若き神官



 聖地を境に東西に分かたれた大怒海。その名の通り、鉛色に荒れ狂う波が来るものを拒む。モリアーティー公国の軍艦ともならばいかに荒れた海といえど何ほどのものでもないが、これが一般の船舶ならばあとに残るのは白波に漂う残骸だろう。

 軍艦にとって荒波よりもやっかいなのが、シークレット海帯と呼ばれる海域の存在だ。常に深い霧が立ち込め一メートル先の視界すらあやしい上にあらゆる計器類が異常を示す魔の海域である。通信機、レーダーの類は言うまでもなく、古典的な方位磁石すら狂ったように回転してしまうので始末に負えない。モリアーティーの有名な童話「幽霊船夢幻号」はこのシークレット海帯にまつわる伝説がモデルだ。大昔のガレオン船が骸骨船長を乗せて永劫の時をさまよっているという伝説だ。ガレオン船はこの世の全てとも呼べる宝を山のように積んでいるとされ、一部のオカルトファンは、その宝こそ青生生魂アポイタカラだと考えていた。思想は自由である。

 モリアーティー海軍第一艦隊旗艦アストラプサトーは、珍しく、そして不気味なまでに静かな東大怒海上を北西へと航行していた。最も先行するのは第三艦隊。その後ろに第五艦隊を吸収し最大勢力となった第二艦隊。第一艦隊は最後衛に位置している。一方で、第四艦隊は大きく離れた位置を取っていて、聖地の西側、西大怒海に展開中だ。

 旗艦アストラプサトーの戦闘指揮所は一角に神官専用室を備えている。第一艦隊司令官にして聖地攻略作戦総司令を務める司兵卿ラムは、神官専用室のデスクトップマイクをオンに切り替えた。

「アストラプサトーより各艦。これより我が艦隊はシークレット海帯に最接近する。万が一異常があれば、速やかにこの海域から離脱せよ。報告は事後で構わん」

 シークレット海帯の濃霧は時間と共に範囲が大きく変動するため、十分に距離を取った航路とはいえ油断ならない。

「なかなか様になっとるの、ラム殿。よっ! あっぱれ! 立派なものじゃ! わしも後顧の憂いなくいつでも死ねるわい」

 ホッホと朗らかな笑い声が通信機から弾ける。

「秘匿回線をこんなことに使わないでくださいよ、プーゲン様」

「いやぁ、わしんとこに部下として配属されてきたばかりのラム殿が思い出されるわい。懐かしさのあまり、うっかりするとラム殿の赤っ恥話を通常回線で全軍に垂れ流すことになるやもしれん。ラム殿の名誉のため、念には念を入れて秘匿回線を使っていることに礼を言って欲しいくらいなのじゃが」

 司宮卿プーゲンは、先代の司兵卿である。現司兵卿のラムはかつてプーゲンの直属の部下だった。仕事の流儀の全てをプーゲンから叩き込まれたラムは、無様な姿も余さずプーゲンに晒してきた。

「昔の話でしょう。忘れてください」

 プーゲンは再びホッホッホッと笑った。

「緊張感が足らんな、ラム卿、プーゲン卿」

 ぴりっとした低音が秘匿回線に割り込む。

「何じゃ固いやっちゃのう、シャカ卿。聞くか? 昔ラム殿が設備見学にきた女性を下着姿にひん剥こうとしたセクハラ話」

「ちょっと!」

 兵部省・技術開発局は、研究開発の一環としてパイロット製造施設を持っている。施設内のクリーンエリアに入る際、職員は通常の作業着を脱いで下着姿になってから無塵つなぎを着るルールなのだが、外部の見学者の場合はそこまで求めず、上着のみ脱ぎ、ワイシャツ等の上からつなぎを着てもよいことになっていた。当時新人職員だったラムは、施設視察に訪れた公政省の女性職員に対し、案内が始まるや開口一番に「それではとりあえず下着姿になっていただいて――」とルールの勘違いプラス色々と言葉足らずの迷発言を繰り出したのである。ラムは今でも突発的にその時のことを思い出し、穴があったら入りたいいたたまれなさに襲われる。

「何かと思えばそれか」

 呆れたような声はシャカである。

「有名な話だ。あれをきっかけに、兵部省における各種の導入教育訓練は殊更入念に行われていると聞く。教育訓練はやり過ぎて困ることはない故、結果的にはラム卿の功績の一つとも取れるだろう。プーゲン卿が気軽に茶化してよいネタではないと思うがな」

 真面目に評論するな! っていうか有名なのか! ラムは声にならない叫びをあげなら頭を掻きむしった。シャカはフォローのつもりなのかもしれないが、かえって傷に塩を刷り込まれている気分だ。

「それはそうとてプーゲン卿。お前の第三艦隊が最も危険な配置なのだ。天宮強襲の例もある。好々爺然とするのはこれくらいにして、気を引き締めていけ」

と、シャカの通信がぶつりと途切れた。

「何じゃあいつ、言いたいこと言って切りおった。まぁ良い。ラム卿よ。シャカ卿は堅物じゃからあの通りごちゃごちゃとうるさいが、此度の戦、総司令は司兵卿たるそなたじゃ。大公殿下がおそばにおる故少々やりにくいかもしれぬが、裏を返せばそなたの実力を披露するまたとない機会とも言える。大胆に力を奮え。多少の無理は年寄りどもが道理としてみせるわ。そのためにわしやシャカ卿がおる。ほれ力を抜かんか」

