第五十七話:自堕落な時間
第五十七話:自堕落な時間
光に満ち溢れる世界から暗闇へ。そんな表現に近いこの感覚を味わうのは二度目のことだ。
これから何度も繰り返し、その内に違和感すら覚えなくなるであろう感覚に浸りながら、自分はぱちりと目を開けて暗闇の中ボタンを探る。
右手にボタンの感触。ぱちりと押して、蓋を開ける。一瞬、開かないかもという不安がよぎるも、もし開けられなくてもセキュリティによってサポートAIが開けてくれるし、中に入ったままログインせず、5分も経てば自然に開くから安心だ。
「……」
疲れた、とそう呟こうとして声が出ないことに驚く。そんな経験をすることになるとは、VR機器発売当時は夢にも思わなかった。
背筋を伸ばし、大きく伸びをする。VR空間からの帰還は、夢の見過ぎですっきりと起きられなかった朝によく似ている。
何とはなしに欠伸をし、空腹を訴える胃に気が付く。前回は喪失感ばかりが先に立ち、まともな精神を保てなかったが今はだいぶ楽観的な感覚が強い。
恐らくは、再びあの場所に戻ることが出来たという、繰り返しによる学習。学習による安心感の獲得だろうと自己分析をする。最近、通信教育で齧った程度の心理学の受け売りだ。
再び朝が来ることを確認し、今の気分は気楽さが強い。夜は明けるのだと知っていけば、一々ログアウトの度にゴーグルを破壊しなくても済むだろう。
(さむ……)
〝ホール〟から下ろした素足が冷えたフローリングに触れ、晩秋の寒さを感じて身震いしながら立ち上がる。すぐにカーペットを足で探り、寒さから逃げる。
軽く動いて不具合が無いことを確認し、手探りでドアまでゆっくりと進んでいく。そのうち、この部屋から出る動作も慣れる時が来るのだろう。
廊下に出てしまえば勝手知ったる身体がすいすいと足を動かす。どこに物があるかを把握しきった身体は何かにぶつかることもなく、健常者と変わりない速度で居間に到着する。
居間、もとい自分の部屋と化している、自堕落な空間の奥に設置されているキッチンに向かう。電気ポットのスイッチをオン。キッチンの隅に積んである箱買いしてあるカップ麺を探り、手探りで適当に選ぶ。
腹が減っていると味はどうでもいい。とりあえず胃を満たすことを優先し、掴んだそれの袋を開け、そこにあるはずのゴミ箱に放り込む。
段ボールの中に二重にしたゴミ袋は、簡単な手製のゴミ箱だ。前にゴミ袋1枚だった時に痛い目をみてから、2枚重ねになっている。
湯が沸くのを待ちながら肩を回す。不健康なのは分かっているが、ゴーグルの使用時間を考えれば自炊は高い、わけではない。
節約していた時期もあったが、今はただ単に物臭なだけだった。じいちゃんが死んでから即行で自炊をしなくなったコンロやシンクはピカピカなはずで、冷凍食品でさえ皿洗いが面倒という理由で食べていない。
確かまだ冷凍庫に残っていたと思うが、電子レンジ共々出番は無い。食器も棚に入れてあるからピカピカ……いや、埃が積もっている可能性は否めない。
パチリ、と音がしてお湯が沸く。最近人気のレトルト風カップ麺のような手の込んだものは開けるのが面倒だし、入れる順番とやらを確認するためにゴーグルをするのも面倒くさい。
毎回同じ種類ならば湯の加減も分かっているし、という理由で蓋を開けて湯を注ぐだけのカップ麺が主食となっていた。
まともなものもたまには食べるが、本当にたまになのでこのままでは添加物で肝臓がヤバいかもしれない。肝臓なのか、腎臓なのか、何が悪くなるのかはよく知らないが、身体によくないことだけは確かだった。
不死薬と言っても老化が無いだけなので、病気にはかかるし事故でも死ぬ。治療不可能な病は現代ではほとんど無いため、金さえあれば病気で死ぬことはほとんど無いだろうが、生活習慣病までは薬ではカバーしきれない。
臓器の交換は自分の細胞で作ればなんとかなるらしいが、不死薬を服用した人間に通常の臓器移植は不可能とされている。
実際に不可能なのかは知らないが、少なくとも一般人が積める金額では不可能だろうから、同じことだろう。
出来上がったカップ麺をキッチンで啜るという暴挙に走りかけ、寸でのところで思いとどまる。誰も見ていなくても、一応大人のお体裁は取り繕うべきだろう。
大人しくソファに持っていき、割り箸でずるずると食べながら小型端末を起動する。ドメイン社の音声式端末は、値段は張るが音質が良く、デザインも格好いい。基本は見えないので持ちやすさ重視だが、持ちやすさを保った上でデザインに拘るのがドメイン社の特徴だ。
買い付けた時に見た鮮やか且つ落ち着いたオレンジの外装を思い出しながら、指紋認証でロックを解除。
軽やかなピアノの音と共に起動し、きちんと電波を受信している証に手元に引き寄せた小型のタブレットが振動する。
端末を軽く二度叩けば検索機能が起動し、もう一度軽く叩けばニュース情報を読み上げ始める。
