第四十三話・半:邂逅 2

 


第四十三話・半:邂逅 2




 声がする。


 誰かの声が。誰の声が?


 ニコニコと称す顔文字を名前として登録した彼女は、じっと耳をそばだてる。

 森の中、木の上、虫の声が聞こえる秋の夜。肌寒い空気に目を細め、息を潜めて声の主の正体を探る。


「ここら辺にフクラ茸があるって聞いたんだけどさ――」


「モ、モンスターとか出ないよな? 大型のやつは本当に怖くて――」


「大丈夫だって、意外と出くわさないから――」


 話している内容から、ニコニコは彼等が自分を追ってきた者達ではないと把握。次に近辺の薬草情報を簡単にメモに書き込み、自分のスキルによってノートを取り出す。作りかけの地図にまた小さく文字を書き込んでいき、満足気に息を吐く。


 7番の森、Bにてフクラ茸の生息情報(未確認)。確認モンスター、小動物系6種、中型3種、大型2種。大型はどちらも草食の様子――。


 逃げるだけではうま味が無いと、道中発見したものを記載し続けたノートは、細かな字でびっしりと埋まっている。

 最後のページまでしっかりと書き込んで、3冊目であるそのノートを消し、暇潰しと確認を兼ねて1冊目のノートを取り出す。


 プレイ初日の出来事を記すそのノートには、お遊びのモノローグの他、様々な考察や情報が書き込まれる。

 半ば日記ともなっているそれを1ページ目からぱらりと捲り、彼女は今の状況を踏まえて内容をじっくりと吟味する。

 話し声は遠ざかり、人の気配は無い。彼女は静かにページを捲り、今後の方針について考える。


「……狙い通り慈善事業の道は閉ざした、攻略組の大半ともそこそこ疎遠になれたし、今後、台頭してくるであろう魔王さんとの関係も良好。ルーさんはまあ、見逃してくれる程度の情報を流せば良い……狛犬さんは面白そうですし、美味しいレストランは早めに確保して常連さんになるのは必須」


 つらつらと、ニコニコは自分の現状を読み上げるようにしてノートに小さくメモを取る。しっかりと忘れないように、自分の記憶力が完璧ではない事を自覚する彼女は、常にメモを欠かさない。


「エルミナのあのスクリーンショットは愉快でした、ああ、画像貼っときましょうかね。特殊武器も間近で見られる良い経験でしたし、ええと、後はそうだ、流石にもう少し用心するべきでしたね、私も。抜かりました、気を付けましょう」


 初日から上手くいったと思ったんですがねぇ、と言いながら枝に凭れ、ニコニコは自分の失敗を反芻する。

 良いように安値で色んなプレイヤーに協力し、慈善事業の情報屋になるのを避けたのは良かったが、狙いが上手く行きすぎたというか、喧嘩を上手く売りすぎてしまったというか。


 深々と溜息を吐きながら失敗でしたと嘆きつつ、ニコニコは口元に笑みを浮かべていた。にまり、と上げた口角が楽しそうに動き、でもまあ、溜飲は下がったからいいやと自分で納得する。

 震えていたのも嘘ではない、涙したのも本心から、でもしかし、いつ彼女が怖いと口にしたか。悲しいのは自分であると言ったのか。

 確かにそう思えるように仕向けはしたが、震えていたのは怒りから、涙したのは悔しさからだ。


「後は、これからですね。まあ魔王さんが上手くやってくれるでしょうが、ううん。見捨てるのは……ポリシーに反しますね」


 ちょっと派手にPKP達の情報を売り飛ばし、目の敵になった。我関せずそうな攻略組について回り、見捨てられることにも成功した。

 自分に出来うる限りの非が無い状態で、どちらとも疎遠になる事が出来たのは良かったが、問題はPKP達が思ったよりも短気だったことである。

 いや、彼女を良く知っているプレイヤーが、PKP達の中にいたのが問題か。自分が全くの無知な女であり、攻略組に良いように利用されたわけではないと気が付いたのがエルミナだったのが問題だった。


「髪の形と色を変えると、意外とわからないんですよねぇ。名前を変えていたとは全く……気が付かなかったのが悪いんですがね」


 いくつかのVRゲームにおいて、エルミナとニコニコは既知きちの仲である。仲が良いとか、リアルで知り合いであるとか、そういうものでは一切ないが、普通にプレイヤーとしてお得意様だったのがエルミナだ。

