第3話繊月

 夜、瑠璃は温室に足を運んだ。

 瑠璃茉莉の葉を柔らかに撫でる。瑠璃の名前から樹人が買ってきた花は寒さに弱く、そしてその割に生育旺盛である。花の後には切り戻しをする。

 温室からは星がよく見える。月も細い繊月と慎ましやかに輝いている。

 紺青の夜に粉砂糖がまぶされた夜空は、この土地の空気の澄み具合を表している。雲母のように綺羅として、瑠璃の心を慰める。瑠璃は白い綿麻の寝間着に水色のストールを羽織っていた。ストールはカシミアで、手触りが良い。

 樹人は檸檬ジュースを飲んだ。

 最初の一口は瑠璃の唇から。

 そうでなければ飲まないと、彼らしい我が儘だ。唇と唇が触れ合う時、樹人が真っ直ぐに瑠璃を見ていた。子供のような無垢な瞳に、なぜだか胸が痛んだ。この子は長生き出来ないのではないかと、そんな危惧を覚えた。過ぎる無垢は命を縮める気がして。彼は余りに無邪気に瑠璃の存在をねだる。

 もうすぐ黄吉と亜衣が来る。

 そのことが救いに思えた。

 大学生の従兄妹である彼らは、時折、この家を訪れる。両親不在の瑠璃たちを、叔母が気遣ってのことだ。二人とも篤実な性分で、何くれとなく瑠璃と樹人の相手をしてくれる。日常にない風が吹けば樹人との閉鎖された世界も形を変える。変えることを惜しむ自分がいることも確かだが、瑠璃は彼らの来訪を楽しみにしていた。


 戯れに繊月に手を伸ばす。

 クライ・フォー・ザ・ムーン。


 月を欲しがる子供。身の丈に合わない望みを抱くことを意味する。

 瑠璃が欲しいものはもう得られている。

 ゆえにこそ苦しくもある。


 樹人が静かに温室に入ってきても、瑠璃は驚かなかった。彼から逃れるささやかな手段として自室から温室に避難したが、樹人はそんなことに頓着しない。小さな灯火の明かりが樹人の端整な顔を影を作りながら照らしていた。瑠璃を見る双眸は相変わらず清澄で、子供と言うより赤ん坊のように白目の部分がうっすら青い。


「月が綺麗だね」


 それは夏目漱石の訳に託した符牒。

 瑠璃に捧げる言の葉。苦しくて嬉しい。樹人の生成り色の寝間着は灯火によってより暖色味を増していた。樹人自身は灯火に左右されない。堪え切れず、瑠璃は口を開く。会話の脈絡を成していないと知りながら。


「樹人が悪いのよ」

「どうして」

「どうして月が綺麗なの」

「だって瑠璃だから」

「どうして」

「瑠璃だったからだよ。……泣かないで」


 瑠璃の頬を滑る雫を、樹人が拭い、そっと出した舌で優しく舐める。瑠璃は震える手で寝間着の釦を自分から外していく。一つ、一つ外す度に肌に触れる空気が増える。樹人が見る肌も増える。こんな風に樹人に自分を晒す時、快感と罪悪感を同時に瑠璃は覚える。熱はないだろうに樹人の手は熱い。今日は花冷えで、温室とは言え常より気温は低いのに。温室の床に瑠璃の羽織っていたストールを敷き、その上に二人は身を横たえる。繊月と星々に照らされながら、生まれたままの姿で、生まれたままの夢を見る。



 明くる日は、樹人は素直に登校した。快活な彼が級友たちと笑う姿を垣間見た瑠璃は、微笑して廊下を歩いていた。樹人は学校をさぼる割に友人関係は良好だ。それは彼の朗らかで邪気のない性質によるものだ。廊下の開け放たれた窓から風が吹く。花だろうか、甘い匂いが混じっている。

