8

 不覚にも、眠ってしまったらしい。

 目が覚めた時は後部座席に座らされ、柔らかいシートが疲労を吸い込ませていた。体質上、自分に眠気はあるはずのない人間的要素だ。それが発生するのは、心理的な何かからの脱力に繋ぐ、いわば失神に近い。すぐ前方の運転席に――死んでも嫌だが比喩的にも数回死んでいる故に――いやらしいほど馴染み深い男が操縦していた。幅のある方に、ハネっ気のない装い、後ろだけなら伊達男か良く出来た教育者として見える。


――なぜか


 他愛もない想像だが、今ここで好意的にしてみせても、彼は媚び諂いが良く出来たとのみ見えるだろう。そのつもりもないが、何も語られないこの場がどうしてか錯誤していた。自分は見守られていたのだろうかと、息子として見えただろうかと、無いはずの虚妄が肥大する。だがそれを本当として丸め込むのが、あの化物の仕事でもあるならば、浸るのはあまりにも惨めだ。

 あの男の前で眠っていたなら、精神的苦痛だろう。海馬が記憶を掘り返して万一矛盾を見つける前に、そう強く決めた。優しさはきっと、いつかどこで、きっと、多分、疲れていて幻覚を生じさせた。そのせいだ。


 スマートフォンの電源を入れて、地図からGPSを活用する。最後に意識があった時よりかは一時間ほど経過して、地図からは現在地は自宅とあらぬ方向に向かっている。丁度、表示されているマップは陸地よりも海を示す青が過半占めようとしていた。


「鶴の見舞いに行って来る……君には会わせる人がいるから、これを」


 意識が戻ったことを見計らったか、部長が後ろから箱のような物を投げられる。

 寝ぼけ眼のまま、だが運良く片手で捕えた箱は小型だが固い。パッケージは一面黒を交えた緑と、明るい緑のロゴのみを描き、窓越しの小さな光でも輝く。箱の下部に二十歳と煙草の単語が目に入り、漸くその物を察した。


――KOOLか


 この銘柄は見たことはある。そして香りも。痺れをきたす清涼が、紫煙のセクシャルと交ざってくらりとする物だと心像が清らに吹き込まれていた。

 しかし部下に見舞いに行き、未成年の息子は嗜好品を持たせて置き去りにするのはどう言うことだろうか。だがもう彼は三輪ではなく部長なのだと割り切り、直ぐに箱をスクールバッグに入れた。あの時共にいたはずの鞄は、何一つ粉で汚れず、何もなかったかの如く出張していた。


 

 部長の手筈通り、否応なく車のドアが開き黙ってそこに降りる。着いた先は、目の前に海がよく見える公園。まだ電源を入れていたスマートフォンから地図を取り出して、位置を確認する。

 自宅や事務所よりも東、都としても東端に位置する場所に降ろされたらしい。


――涼しい


 夕刻。海浜の鑑賞観光目的に作られたここは、万葉潜む森林で都会の暑さを断つ。疲労を忘れ、まだ産みそうにもない足取りで、柵の方へと向かった。

 ほてった太陽が海へと還り、海面からそのいろは溶けて、漣のささやかさは早咲きの蝉を悼む。真昼にはしろとして浮かぶ白波に影は宿るが、水となった夕暉がはしゃいで夜を知らない。しゃぽんと、どこかで水生生物がはしゃいで憩う。

 上空には白の上に粧した雲の紅霞。向こう岸に設けられた空港から飛ぶジェット機の翼の凪が、雲らをとおらぎ世界と朝夕を共にしていた。


 十七年感通して、行ったことのない場所だ。それ以前に、海というスポットすら懐かしい。クライン・ブルーとは迂遠だが、穏やかなのはたがわない。


――アレは


 柵に沿い、陰る森林の域へと進めると一人、男がぽつねんとしていた。柵に腕を乗せ、退屈そうに背を曲げるが、それでも元の高さは確認できる。夏場の暑さか、ネクタイを外し、ボタンを開けたワイシャツをしどけなく着こなす。その下は、簡易な素材の黒スラックスの軽装。


 軽い身なりに反して、肉体が客観的に見ても出来上がった男の形をしていた。腕を乗せ肩を張った際のシャツが身の形を明確にする線を残し、腕から鍛錬の筋骨を描く。シャツの袖から出た肢体と顔の色は色素が薄い。オールバックの開けた髪型からよく映える、高い鼻梁。彫りの深い顔立ちと黒髪から、北欧が強く流れていると見えた。


「――連れを置いてきたか」


 流暢な、低い声だ。地を這う、だが不思議と纏わりついてこない、ただ一つ狙えば外さない、爬虫類の手と似た肉声。一声が、自分に向けて放たれ、下手をすれば無意識に射られる。彼が、部長の指していた人物で間違いない。

 そうなると、彼が連れと言い表す者は、自然と部長となる。ただお互いに知己となると、部長の関係者と言えば上層部か、自分の担当している小規模編成隊のみか。

 もう一度、様相を眺める。高い身長と、不遜さを醸した偉丈夫、目が、夜か終末の灰のいろに満ちている。固く結んだくちは、死人の暗喩として動きやしない。


――成程


 アイロニカルだが、その様子は類している。外見は全く逆の異なるものの、同質、死を露わに出し流していた。小難しく考える暇もない。手に下げた鞄から煙草のボックスを取り出すと、車内よりもより強い光が反射してストロボを生む。

 この煙草の銘柄はアルファベット四文字で構成されているが、名前について俗説が流布している。


「連れてきましたよ」


 一つの愛をキープ・オンリー・貫き通すワン・ラブと略称された名であるという説。部長らしい、気障った合言葉だと呆れ果てながら、男に手渡した。


「相変わらず洒落臭い」


 同じことをされ続けたであろう男――松山映士マツヤマエイジは、そう苦笑して箱を受け取った。

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