第11話 夏の手賀沼バカンス

 …忙しいフミの店も週末の日曜日は休みである。

 サダジは相変わらず浅草の会社に勤めていたが、夏を迎えたとある日曜の朝、

「よ~し、今日はみんなでバカンスに行くぞ~!」

 と、唐突に宣言し、結局王子とフミとタマイを連れ出して千葉県我孫子町の手賀沼湖畔へと出掛けて行ったのである。

 …その頃の手賀沼はまだ水がとてもきれいで、千葉県が誇る観光景勝地であった。

 さっそく湖畔のボート小屋で手漕ぎ舟を借りると3人を乗せ、サダジはオールを握って張り切って漕ぎ出した。

 王子は舳先に陣取り、下を覗くと水が深さ2メートルほどの湖底まで透き通り、たくさんの水草がそよいでいるのが見えた。

 …沼の中央まで来ると、サダジは漕ぐのを止めて、

「じゃあ俺はひと泳ぎしてくるぜ!」

 と言って着ていたアロハシャツを脱いだ。

 下にすでに海パンを穿いていたサダジはそのまま水の中にドボン!と飛び込み、舟の周りをスイスイと泳ぎまわる。

 …空にはいくつもの綿雲がゆっくりと流れて時おり太陽を遮ると、水面を渡って吹く風が心地良く、揺りかごのようにたおやかに揺れる舟の上で、王子とフミとタマイはいつしかウトウトとまどろんでいた。

 …だが、この幸せなまどろみの後、一転して地獄のような悲惨な展開になることを、この時はまだ誰も知るはずは無かった…。


 …ボートの3人はすっかり眠りこけていたが、最初に目を覚ましたタマイの 叫び声で飛び起きた!

「大変です!…舟が流されてる!」

 フミと王子がハッと驚いて周囲を見ると、確かに舟は沼の中央から大きく流されて、ボート小屋とは反対側の青草繁る寂しい沼岸近くまで移動していた。…さっきまで良かった天気の方も、いつの間にか灰色の雲が上空に立ち込め、やや強くなった風が舟をさらに岸辺の藪の方へ押しやろうとしていた。

「あんた、ボート漕げる?」

 フミがタマイに訊くと、

「いえ!」

 あっけなくタマイが答えて、舟の上に一瞬気まずい沈黙が流れた。

「……………!」

「お父さ~ん!」

「叔父さ~ん!」

 …3人は慌てて沼の中央に向かって力の限りに叫んだが、もはや水面の向こうの舟や人などは豆粒のように小さく遠くになってしまって、サダジの姿がどれかも確認できず、風上方向への声などとうてい届きそうも無かった。


 漕ぎ手を失った哀れな漂流ボートは、ゆらゆらとさらに風に流され、葦が水岸にわしゃわしゃと揺れている薄気味悪い沼端の水面から突き出た木杭にコツンと当たって止まった。

 …フミは木杭を手で掴むと、ボート下の水中を覗き込んだ。

 そして顔を上げると、不安で半ベソ状態の王子とタマイに言った。

「私が助けを呼んでくる!…お前たちはそれまでこの木杭を掴んで待ってなさい!」

 フミはスカートの裾をたくし上げると、サンダルを脱いで舟から水の中に慎重にゆっくりと降りたのである。

 水深はほとんど無いものの、ズブズブと膝まで水と泥に浸かりながら、ゆっくりと岸に向かって進む途中、舟の2人に、

「絶対に木杭を離すんじゃないよっ!」

 と念を押してフミはがしゃがしゃと葦藪の中に消えて行ったのであった。

 …王子は心細さに今にも泣き出してしまいそうだったが、タマイが後ろから王子の身体を抱くようにして木杭を掴みながら、

「大丈夫よ王子…私がついてるから」

 と言葉をかけた。

 だが、そのタマイすら半分涙声になってしまっていたので、王子はさらに心細くなって行ったのであった。

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