強盗殺人事件と聞いて顔をしかめれば、死んだのは盗みに入られた家主ではなく、強盗犯だと音声は言う。犯人が盗みに入った先が名のあるAI系企業の重役だったらしく、飼われていた学習性AI搭載のロボット犬に噛み殺されたらしい。
強盗の撃退に最適と言われるが、噛み殺すとは穏やかではない。しかしニュースによればかなり危険な状態だったらしく、家主も深めの怪我を負ったらしい。司法は恐らく正当防衛とみなすだろうとの声と共に、次のニュースに入れ替わる。
あんらくさんに言われて初めて知った『ゲッター』なる若者が増えている問題についてのニュースを聞いて、しかめた顔が更に渋面になる。
あの話があったからこそ、物臭を少し取り払ってニュースを毎日聞くことにしたのだが、颯爽と話題に上っているのを聞くのは複雑な気分だった。
気分を切り替えようと公式のニュースではなく、ネット上でのみ話題になっているニュースを聞こうと端末を叩き、タブレットを片手で弄る。
端から音声で読み上げさせれば、ここでもゲッターについての話題。他にはペットについて。生きている動物派とロボット派。そこに割り込む実体のないAI派の三つ巴の議論。
不死薬否定派と肯定派の議論は少し前からある話題で、真新しいものだとVR対応ソフトについてのあれこれ。
様々な国に進出している大企業の元締めと言われるアイオ公爵家当主のスキャンダルに、あんぐら制作会社に国からの圧力がかかっているという噂、国はホムンクルスを隠しているという話題が来て、何の脈絡もなくそこに並ぶ話題のスイーツ特集。
混沌とした電子の海の中に鼻面を突っ込み、気になる情報だけを覗き見ていく。不死薬は本当に安全なのかという抗議文に対する国からの返答、否定派のデモが勢いを増す中で、戸籍に積みあがる(打ち止め)の印字。
平井というジャーナリストが、VRは若者の逃げ道だ、という見出しであんぐら制作会社の社長との対談を雑誌に書き立て、その若者からの猛反発を受け負傷した事件に対する意見や文句。
晩秋の今こそ新作の蒸気ヒーターを買おうという広告に、今でも廃れない炬燵についてのあるある話。
そこまでいった時に背後で音声パソコンの起動音がし、勝手に起動したそれからは聞き慣れた声が響く。
『ルーシィちゃんが帰ってきましたー。ただいまですね、何を検索してるんですか?』
たった二日で慣れた声色に耳を傾け、手元のタブレットに指先で文字を書く。
――蒸気ヒーター、買おうかなと思って
蒸気ヒーターは最近になってまた流行り始めた加湿器とヒーターのミックスみたいな電化製品で、冬場の乾燥した空気を湿らせた上に、適温まで温めるという優れものらしい。
部屋が冷え、乾燥する冬場にバカ売れなんだとか。最近寒くなってきたし、お値段も手頃だから買ってもいいと思える品だった。
必須というわけでもないが、買えない値段ではないことも売り上げに貢献している理由だろう。周りが持っていると、自分も欲しくなるという人間心理も働いているのかもしれない。
『流行り廃りはわかりませんから、無駄遣いだけしないように注意してくださいねー。でも確かに可愛いデザインですね。キリン型とかありますよ』
想像してちょっと笑い、タブレットを叩く。
――バイトの件、どう?
『条件が良さそうなものをピックアップしておきました。後で端末の方に送るので、映像起動してみてください。ゴーグルの方に直接映し出せるファイルにしておきましたから』
――ありがとう。後で確認する。
タブレットに手早く感謝の言葉を書き、照れたように笑うルーシィを労う。そういえば、あんぐらでの仕事はもういいのかと聞いてみれば、とりあえずは問題なく終わったという。
また調整に出ることもあるだろうが、テストプレイ期間中は出来るだけお供をしてくれるらしい。テストプレイが終われば、またしばらくは会えなくなるらしいが、家の方に勝手に出没するのだから、あまり気にはならない。
食べ終わったカップ麺を手近なゴミ箱に放り、伸びをしてそのままソファで寝ようとすれば、部屋中にルーシィの怒声が鳴り響く。
追い立てられるようにして風呂へと向かわせられ、入浴後に大人しく歯を磨いてベッドに潜った。
翌日の昼頃に目が覚めて、楽しい夢を見た気がするなどという呑気な気持ちで起床。冷蔵庫に大量に放り込んである林檎を皮ごと齧りながら端末で本日のニュースを聞き、適当に時間を潰す。
気が付けばルーシィはいなくなっていたようで、勝手に起動した端末は勝手に電源を落とされていた。コンセントまで抜ければ最高と思いながら、ようやく3日目のログイン時間を迎えて意気揚々と〝ホール〟を起動する。
滑らかな機体の表面を撫でながら起動を待つ。微かな振動と共に機械が目覚め、違う世界に飛び立つための扉が、静かな音と共に開かれる。
内部に入り、息を吐く。期待に高鳴る心臓の音が内側から鼓膜に響き、自分はそっと目を閉じる。
自分は三度、扉を開いた。
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