第27話 兄妹のひととき
――Side 幸希
「もうちょっと、我慢してくださいね」
「……うん」
私が丁寧に拭っているのは、項垂れながらソファーに座っているレイフィード叔父さんの頭。
あの豪雨と騒動の中、予想通り……、神としての記憶と力を取り戻したレイフィード叔父さんは、アレクさんとルイヴェルさんに敵意を向けていた。
話し合いなどではない、実力行使という名の戦闘行為を。
その現場に駆け付けた私は、レゼノスおじ様やセレスフィーナさんに協力して貰って三人を問答無用で捕獲し、レイフィード叔父さんだけを別の部屋に移した。
まずは全身ずぶ濡れのその身体をバスルームで温めて貰ったのだけど……。
濡れたその髪だけは、拭う事も、梳く事もなく。精神的に疲れきっているのは丸わかりだった。
当然、かもしれない。一気に蘇った神としての記憶と、あの日の出来事を受け止める事は、レイフィード叔父さんにとって、耐え難い苦痛だったのだから。
レゼノスおじ様の言う通りだ。アレクさんとルイヴェルさんへの被害を考えるあまり、レイフィード叔父さんの……、お兄様の痛みを、その思いの行き場を、失念し過ぎていた。
「はい、終わりました」
「有難う、ユキちゃん……」
タオルを引いた後の、その持ち上がった綺麗な顔には……、今にも壊れてしまいそうな、硝子の感情がひとつ。私は、切なげに揺れるレイフィード叔父さんの瞳を見つめながら、愛しい家族の頬を両手に包み込んだ。
「ごめんなさい……」
「ユキ……、ちゃん」
「レイシュお兄様が心から私を愛してくれている事を知っていたのに、あの日の辛さを抱え続けている事を知っていたはずなのに、酷い事を言ってしまって……、ごめんなさい」
レイフィード叔父さんが、いいえ、レイシュお兄様が目覚めた際、アレクさんとルイヴェルさんを呼びに行く前に、私は念押しも込めてこうお願いした。
『悪いのは全部私なんです。だから、絶対に二人を傷付けないでください』
――と。
今思えば、本当に何もわかっていなかったと思う。
私は、私の事情ばかりを優先させて、レイシュお兄様に無理を押し付けた。
一方的な私の思いばかりでは、意味がなかったのに……。
「レイシュお兄様の心を置き去りにして、本当に……、ごめんなさい」
「……」
ぎゅっと、自分の両腕の中にレイシュお兄様の頭を抱え込み、私は謝り続ける。
逃げるようにして眠りに就いた私とは違い、この人は深い悲しみと憎しみの情に苛まれながら
そうさせてしまったのは私で、今もまだ、苦しませているのは……。
謝る以外の言葉は見つからずに、じっと、レイシュお兄様の頭を胸に抱き締めながら、私は一粒の涙を零した。
「ごめん、……な、さいっ」
この優しい家族(ひと)に、アレクさんとルイヴェルさんを許してほしいと願うのは罪。
憎み続けるのも、許すのも、全部……、レイシュお兄様が決める事なのだから。
でも……、その思いが、また、アレクさん達に敵意として向けられる事になったら。
(レイシュお兄様を傷付けてしまう事になっても、私はその目の前に立ちはだかる……)
それがどんなに残酷な事かわかっていても、必ず。
「大切に……」
いざという時の行動は決めてあるはずなのに、それを伝えられずにいると、腕の中でじっとしていたレイシュお兄様が身じろぎをしながら顔を上げた。
とても寂しそうな……、今にも泣きだしてしまいそうな顔。
「僕は、君の事を誰よりも大切に、守りたいと願っているのに……、駄目だねぇ」
「レイシュお兄様?」
「今、君の心を一番苦しめているのは、僕だから……。駄目だって、大好きな君を救ってあげられるのは、そうする為には何をすればいいのかなんて、わかっているはずなのに……。僕は、許せないんだ」
「……レイシュお兄様は、いつだって私の事を優先して、思い遣ってくれています。レイフィード叔父さんとして、幸希として出会ってからも、ずっと、ずっと……。神としての記憶を取り戻した今日だって、私の為に、怒ってくれたじゃないですか」
苦しめているのは、私の方。
私の事を心から大切に、大切に想ってくれている人を、自分の事情だけで傷付けた。
レイシュお兄様は、私の我儘で動く人形なんかじゃないのに……。
「あの時、私の事に関わったアレクさんとルイヴェルさんを許せない気持ちは、レイシュお兄様だけのものです。だから、それを綺麗さっぱり消してくれ、なんて、もう……、私には言えません」
出来る事なら、また昔のように……、天上で皆が仲良く暮らせていた、あの頃にように。
そう願うけれど、口にする資格はない。
「ただ、これだけは言わせてください」
まだ、私は言っていなかった。全部自分のせいだと言うばかりで、アレクさんとルイヴェルさんの身の安全を優先してばかりで……。
大切な事を、きちんと伝えていなかった。
「あの時……、アヴェルオード様が暴走を引き起こした際に、レイシュお兄様が十二の災厄を鎮めると言ってくれたのに、それを拒んで、ごめんなさい。無理をするなと気遣ってくれたレイシュお兄様の手を振り払って、勝手な事をして、あの辛い現実から逃げる為に……」
「ユキ……」
「大好きなレイシュお兄様に、決して見せてはいけない光景を見せてしまいました。私を一番大切に、深い愛情で育んでくれたレイシュお兄様に……、私は残酷過ぎる結末を強いてしまったんです。私が取った選択が、今も……っ」
ぶわりと大粒の涙が浮かび上がり、止め処なく次から次へと零れ出す。
