7



「脱出まで少し時間がかかる、安全に帰らせたいんだ」


 そう長くない時間だが、憂さ晴らしか作業を終えたらしい。一点物の背広を着こなすが、一切の乱れはなく返り血も液もない。後ろに撫で付けた少し癖のある金髪、碧眼の理想的西洋男性だけがいる。遺されたのは閑寂な空気のみで、部長以外に生体の動きを感じられなかった。

 小山の僅かに空いたスペースに、汚れることも厭わず部長も座る。呼吸のおとが聴こえる。休息、だが脳裏では目まぐるしく魔法か何かを張り巡らさせているだろう。


「今も魔法は分からないか。鶴じゃ説明不足だろう……魔法学は少し難解でね、今でさえも後出しジャンケンのようなものに近い」


 案の定、魔法に関係した話題を持ち出されてしまった。だから教えられないのか、と口出そうかとするが、それは若者の期待外れだと受け取らえるか、閉口する。そんな、柔い発想の下での劣等感ではない。

 部長は自分に対して、魔法について教えることは何一つなかった。魔法使いにして世話を焼きたがりな瀬谷はいるが、常人を放棄した天然の弁舌に理解は難しい。魔法学そのものが、学ぶのが極めて困難なのは伺える。


――だけど


 自分には人間の血でない何かが、混ざって生まれたことは確かだった。そもやそも、たった数年の詰め込みで駆け出しまでに成長したのは、睡眠を必要としない体質からだ。

 自らがただ一つ、化物だと実感した体質が、自分が半分化物である証なら魔力とやらも備えているはずだった。だが実際はそれすらも無視をして、別ベクトルの――この仕事に就いてしまっている。


「松川は、俺を接触することがパイプラインといった……だがアレは数年前からの計画だった」


 妙な、夢想に耽る。

 松川のあの言葉通りなら、部長が仕切る場は上層部から疎まれ、自分のような部外者からの破壊を良しとした。この松川側の部外者が多くいることで、自分を持て余していたのではと。手土産、何かあったときの取引のためのものとして利口な少年、それは価値があるだろう。松川は、それを虐待だと正論を言っていたが、彼も彼で、活動家として自分の行く方針を固めている。善の利を1として、益の利を9とした当然の考えに従う。


「あの些事か、私は松川の計画に関与はしていない」

「身代わりに俺を引き込んだのは事実だろ」


 まあそうかと、部長は笑いながら言った。結局は、自分の意思でこの化物の下に着くことになる。

 部長は、門外漢でも明らかに分かる実力を持っている。魔法としても、調査員としても、あの化物を野放しにしているのは、上層部が制御できている事実でもあった。彼は自分自身で動くことを困難にされている、なら若い人間を捕えて教育するのも得策か。

 つまりは、自分は偶然にも化物と人間の子として生まれ、偶然にも化物と別れ、偶然にも人間である母が亡くなり、偶然にも困った部長が絶好と捕まえた。


――あほくさ


 考えるのも阿呆らしい偶然の連続だ。それには何かの計画は一つや二つあるだろうが、考えたくはない。成功した計画を語ることは、成就したアベックの痴話話と同じほど不毛だ。


「だが、今なら逃げられる」


 その思考すら、見透かしてしまう上司がここにいる。この上司が、自分を変えてしまった。


「この数年の出来事は、悪い夢として終わらせられる……望むなら、彼と行くのも、私が父親として生きるのも」


 だが、一般人には甘言のはずなのに、何故こうも心に響かないのだろうか。

 松川の言葉を、ゆっくりと反芻する。彼は人間の皮を被り、本体を見せながら、これでいいと問いかけた。彼は、自分の過去を覗き見てありのまま、今の生活の状態を指摘した。それは人間が与えられるべきものじゃないと、当たり前の正論を一貫して下した。


――分かってる


 分かってない、理解していないのかも知れないが、それでも否定を豪語できる。親のいない人間の依存、子供の寂しがり屋の類ではない――確かにあの時、松川に失望したのだ。調査員として、未知の世界から来た革命家が、くだらない理由で堕ちていく様を、蔑んだ。


