86話 『姉はお風呂で弟に…』

 弟は、姉の鼻を甘く見ていた。

 大魔王の超能力により強化された嗅覚は、人間の百万倍以上ある犬の更に百万倍なのである。


「オバケと会ってきたの?」

「それは、ええと……」


 浴槽の中、姉弟は向き合い額をくっ付けている。

 そんな体勢のまま姉から放たれた質問に、テルミはしどろもどろになった。


 妖怪の屋敷から帰る際、莉羅が「ねーちゃん、には……秘密……ね」と言っていた。『ヒーロー活動をしている桜に妖怪の事を話すと、色々と面倒が起きそうだから』という理由である。

 テルミもそれには一理あるかもしれないと思い、「はい。姉さんには秘密ですね」と莉羅と約束を交わしたのだ。

 という経緯があるので、ここで口を滑らせるわけにはいかない。


「もしかして、お姉様には言いたくないのかな~?」


 言い淀むテルミの首筋に手を這わせ、桜は追及する。


「すみません姉さん。事情がありまして」

「じゃあ体に聞いちゃおっ!」

「えっ、ちょ、ちょっと姉さん……!」


 桜は両手をテルミの首へ回し、更に接近した。

 テルミは身を引こうとするが、背中には浴槽の壁。逃げ場がない。それでも何とか逃げようとして、仰向けに寝る体勢で肩まで湯に浸かった。

 そこにすかさず桜が乗る。

 二人は湯の中で体前面を、そして湯の上で鼻先をピタリと密着させた。


 真奥まおく家の浴槽は大人が寝転べる程に広く、そして浅めに作ってある。母親が自分の趣味に合うよう好き勝手改装してしまったのだ。

 そんな母のせいで、今こうして娘息子が全裸でインモラルな体勢になっている。親の責任は重大であろう。

 まあ親を責めても仕方がない。問題は今。


「姉さん、色々当たっています」

「お互いさまよ、テルちゃん!」

「どいてください」

「ヤダヤダ~なんで?」

「もう一度言いますが、狭いです」

「狭い方が気持ち良いでしょ? ほらほら」


 桜は体をうねうねと動かし、湯の中で姉弟の肌を擦り合わせた。

 入浴剤のせいでヌルヌルと心地よい。が、その心地よさが危うい。


「……やめてください」

「あはははは、あー楽しい」


 桜は弟へのセクハラに夢中で、妖怪についての追及をやめてしまった。

 というか本当は最初からどうでも良い。例の『九蘭くらん家長いえおさ』と出会った日の一件で、桜は妖怪達への興味をほとんど失ってしまっている。

 莉羅に妖怪の友達が出来たとは聞いていたので、テルミがその件に関わっていても不思議はない。夜に出かけたのも、お友達妖怪が夜行性だからという程度の理由だろう。と、桜は考えている。

 ただ妖怪の匂いを口実にして、こうして裸で遊びたかっただけなのだ。


「ねえテルちゃん。あたしのこと好き~? 愛してる~?」


 桜は甘えるように囁く。


 その問いに答えるべく、テルミは右腕を湯面から出した。

 テルミと勇者チェルトの顔は似ているらしい。だが使命感から女性に及び腰だった勇者とは違い、テルミは結構グイグイ行けるタイプである。


「ええ、好きです。愛していますよ姉さん」


 なんて台詞を、相手の頭を撫でながら、恥ずかしげも無く言えちゃう男の子なのである。


「テルちゃん、ホント?」

「ええ、本当です。『家族として』愛していますよ」


 ……グイグイ行くが、それは異性へのアプローチ的な意味では無く、オカン的な意味であるのだが。


「もうテルちゃんったら。まあイイケド」


 桜は不満気に頬を膨らませている。

 