 ラムは、デスクトップマイクを握る自分の手がじっとりと汗ばんでいたことに、言われて初めて気づいた。手を開くと、コードの痕が赤く残っていた。

「ところで、あのカールの者たちはどうじゃ? 特に勇者ペールの末裔は、まだ年端もいかぬ少年にもかかわらず天宮戦では多大な戦果を挙げたそうじゃの。血筋に違わぬ評判よ。できればわしの船に欲しいのじゃが。ぜひ前線で力を奮って欲しいものじゃ」

「プーゲン様、誤解があるようですが、その少年はペールの末裔ではありませんよ。ジョージ・パーキンソン。ロト様と共闘してシェルターを守り、天宮中に溢れる新型オークを剣一本で根こそぎ葬り、近衛隊長マチルダ・アクール軍監の窮地をも救ったと聞いています。彼個人の力は疑う余地はありませんが、使用兵器が携行火器に限定される天宮戦とは状況が全く異なります。本作戦への参加は本人の強い希望だったそうですが――正直なところ、乗船を許可したフィネラス大公殿下は何をお考えなのか」

 腕が立つだけで、軍事機密の塊である軍艦に乗せるものだろうか。それも、現場の兵たちの不満を封じるために幹部階級までわざわざ与えて。

「これこれラム卿。殿下には殿下のお考えがあるのじゃよ」

「プーゲン様にはお分かりなのですか」

「知るかい。わし、殿下じゃないもん。まぁ、連中は近衛隊所属である故、面倒を見るのはアクール軍監じゃ。イレギュラーに心乱されることなく、お前はお前の仕事を遂行するのじゃ。とは言え、イレギュラー筆頭である大公殿下については、神官としての立場上、その動向を注視する必要があることはゆめゆめ忘れることのなきよう」

「心得ております。なお、配置転換は柔軟に行いたいと考えております。本気でパーキンソン三視らをご所望でしたら検討いたしますが、一班のみの異動は非合理的なため近衛隊全隊の異動が前提となるでしょう。その場合、当然大公殿下もそちらで引き受けていただくことになります」

 最前線の第三艦隊に国家元首を配置するなどありえないので、これはラムなりの皮肉だ。

「あーあーいらんいらん。殿下はそちらで丁重にもてなせ。ほれアピールアピール!」

 プーゲンは面倒事は御免とばかりに通信を切断した。



「動きがないのも過ぎたものだな」

 アストラプサトーの戦闘指揮所でモニターを見ながら呟いたのはモリアーティー大公フィネラスである。マチルダはフィネラスのそばに控えていた。機能性重視で省スペース化が徹底されている軍艦内ではぞろぞろと護衛の兵を引き連れる余裕はない。フィネラスにはマチルダが一人で付き従っていた。カールの三人を直接監督することはできていないが、班長に据えたフロルは信頼できるし、通訳としてフィラーも随行しているので、ジョージが突然臥竜天星の修行でも始めない限りは問題ないはずだと信じていた。

「ですな。何もないのがかえって不気味です。小競り合いくらいは起こるだろうと思っていましたが」

 応じたのはニーヴィス・バーリマン士監だった。バーリマンはアストラプサトーの艦長だ。一兵卒からの叩き上げで監級将軍まで上り詰めた稀有な例である。巡兵での入隊の場合、普通はどれだけ出世しても一視止まりと言われるので、その四階級も上に到達したバーリマンがいかにイレギュラーかという話である。

「私も世間で話題になる小説や映画の類は興味深く目を通しているのだがな、」

と、フィネラスは苦笑した。

「フィクションならばこのシチュエーション……波乱の前兆だ」

 マチルダは心の中でうなずいた。嵐の前の静けさというやつだろう。

 バーリマンが答えに窮したのか頬を引きつらせている中、神官専用室の扉が開いた。

「しかしこの戦は筋書きの決まったフィクションではありません。観客のいる余興ではないのです。わざわざ苦戦を演じ、奇跡の大逆転どんでん返しを強調する必要はない。敵が動かないならばそれで良し。我々は存分に敵を討つのみです」

 黒いローブをなびかせながら現れたのはラムだ。襟元に光る白銀のバッジがよく映えた。

「その通りだ、ラム卿」

 フィネラスは満足げに頷いた。

 第三艦隊と第二艦隊が全速前進するのに合わせ、第一艦隊に配備されている三隻のアストラプサトー級軽巡洋艦が一斉に障壁貫通ミサイルを発射した。障壁貫通ミサイルは入れ子構造の弾頭で構成されており、ミサイル外殻が魔法障壁に接触すると、障壁の魔力波を読み取り逆位相の波を障壁にぶつける。局所的に障壁を中和するのと同時に入れ子のミサイル内部を押し出す。この一連の機構を弾頭の入れ子の数だけ繰り返すため、最終的に多重障壁を突破することができるのだ。膨大な魔力を持つ冥王に攻撃を到達させるために技術開発局が開発した特殊弾頭の一つだ。障壁貫通ミサイルの斉射が、開戦の合図となった。

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