 名前も髪型も色も違っていたが、よくよく見れば面影がある。顔の造作はシステムで微調整が入るものの、そこまで乖離するわけではない。

 しかし知り合い程度の仲がそうがっつり姿を変えれば、気が付く者は少ないだろう。ニコニコもまた、気が付かずに今回の地雷を踏んだ。


 PKP達をなんとなく纏めていたのがエルミナであったと知らないまま、策を弄したのがまず失敗だった。

 自分が強かだと知っている相手の前で、儚げな少女を演じたような酷い演技。それぐらいのことをした自覚はあるので、敵が自分を良く知るエルミナであることを知った時、彼女のプランは大きく違う道に舵を切ることとなった。


 つまり現状。個人でまったりと隠れ情報屋をやるつもりであったのに、何故か団体で行動している今の、この状況そのもの。

 彼等に目を付けた理由は実に簡単な理由だった。自分にとってデメリットがないから、そう持ちかけただけの話。

 上手くいったら儲けもの、失敗しても次策がある。究極、自分だけで打破出来ない状況でも無かったし、それにルーはニコニコの考えに気が付いていた。


 気が付いていた上で、抜かったねとニコニコを揶揄やゆし、でも最後には手を差し伸べた。その理由をはき違えるほどニコニコは馬鹿ではないし、また薄情でもないのだ。


「……信じられたのなら、信じないと失礼ですよねぇ」


 良いように利用するだけ利用して、将来、恩を仇で返す女だと思ったのなら、ルーは絶対に手を差し伸べなかっただろうとニコニコは思う。

 恩は忘れるものではなく、返すものであるとも思う。

 はたして、彼等が明らかに不利な状況であるとわかっていて、それでも向かっていったのは――。


「――専属情報屋も悪くない、かな?」


 彼女と共に行動しているリクが、遠くで決めた合図の通りに吠え声を上げた。慎重に身構えて、再び敵の目を眩ませる策を練る。


 どこか遠くで盛大な悲鳴が聞こえ、にまりと笑って、ニコニコはくるりとペンを回した。

































































「お、かかりましたね、あの悲鳴は」


 がさがさと獣道を走りながらそう呟く男は、ただひたすらに逃げながらも攻撃的な姿勢を崩さない男だった。

 男が通った道には罠があり、それを想定して少し道を逸れればそこにもまた罠があり、それすら避けようと更に道を外れれば、追いつくことが出来なくなる。

 慌てて直線で追いかけようとすれば頭上から大斧が降ってきて、木の枝を伝って追いかけようとすればその枝には油が塗ってあり、無理な体勢で落下して更に地上の罠にかかる。


 さて今度は空を飛ぶモンスターと共に追いかければ小さな落雷がモンスターを撃ち、大型のものは接近すれば容赦なく黒焦げにされる。

 流石にそこまで高威力の攻撃を連発するのは不可能だろうが、追っている彼等もまた、無尽蔵に大型モンスターと契約しているワケではない。

 互いに切り札の数はとんとん。後は小細工で勝負するしかないのだが、魔王と称されるフベはその小細工こそを最も得意とする男だった。


「僕みたいな頭脳派を何も考えずに追いかけるなんて、可愛いくらい抜けてますね。あんらく君だって、事前に罠張ってそこに誘導くらいはするっていうのに」


 この僕がそれくらいのこと、やらない筈がないでしょうとフベは一人ごちる。切り札には切り札で、労力は最低限。自らの手を下さなければ尚良し、をモットーにするフベにとって、現状は現実よりも楽な状況として捉えられている。

 スタミナも現実より多く、利用できるものも多く、そして何より胸が痛まない。これがかつての命のやり取りと同じ状況ならば、考えることもまたあっただろう。


 しかし此処はありがたくも意識だけが存在する世界。悪役を演じても、どれだけ酷そうな事をしても、まあそこそこは許容されるゲームの中。

 狛犬と別れ、森の中でひっそりと罠を仕掛けまくった後、出来るだけ多くの敵さん達の前に腹の立つ感じで登場すれば、頭に血が上った彼等は何も考えずにとりあえず追いかけてくる。