 喋るたび密着している胸や腰が擦れる。そして唇がたまに触れ合う。

 だがあくまでも姉弟のスキンシップ。テルミは鋼の精神力……というより母性で、変な気を起こさないのである。


「じゃあお姉様が今から手や胸を使って、テルちゃんの体を洗ってあげるね」

「ありがとうございま……胸……? 一応聞いておきますが、背中を洗ってくれるのですよね?」

「んーん。主に股間を」

「姉さん!」


 そして弟の説教タイムが始まった。

 だが浴槽の中、抱き合ったままでの説教。

 桜は怒られながらも、そのシチュエーションに満足しゾクゾクと身を震わせた。


「んー……でもやっぱり、愛する弟妹へ近付く妖怪を一度確認しとかないといけないかもね……」

「姉さん、聞いていますか?」

「うん。キいてるぅ~」




 ◇




「神様……女神……」


 徐々に涼しくなる季節。窓から曇り空が見える、そんな日の放課後。

 空き教室で箒を掃きながら、清掃部部長であるテルミがボソリと呟いた。


 夏休みが明け新学期が始まってからも、生徒会は清掃部へ助っ人を送り込み続けている。

 本日の手伝い派遣は柊木ひいらぎいずな。まあ彼女は、生徒会とは関係ない日でも来てくれるのだが。

 そのいずなを見ながら、テルミは先程の台詞を口にしたのである。


「女神? あのぉ、テルミくんどういう意味ですかぁ? それに、さっきからずっと私を見て……あ、あぅぅすみませんそんなワケないですよね、自意識過剰でしたぁ!」

「あ、いえ……ええと」


 テルミがいずなを見ながら考えていたのは、例の妖怪大将達に関連する事である。


 京都の妖怪大将狐と喧嘩をするため、「五日後また屋敷に来やがれ!」と大天狗に言われている。正確にはもう一晩明けたので、四日後。

 乗りかかった船として、そしてあわよくば争いを止めるため、テルミも参加しようと決めた。


 とすると一つ問題が出てくる。東海道の大将天狗は、真奥兄妹を『神の末裔』だと勘違いしているのだ。

 あの天狗は人間嫌いであるため、神であると思い込ませておいたままの方が何かと好都合。莉羅からも「神様っぽく……ふるまった方が、良い……かも」とアドバイスを受けた。

 だが『神様っぽい行動』とは何なのか、テルミにはとんと分からない。


 そんな時に現れた一つ上の先輩、柊木いずな。

 彼女には『女神』の力が宿っている。

 という訳でテルミは女神の行動を思い出そうとして、ついいずなを観察するような形になってしまったのだ。


 ……なんて説明を出来るはずもなく。テルミはとりあえず誤魔化す事にした。


「いずなさんは、その……女神様みたいな人だなあと思いまして」

「えええぅ!?」


 しまった、これでは意味が分からない。無理があったか。

 テルミはそう後悔した。

 だが柊木いずなは、


「そ、そそそんな、私は……え、えへへ……あの、その、えへっ……えへへへ、私も、テルミくんを……えへへ」


 かなり好意的に受け取って、顔を真っ赤にしている。

 彼女は莉羅曰く『図太い』のである。とにかく誤魔化しは成功だ。

 いずなは箒を持つ手を震わせ、もじもじしながらテルミに近づいてきた。


「私も……私もテルミくんを、お……王子様みたいだなって」



「おや、なんだか楽しそうだね」

「ひぅうううぅ!?」



 勇気を出して洒落た台詞を言おうとしていた柊木いずなは、突然の乱入者に悲鳴を上げた。


「えっ、どうしたんだい柊木さん。もしかして、私が驚かせてしまったのかな? ごめ……いや、すまないね」


 とクールな大人風の台詞で登場したのは、子供先生という不名誉なあだ名を持つ九蘭くらん百合。清掃部顧問、二十六歳独身である。


「あうぅ……変な声出して、ごめんなさいぃ」

「九蘭先生、今日もよろしくお願いします」

「ああ、遅れて申し訳ないね。さあ私も頑張って掃除するぞ!」


 両手をグッと握りしめ気合いをいれる百合。

 どう見ても小学生にしか見えない姿に、テルミは頭を撫でたい衝動に駆られた。が、なんとか我慢する。子供扱いすると、先生は泣きそうになるのだ。


「さあピカピカにするぞ!」


 自分の身長程もある長箒をせかせかと動かす教師。

 その小動物的な動作を見て、テルミもいずなもホッコリとする。それを本人に言うとショックを受けるので、口には出さないが。


「でもぉ、先生も元気になったようで良かったですねテルミくん」

「そうですね。クッキーが効いたのでしょうか」


 テルミ達は、百合に聞こえない小声で話し合う。


 夏休み終盤のある日、九蘭百合がこの世の終わりのような顔で部活に現れた。

 テルミは知る由も無いが、それは百合が家業の『暗殺』でターゲットを仕留めそこない、親戚の伯母さんに尻拭いされ、かつ嫌味を言われまくった翌日である。


 とは言えその時は、テルミが焼いてきたクッキーを与えた瞬間に顔がパッと明るくなり、


「くれるのかい? ありがとう、真奥くん……もぐもぐ……わああ、おいひい! ……はっ……う、うん。さすが真奥くん、料理が上手いね」


 と笑顔を取り戻していた。

 だがその翌日もまた暗い顔をして現れる。そしてチョコをあげたら「わああ!」と笑顔に。

 またその翌日も、更に翌日も、そして新学期が始まってからも。しばらくずっと『暗い顔からのお菓子で笑顔』コンボを続けていたのである。


「はははは、さあ張り切って掃除をするよ。だって私はオトナだからね!」


 あまり大人子供は関係ない気もするが、とにかく今日の百合はハイテンションだ。

 すっかり元気を取り戻した……ようにも見えるのだが、


「……なんだか、ヤケクソ気味にも見えますね」


 これはこれで心配になる。

 テルミは、小さな子供を持つお母さんのような気分になるのであった。

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