。
ネブラよりも早くぐずり始め、雪花とギリーに宥めすかされてようやく籠に入って眠ることを認めたらしい。
自分の首に巻き付いているか、腕の中にいるかの二択になりやすいネブラよりも、地上をちょこまかと動き回り、隙さえあれば地面に穴を掘り始める橙の方が体力は多いが、その分無駄な動きのせいでスタミナ切れは速い。
結局、体力やスタミナの総量こそ違うものの、橙とネブラの眠るタイミングはほぼ同じとなっている。
本当は、ネブラも橙も自分に抱えてもらわないと、ぐずるばかりで寝ようとしないのだが、橙も限界だったようだ。
雪花の表情がわかる高度で飛んでもらっているのもあるが、遠く小さく見える雪花の表情は何ともいえない苦笑で満ちていた。
ギリーに乗ったままモルガナと併走しつつ共に進む雪花は、5分おきくらいに問題がないかを確認するように顔を上げる。
そのたびに笑顔と一緒にハンドサインで大丈夫だ、と返すのだが、そのたびに何故か彼はちょっとだけ顔をしかめてみせる。
いくらハンドサインを色々と決めたといっても、“その顔はなんだ?”までは決めていない。ニブルヘイムに高度を下げてもらうほどではないが、わずかなひっかかりを覚えながらもまた5分が経ち、空を、自分たちを見上げる雪花に何度目かわからないサインを出す。
またも渋い顔。しかめっつらで、口をぱくぱくさせる雪花が何を言いたいのかはわからないが、自分は浮かれ気分で手を振るにとどめる――そう、自分は、この時かなり浮かれていたのだ。
雪花が唇を曲げながらも顔を前に戻し、自分も浮ついた気分でニブルヘイムの頭を一撫でした瞬間。
突如、影が頭上の月を遮り、油断の中で反応の鈍い脳が、遅すぎる速度で自分の視線を上へと向ける。
念のためと開いていた索敵スキルが、敵を示す赤に閃くのを、視界の端で捉えた時には遅かった。
その時にはすでに敵は目の前にいて、黒い革手袋に包まれた腕は自分の懐へと伸びきっていて、それを理解した時にはその黒い五指はネブラの肩を羽ごと手荒に掴んでいて――。
「子竜――いただき♪」
不愉快な声と共に、自分はネブラの尾に足を掴まれたまま、逆さになって夜空へと吊される羽目になっていた。
ニブルヘイムに乗った状態での突然の襲撃は、自分にとって完全に予想外のものだった。
まさか、契約をしていないとはいえ、成竜。それも、名付けられずとも自身の名を持つほどの力を持つモンスターに乗っている中、更にそのモンスターが溺愛しているとはっきりわかっている子供をさらい、真っ正面から自分に喧嘩を売ってくる奴なんていないだろうと、過信していた。
更に言えば、予想外のことはもう一つある。ただしこれは、自分に喧嘩を売ってきた相手にとっても、予想外の出来事であったらしい。
「ちょっ! 余計なのまでついてきちゃったんだけど!」
どうしよう! という声が、単に感想というよりかは、誰かに指示を仰いでいる風であることを察し、自分は逆さ吊りで目を回しながらも周囲を確認するべく反射で閉じていた目を開く。
目を開ければ真っ先に映るのは、小型の竜に乗った男の姿。純白の鱗に覆われた、腕の無い竜。ワイバーンと呼ばれるようなモンスターが、眼前、
大きさはデフレ君と同じくらいか、羽の長さだけならそれ以上。大型の
その背にはしっかりと鞍が括り付けられていて、そこに乗り込む男は完全に足と腰を鞍に固定。自由度を減らす代わりに、上半身を捻ろうとも、両手を手綱から放していようとも、落ちるのを防止しているようだった。
さっきの急降下からネブラをかっさらえたのは、きっとあの鞍のおかげだ。あれならたとえ、白いワイバーンが地面と逆さまに飛行したとしても、落ちることだけはあり得ないだろう。
更に視線を動かし、ワイバーンに乗りネブラを押さえつける男を見る。目に付くのは、サングラスにニット帽。全身を覆う分厚いジャンパーのような服装と相まって、完全に個性や特徴というものを隠しきっている。
そんな中で、腰のチェーンにきらりと光る、林檎を
次に視界に映るのは自分の足。そこにがっちりと絡みつく、薄青の羽毛に包まれたネブラの長い尾。見た目は細いにも関わらず、アルトマンの言うとおり、その尾には骨と筋肉がぎっちりと詰まっているらしい。
おそらく、通常の女性以上、男性未満――つまりは、普通よりも重ためであろう自分を楽々と掴んだまま特に痛みも無い様子で、見知らぬ腕の中で目覚めたネブラが、ぎっちりと鱗を逆立て、怒りの声を上げる。