「真正面から名乗り上げて魔法の打ち合いやら、剣の打ち合いやら、ファンタジーだからって夢見過ぎなんですよ」


 正々堂々お前等を潰す! とか言って、敵陣に踏み込む馬鹿は早死にする馬鹿。力に驕ればいつか足元を掬われるし、大事なのは自分に何が出来て何が出来ないのか。

 出来ることを正確に、出来ないことも正確に、しっかり把握してこそ自分の真価が発揮される。


 罠の間をすり抜けて、フベは全力で森の中を疾走する。手の中には小さな煌めき、頭上高くには羽ばたきの音が聞こえ、しばしの相棒の存在を感じ取る。

 大鳥が一気に高度を下げ、途中罠にかかって死に戻りしたプレイヤーの荷物をその巨大な鉤爪で掻っ攫う。

 そのまま器用に飛びながらも自分の巨大な斜め掛けに放り込み、満足そうに高く鳴く。


「デフレ君! 良いもの見つかりました? 対価分より多くなったら協力してくださいよ!」


 高く鳴き、フベの声に返事をするのは流れの商人ならぬ、商鳥、ディル・フリック・レイスター。略してデフレ。

 巨大なわしのようなモンスターだが、鳥の肩には革で出来た巨大な斜めがけが装備されていて、その袋には様々な商品や戦利品が入っている。

 街の人曰く、戦場の掃除屋。戦場に転がる荷物や武器をどこからともなく現れて回収し、時に自分で加工、時にそのまま売り買いするあきない鳥。


 フベと交わした1度だけ有効という限定的な約束は、もしフベが助けを求める合図をした時、近くに居たら必ず駆けつけて助けること。

 代わりに、フベはその時に使った商品分の対価を3倍で返し、それで約束は果たされたとする。

 そして、陸鰐との戦闘時、その約束は果たされた。商魂たくましいのか、デフレは約束を違えずに合図に従い助けに来た。


 その時に使ってくれた商品の遠慮の無いことからも、毟り取る気満々であったのはわかる。しかし、事の問題はそこではなく、彼が人との約束を守ったという部分だった。

 フベはその姿勢を好ましく思い、今後の関係を要求。デフレもまたそれを良しとし、現状、期間限定の相棒となっている。


「良い商人は抱え込んでおくのが一番。さて、大分数も減りましたし、本格的な逃亡といいきますか――デフレ君! 今の見てましたよ! その薬2つ目で対価を上回る筈です、乗せてください!」


 甲高い声でデフレが鳴き、高度を下げた彼の背中に枝を伝って飛び上がるフベ。背後で最後の罠に引っかかったプレイヤーの悲鳴が聞こえ、戦利品を求めてデフレが空中で即座に反転する。強欲は身を滅ぼす。獲物に向かって周囲の警戒もせずに向かっていくデフレの背で、しがみ付くフベの視界に見慣れた斑の色が見えた。その斑色が警告するように鋭い吠え声を上げる。額に特徴的な白い模様、遠目にもリクだとわかる影の視線の先には、腕を伸ばしきり、仁王立ちするフードの男。


「――デフレ君! 急降下!」


 即座にリクの警告だと判断したフベの叫びに、デフレが慌てたようにその巨大な翼を畳んで急降下する。風を受ける羽が畳まれ、流線型となり、空気抵抗が少なくなった巨体が即座に地面に向かって急降下。