ぽたり、ぽたり、悲しそうな顔のレイシュお兄様が、瞬きすらせずに自分の頬や額に涙の雫を受けながら、その手を私の頬へと伸ばしてくる。
「悲しかった……。目の前で、アヴェルの手に貫かれた君を見た時、世界の全てが砕け散るかのような、絶望の音を聞いた。だけど、もっと辛かったのは……、自分の方が十二の災厄を鎮めるのに相性が良いからと、君が自分の身を犠牲にした事。……僕の見ている前で、僕の腕の中で、手の届かない所へ、旅立ってしまった事」
涙の滲む声音で語りながら、レイシュお兄様の瞳に揺らめいたのは……、私への怒り。
何故自分の言う事を聞いて治療を受けなかったのか、何故、その手を振り払って勝手な事をしたのか、何故……、耐え難い地獄の苦しみを自分に与えたのか。
アレクさんとルイヴェルさんを憎みながらも、この人が本当に憎んでいたのは、その怒りをぶつけたいと思っていたのは、――私だった。
「ごめんなさい……っ、ごめんなさいっ、レイシュお兄様っ。今まで、ずっと、ずっと……、苦しかったんですよね。私だけ楽になって、その代わりに、一番大切な家族をっ」
頭でわかったふりをしながら、その残酷さを身に沁みて感じたのは、今、この時。
レイシュお兄様がゆっくりと立ち上がり、自分の胸に私を強く抱き締める。
きつく、強く……、骨が軋むほど、掻き抱かれた。
「いつもなら、……謝る君を笑顔で許してあげられるけど、あの日の事だけは、駄目だよ。あの二人を許せないように、君の事も、僕はまだまだ……、許してあげられない」
「はい……。レイシュお兄様が望むなら、その怒りに焼き尽くされても、私は構いません」
「……」
そう告げてから、後悔した。また、この人の心に爪を立ててしまった、と。
案の定、レイシュお兄様はぴくりと片眉を怒らせて、じっと私の事を睨み付けてきた。
思わず身を引きかけたくなったけれど、この腕の中は檻のようなもの。
アレクさんに弱音を全部引き出された時のように、私の背中にはダラダラと冷や汗が伝う。
「ご、ごめんなさい……」
「許しません」
「うぅ……、じゃ、じゃあ、お好きなようにっ」
非常に気まずい時間が数分ほど流れ、ようやく聞こえたのは、レイフィード叔父さんの溜息。
呆れているような気配はあるけれど、怒っている様子はない……。
「僕が君を傷付けられるわけない、って……、知ってるよね? レイシュルーフェとしても、レイフィードとしても、僕は君の事が大好きなんだから」
「は、はい……。ごめんなさい」
背後のソファーに再び腰を下ろすと、レイシュお兄様は溜息を何度か繰り返しながら、その両手を広げた。多分、おいで、という事なのだろう。
おずおずと、本来なら安心出来るはずの温もりに不安を感じつつも、ゆっくりと身を委ねる。
硬い指先の感触が、昔のように私の長い髪を慈しむように梳いた。
「……あの二人の事、許してほしい?」
「え……?」
その意外な言葉に驚いで顔を上げようとしたけれど、ぽふんとレイシュお兄様の胸にそれを押し付けられてしまった。
「今すぐに許す事は無理だけど……、君が僕のお願いを聞いてくれるなら、許す努力をしてもいい」
「……私は、レイシュお兄様にこれ以上の無理をさせる気は、ありません」
「いいから聞きなさい。僕が納得出来る交換条件だ。それを受け入れた瞬間から、約束を破る事は許さない。絶対にね……。もし破ったら、その時は……、お仕置きだよ」
「……」
少し脅しめいた内容なのに、その音はとても優しくて……。
本当に良いの? レイシュお兄様は絶対に無理をしている、また、私の為に。
でも……、ようやく顔を上げた私に注がれている穏やかな視線の中には、それだけではない何かが存在しているかのように見えた。
「私は……」
「早くしないと締め切っちゃうよ? 五、四、三……」
「え、ぇえええっ!?」
「二、一」
「や、約束します!! しますからっ!! で、でも、無理だけはしないでください!! レイシュお兄様の心が許せると、そう思い始めたらで良いんですからっ」
滑り込みセーフに入ったのかはわからない。
けれど、捲し立てるように叫んだ私の言葉に、レイシュお兄様は「よく出来ました」と、保護者全開の笑みで頭をくしゃくしゃと撫でにかかった。
なんだか……、上手く乗せられた、というか、嵌められたような、気がする。
「それじゃあ約束をしようか。愛する家族を悲しませた罪は、相当に重いよ。覚悟して聞くように」
「は、はいっ」
ニヤリと、人の好さそうな笑みからは程遠い、ある意味で悪魔の微笑と表現してもおかしくない深みのある笑みを向けられた私は、ぞくりと全身を恐怖に震わせた。
もしかして……、物凄く自分に不利な約束を押し付けられるのではないだろうか。
いや、でも、元々、レイシュお兄様からの罰は何でも受けると自分で言ったわけだし……。
「お手柔らかにお願いしますっ」
「はい、却下。僕の怒りを鎮める為だと思って、全部受け入れて貰うよ。ねぇ? ユキちゃん」
あぁ、これは……、レイシュお兄様としてだけじゃなくて、姪御愛に溢れた、家族大好き溺愛叔父さんとしての『お願い』でもあるのだろう。
サァアッと、身体の内側が一瞬で氷点下の世界に落ちたかのように、私は青ざめながら、首を何度も縦に振ったのだった。
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