意外なことに寝起きは悪くないが、ネブラの人嫌いは折り紙付きだ。すぐに不機嫌さを膨大な力に変えて解き放とうとしたことに気がついたのか、自分の腕からネブラをかっさらった男は急いだ様子でその細い首に金属製の首輪をはめる。
すると突然、凝縮していたと肌で分かるほどの魔力が霧散する感覚。見えずとも、術の発動がキャンセルされたことはわかった。
ネブラもそれに気づいた様子で、今度はままならない衝動を吐き出すように、
「ッ――“熔魔の色 赤竜の色 精霊と見まがう朱の色”!」
ネブラにとっては、だだをこねながら尻尾で掴んでいた“親”を引き寄せる行為。自分にとっては、敵に反撃しネブラを奪い返すチャンス。敵にとっては、最悪の事態。
ネブラの魔力を封じたはいいものの、その動きまでは封じられず、爆弾を引きずり寄せる様子にネブラを押さえている男の表情には焦り。
その視線がネブラの尾を見て、更にそれに絡め取られた自分の足を見る。瞬時に手で外すのは間に合わないと判断したようで、その男は腰に手をやり、そこからぎらりと光る長剣を抜き放った。
「――!」
ネブラの尾を切り落とす気かと目を見張った自分に、男は安心させるようににっこりと微笑んでこう嘯く。
「だぁいじょうぶ。落とすのは、アンタの足の方だから」
それはそれでちょっと――! と詠唱の最中ながら思わず絶句する自分に向けて、片手でネブラを抑えたまま男が長剣を振り上げるも。
「横見ろ! 避けろ!」
と、男の背後からまた別の鋭い声が発され、すぐに男は長剣を振り上げた体勢のまま自身の背後を確認。その瞬間、ずっとふざけていた様子の顔に、初めて本物の恐怖が滲む。
「砂竜怖――ッ!」
切羽詰まった声と共に、男は抜き放った長剣を背後にむかって投げつけながら、白いワイバーンに指示を出す。
「急降下!」
男の指示を聞く前に、ワイバーンは危機に気が付いていたらしい。男の叫びより一拍前に鋭く翼が打ち振られ、空気を切り裂き急激に下降する。
そうすれば当然、自分の身体は一瞬だけでも遅れて上空に置き去りになり、男の代わりに自分が男の怯えの元凶と対峙することになる。
――その光景に、自分は思わず悲鳴を上げた。
「頼む落ち着けニブルヘイム!」
回転しながら迫る長剣を易々と噛み砕きながら、鋭く並ぶ牙をむき出しにし、途轍もない形相でニブルヘイムが迫って来ていた。
ホラーというより、パニック映画に近い迫力。もはや自分のことを認識しているのかさえわからない。
陸鰐が迫って来た時のトラウマを思い出しながら、自分は思わず腕で顔を覆う仕草をするが、そんなポーズに意味があるわけがない。
「ちょっ、これ無理――ネブラ引っ張って!」
自分の悲鳴に反応したネブラが慌てた声を上げながら、父親の牙から主人を守る。
ネブラが引っ張ってくれたおかげでニブルヘイムの突進が直撃することは無く、わずかな猶予の間に白いワイバーンが小回りの利く動きでニブルヘイムを引き離す。
がっくんがっくん、衝撃に揺られながら自分は早口で再詠唱を開始。無理やりに眼下を見れば、およそ上空二、三百メートルといったところ。
怒り狂うニブルヘイムに追い立てられつつ、白いワイバーンに跨った男は背後を気にしながらも、すでに二本目の長剣を手にしている。今度こそ、自分の足を切り落とし、お荷物を排除する気だ。
実際、自分がぶら下がっているせいで白いワイバーンは辛うじて、といった様子でニブルヘイムの追撃を避けているが、荷物が無ければもっと
ワイバーンを追いかけまわすニブルヘイムの色を反射しながら、男が振り上げた長剣が閃く。
次の瞬間、主人の足を切り落とされるのを嫌がったネブラが、男の手に小さく噛みつきながら尾を振り上げ、自分を宙高く放り投げた。
ずっと絡みついていた尾が離れ、今度は正真正銘、命綱無しで空中に置き去りにされる。仰向けに自由落下しながら、空全体を見渡せる位置。
思わず呆然としてしまうような状況が眼前にあった。夜空には7頭もの各色のワイバーンが飛び交い、その中で巨大なニブルヘイムが怒り狂いながら白いワイバーンを追いまわしている。
自分を拾う様子も無く、ニブルヘイムは我が子をさらった白いワイバーンを追い続けている。朶さんの口元がニヤニヤしながら高速で動いている様子に、更に頭が痛くなった。
下から聞こえてくる雪花の叫びは、地上にも敵がいることを伝えてくる。無意識に自分の腕は懐に伸び、小さなベルの柄を掴み。
――悪夢だ、と。
唇の動きだけで呻きながら、反撃のためのベルを鳴らした。
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