「ここまで来て逃げろと? その口がよく言う」


 だからここに残った。彼の模糊さは、自己を冒涜すると、ここに。それをしつこく、部長は問い掛けた。自分は強がってここに残っている、壊れる前に逃げたらどうだと。


 一番の元凶が引き込んで、煽るにも程がある。自分は人間として生きて人間を見ている、そうして見破る術を叩き込まれた。そこまでして捨てるという選択肢はないにも等しく、あると思わされたこと自体侮られている。


――逃げたいって言わせないくせに


 帰りたいと言わせないくせに、育てたくせに――ひとりになりたくないと、分かっているくせに。その幼さをどうやって、大人っぽく偽らせるのも教えられた。縋るように眉を下げなければいい、自分の行動はすべて理知に備えたものだと。狂気的な理性だと思わせればいい。

 ふと、及川の顔が浮かぶ。無意識に浮かぶ彼の顔は笑みに満ちていた。そして、硬くしようとした信念は溶けることも。


――諦めろ、選んでしまったんだいやだ、選びたくない


 無邪気を、邪念を、感情を磨り潰した。


 笑みを崩さず化物の喉元に、鋭利な刃を向けた。そこらに転がっていた、小石という灰の暗具を、生白い肌と、うっすら見える血管に這わせる。部長の肌が冷えているのか、凶器か自分かも判然出来ない、どちらも人間の熱をわすれている。だが手に震えはなかった。このまま裂くのも、不意打ちに首を絞めるのも、呼吸と共に行える。


「いつか、殺してやる」


 ゆっくり、怒りを冷静な炎に変えようと噛み砕く。掌に汗を滲ませないように、物騒の一言を吐き捨てるように。


「その為にここに来た、俺のためだ、アンタじゃない」

「無論、君の為にすべて用意した」


 部長は細やかな自分の腕を掴み、当てられた剥片ごと首の真横に引き裂いた。


「だから君の為に殺されてやろう」


 肌に、血がどろりと垂れ落ちる。いやに、首のくせに静かな出血をするが、口からも多少流す。それでも逆流による窒息、あらゆる痛覚への苦痛を顔に出さない。ただ、穏やかな笑みを絶えず、そして化物のように流す。

 予期しない他殺未遂にも、手は震えないが固まっていた。


――ああまた


 またと、追悔した。

 どんな人間、モノであっても、死の予感を感じた以上何も動けない。それが今の限界だと、やんわりとまた、跳ねられてしまった。

 止まった腕を横に流し、湛える血を指に付けると、傷付いて腫れた頬になする。それが超常の治癒をもたらすこともとうに分かって、身を捩ることはしなかった。ほんの少し、こそばゆさを与えられたが直ぐに腫れを引かせた。


 部下が素直をいいことに、部長は近寄って両腕を背中に回して抱きしめる。抱擁、何も危害は加えない、一般人なら安心してしまう身を委ねることを良しとする。


「君の勇姿を私は叶えたい、親として上司として、個体として、誰よりも側にいられる」


 気持ちの悪い台詞だ。まるでそこに及川はいやしないと、言っているように。確実に教え込んでいる。首を降るまでもない、何なら首固定させることも厭わないと。だがここで一番嫌悪すべきは、それでさえも安心してしまった自分だろうか。

 血が、肉体が暖かいのだ。それがどうしようもなく、二人だと思わせる。

 周囲の空気が、外の現の熱と溶けて合わさろうとしていた。もう終わる、人外と化物のつめたい処刑は終わろうとしている。そして抱きしめる熱で相殺しそうとする。


 巡って、回想される。その温かさを憶えている。実母の骨壺を抱き締める自分の頭を撫でた時と同じ、だが、それを縋ることは出来ない。何も知らなかった少年は、あの時一般人の女と死んだのだ。


 二度も安楽せまいと、意識だけはかたく張り詰めた。優しい匂いのこの男は、自分を一度引き裂いた。この男は、また今日も、自分に父親としての役割を演じ、自分は息子を強要する。ふと気を抜くと、物に木偶にされる。どんな言葉も、信じてしまう魔性から背くつもりだった。


「だから捨てはしない、約束しよう」


 ただその言葉だけは、信じることにした。

 彼は誰よりも自分を裏切るだろうが、誰よりも側にいることには変わりないから。

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