 デフレとフベの頭上を走り抜ける炎の渦を掻い潜り、今度はデフレが自己判断で攻撃してきたプレイヤーと距離を詰めようとする。

 恐らくは魔法使いか、魔術師か。詠唱を聞き取ってデフレが魔術師と判断するも、フベはあれはブラフだと上昇を要求する。


「高度上げてください! 魔法使いです!」


 敵は容赦なくスペルを唱え、風の刃が反応の遅れたデフレに迫る。

 突っ込んでいくなという悲鳴にも似た叫びにデフレが反応、即座に巨大な尾羽を広げ、空中で急ブレーキをかけて上体を反らす。

 背中にしがみつくフベはたまったものではないが、ギリギリで風の刃を回避出来なかったデフレの肩口から鮮血が零れ落ち、喉からは悲鳴が搾り出される。


「ッ……借りますよ!」


 血を零しながらも距離を取る為に無理矢理に高度を上げるデフレの背の上、フベが無理な体勢で腕を伸ばし、デフレの斜め掛けに手を突っ込む。

 指先でガラスの感触を確認、滑るそれを掴むために腕を伸ばした状態で、デフレが攻撃を躱す為に反転すれば、自ずと末路は見えている。


 魔法使いが冷静に状況を判断し、落下するフベに向けてピストルを模した指を突きつける。魔力が集中する風鳴りに続き、スペルが世界に干渉する。


「【ラファーガ】」


 押し寄せる風の渦がフベの衣服や肌を切り裂き、空中に血を撒き散らしながら落下する。地面に叩き付けられて更に体力を失ったフベに、魔法使いが追撃をかけようとするのを茂みから飛び出した斑の獣が邪魔をして、更に上空からデフレが強襲。

 それらを鮮やかに躱しながら魔法を撃ち、撤退しようとする魔法使いに、フベが呻きながら身体を起こし、爛々とした目でロックオン。


「“原色たる精霊よ!”【ブレイク】!」


 即座に唱えたスペルに反応し、小さな落雷が魔法使いの足を止めさせる。その一瞬に斑色の獣が指示を乞うようにフベを見やり、それに応えるべくフベもまた痛む身体をおしてでも叫ぶ。


「リク! 遠吠え!」


 ――オォオオォォオオオ!!


 斑の獣――リクは指示を受け大口を開け、魔法使いの攻撃を受けながらもスキルを発動。動きの止まった魔法使いに、魔法が怖くて足踏みしていたデフレが、今度こそその身体に深々と爪を突き立てて、仕留めることに成功する。

 魔法使いは死に戻りによって紫の光となり、焼け焦げた毛皮を気にするリクと、傷自体はそこまで深くないものの血塗れのフベ、満足そうに荷物を漁るデフレだけが残される。

 地面に転がったことで血と泥に塗れたフベが深々と息を吐き、心配そうに首を傾げるリクを労う為に頭を撫でる。


「リク、ですよね。額が白い……ああ、大丈夫です。上からデフレ君が相殺してくれたんで、半分くらいのダメージで済みましたから」


 風の魔法を受けたあの一瞬、上空から同じ風の魔法で威力を相殺してくれていなかったら、恐らくはもっとギリギリまで体力を減らされたことだろうとフベは思う。

 そもそもリクが警告してくれなければ最初の魔法、次の魔法も直撃し、反撃も出来ずに死に戻っていた可能性が非常に高い。


 後で労いの肉でも用意しようと思いながら、その小さくは無い斑の毛皮に顔を埋め、フベはゆっくりと緊張に強張っていた身体の力を抜く。

 リクと行動を共にしていたのは確かニコニコ。だとしたら彼女が無策のままふらふらとリクを歩かせるわけもなく、わかりやすい戦力を手放してでも得たかったものは――。


「助かりますね。互いにはぐれた相手を探す際、どちらも動いているより、片方は動かないでいた方が効率がいい……」


 ニコさんはどこにいます? と聞いたフベに、リクが嬉しそうに尻尾を振って遠吠えを上げる。

 そのまま、フベに自分の背を向けて、大人しく伏せの姿勢。意図を汲んでありがたく乗せてもらい、ゆっくりと歩き出すのを、デフレも慌てて飛び上がって追いかける。

 まず1人目との合流は、間近だった。


































































「邪悪な猫」


 暗闇を赤々と照らす炎。小さな火球かきゅうが空中でごうごうと燃え、それが発する熱と光を頼りに、冷たい岩壁いわかべに刻まれた文字を辿る。


「かつて、“知識狂いのリドーニア”は、の“獣王”をそう評した。世界の要の1つである王を、邪悪の一言で例えたのだ」


 文字を辿る指先は温かく、冷たい岩肌に熱を移しながら呟くようにそれを読み上げる。壁の一部に書かれた言葉、壁一面にえがかれた絵。そのどれもが、古代遺跡のような雰囲気を持って、それを好む者達の心を浮き立たせる。


「だが彼は一言でそのげんを終えるほど無口ではなかったし、それぞれの王を言葉を尽くして語る姿勢を持っていた。知識狂いと呼ばれる所以ゆえんである、その好奇心でもって、彼はより多くの知識を得た」


 巨大な三角。壁面に描かれた巨大な三角形のそれぞれの頂点に、三王と思しき絵が描かれている。竜王、獣王、精霊王。フベさんに聞いた知識の通り、世界はこの三王を要として回っている。