 向かいから歩いてくる坂崎に気付いたのはそんな時だった。

 坂崎は瑠璃に話があるから来なさい、と告げ、瑠璃の返事を待たずに先立って職員室に向けて歩き出した。

 昼休みの職員室には弛緩した空気が流れていて、教師たちがめいめい、寛いだり書類に何か書き込んだりしていた。乱雑に散らかった机も散見出来る。


「弟とは親しいのか」


 いきなり直截に切り込んだ坂崎に、瑠璃は硬直する。坂崎はそんな瑠璃を、椅子に座って片腕で頬杖をついた姿勢で斜に見上げていた。銀縁眼鏡の向こうの瞳には、答えなどとうに解り切っていると言わんばかりだった。

 小さな溜息を吐く。


「問題だな」

「プライヴェートです」


 とん、とん、と坂崎が机上を指先で叩く。


「だから問題だと言っている。両親の不在は悪環境を招くものか」

「……」

「自分でも健全だとは思っていないだろう」


 坂崎の隣の机には湯呑が載っていて、主不在のままに飲み残された茶が淀んだ緑を見せている。瑠璃はそちらに視線を逃しながら坂崎の追及を逸らせる術を考えていた。だから、坂崎に頤(おとがい)を捉えられた時、反応に遅れた。他の教師たちは安閑として、坂崎の行動に気付かない。だからこそ坂崎も大胆になれたのだろう。目を直視する形になって、坂崎の右目が、左目に比べて色合いが異なると気付く。緑のような琥珀のような色彩だ。そう言えば彼はクオーターらしいという話を聴いたが、今はそれどころではなかった。


「放課後、保健室に来なさい」

「……嫌です」

「断っても君に良いことはないぞ。弟は欠席が多過ぎる」


 幾らか物憂げに淡々と坂崎は告げる。脅しているとは思えない悠然とした姿勢だった。

 瑠璃は唇を引き結んで、項垂れる。肯定とも取れる仕草と解っていながら、そんな風に動くことしか出来なかった。



 放課後の保健室は無人で、消毒液の匂いがどこか退廃めいたものを瑠璃に感じさせた。朱色の空気が夕刻を伝えている。坂崎は上着を脱ぎ、シャツの襟元を寛げてベッドに腰掛けていた。いつもよりくだけた恰好が大人の色香を感じさせた。瑠璃を見ると微笑する。印象が違うと思ったら、眼鏡を掛けていないのだと気付いた。坂崎の横には、苺が盛られた透明の玻璃の鉢があった。微細な切り込みが入っていて、学校の備品にしては洒落ている。


「おいで」


 驚く程、穏やかな優しい声で手招きする坂崎に従容として歩み寄る。翻るカーテン。


「実家から送られてきた。食べなさい」


 そう言って苺を勧める坂崎に、拍子抜けしながら瑠璃は苺を口に運んだ。甘く熟した味に頬を緩める。坂崎自身ものんびりと苺を食べる。

 想像したより長閑な空気が流れて瑠璃はほっとしていた。艶やかに赤い苺は、坂崎が洗ったのだろう、水滴がついていて瑞々しい印象を濃くしていた。

 けれど、それで済むことはなかった。次の瞬間には己の楽観的であることを思い知らされる。

 手首を掴まれて、抱き寄せられた。驚きもがくと、両頬を包まれて上向かせられる。唇が降ってきて、瑠璃は更に必死でもがいた。密着した、樹人以外の体温が苦痛で恐ろしい。樹人でない唇と舌がおぞましい。坂崎の舌は生き物のように瑠璃の口中を這う。互いの苺の味が混ざり合った。舌と果実の欠片から、くちゅ、という音が鳴り、瑠璃の顔が火照る。卑猥な気がして恥じたのだ。


「んん、ふ、」


 坂崎の力は樹人よりずっと強く、逃れられない。先生、と抗議の積りで立てた声が、逆に求めているように響き、坂崎の舌がいよいよ盛んにうねる。

 瑠璃の脳裏に昨日、樹人と見た繊月が浮かんだ。

 甘い匂いは坂崎からしていたのだと、今になって気付いた。


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