「竜王のその命は古く、精霊王は我らに似て、獣王は模倣品もほうひんである。彼等は唯一、彷徨い人と同じと言える」


 三角形の、その頂点。竜王と思しき竜が片方の手で人を救い、片方の手で人を踏み潰している。生と死を連想させる為の構図なのか、黒く描かれた竜はその表情を見せず、頭は雲の絵で隠されていた。


「選定の日に彼等は争う。争いを起こしたのは新しき神に反する者。混沌を好む“獣王”はそれをあおり、神に反旗をひるがえす者達に力を貸した」


 三角形の右下、精霊王と思しき炎の鳥がその巨大な翼を広げて、大量の火の粉を振り撒いている。創造を司る力の象徴か、火の粉の下には沢山の光が描かれる。


「新しき神に仕える勇者は、これを正す為に大規模な戦争を始めた。“竜王”と“精霊王”も勇者に協力し、力を使い果たして眠りについた。猛威を振るった“獣王”は封印され、しかし彼等の存在を人々が忘れぬように、勇者は故郷の地に1つの大きな魔術を敷いた」


 左下、獣王と思しき黒い猫が、ただそこに座っている。猫の周りを色とりどりの光が取り巻き、文字通り、祝福という言葉が合っているように思える壁画だった。

 辿っていた文字は読み上げた部分で途切れていて、削り取られたような跡があった。

 ふと、ファイアの火が消えて、辺りは静寂と暗闇に包まれる。


 じっと暗闇に目が慣れるのを待ち、再び壁に目を向ければ、そこにあるべきものがなく、ただ無機質な岩の壁だけが残っている。

 先程、このだだっ広い空間に踏み込んだ時に見たものと同じものだ。巨大モグラから逃れ、走りついた通路の果て。ケット・シー達が利用すると思われる、小さな抜け道以外が存在しない行き止まりの空間。


 休憩をしようと予備の肉を焼く為に、ファイアの魔術を唱えた時に、先程の壁画は現れた。赤い光に照らされた荘厳そうごんな壁画。それを目にした時初めて、ああ此処は本当に地上とは全く別の世界なのだと意識したのだ。


「【ファイア】」


 再びの魔術。赤々と燃える火が部屋を照らし、壁を照らし、再び歴史が現れる。感嘆の息と共にしっかりと目に焼き付け、スクリーンショットを撮って記録する。

 そこまでして、足元に転がる瓦礫に、文字が刻まれていることに気が付いた。しゃがみこみ、確認すればどうやら先程の続きと思われる文章だ。

 しかし残念ながら一文だけ、しかも続きは粉々になっているのか、ばらばらに刻まれた文字は解読できそうな様子も無い。

 仕方なくそれだけを読み上げて音声メモを取ることにして、そこに書かれた一文を辿る。


「勇者は――」


 空中に浮かび、文字を照らし続ける炎が、ぶわりと風を孕んだように膨れ上がり、壁画に長細い影を映す。長い尾、首……いや、影だから長いのか。その見知ったシルエットに気を取られ、呟きが口の中で萎んで消えるも、誰かが続きを引き取った。


『勇者は――“獣王”をこう評した』


 ふらりと消える炎。まだいくばくか残っていた火が一息に消えて、辺りは暗闇に飲み込まれる。

 影の形は猫。二足歩行の猫ではなく、見知った四足よつあしの猫の影。暗闇の中を振り返り、声の出処を注視すれば闇の中から再び声がする。


『“三角の耳、暗闇で膨らんだ黒目、緑の目が悠々と輝き、その“猫”は血肉の上に腰を下ろした”』


 静かな声。何と例えることも出来ないような声色。


『“邪悪ではあるが、奸佞かんねいではない”』


 勇者が評したと言う通り、緑とも青ともつかない色の瞳が、暗闇の中で光っている。


『“残忍ではあるが、こくではない”』


 獣特有の静けさで暗闇から一歩を踏み出し、目の前に黒猫が現れる。


『“阿諛追従あゆついしょうの輩が好きではなく、気紛れに世界を荒らす無法者……邪悪な猫と呼ぶに相応。此処で封じるのが世界のため”』




 彼は私をそう評した。




 黒猫――獣王は、暗闇の中でそう囁いた。








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