第9話 北松戸の新居

「どうだった王子!…角突きは面白かったか?」

 …おさわ家に戻ると、さく叔母に訊かれたので王子は明るく答えた。

「とっても面白かったよ!」

 …その脇ではヨシコが苦笑いするのみであった。


 新潟の山中で王子が愛されながらすくすく育ち、4歳を過ぎて元気な男の子に成長するまで、フミはほとんど休まず小岩の食堂を切り盛りして働いていた。

 夏の盆休みに、サダジが実家に帰省するときも自分は東京に残って店を開けた。

「…俺の実家で婆さんや娘たちから、王子王子!と呼ばれて可愛がられてたぞ!ハハハッ!…」

 サダジの能天気な報告に薄らムカつきながらも、じっと耐え忍んで頑張り続けた。

 …そうして店を始めて3年が過ぎ、ついにサダジと相談して、千葉県松戸市の常磐線北松戸駅前に少しながら土地を購入することにしたのである。

 …ようやく準備が整ったのだ。

 さっそく夫婦でそこに家を建てる算段をして、フミはキッパリとサダジに言った。

「私、竹之高地に子供を迎えに行くからね!」

 その顔には、闘う母親の強い気力がみなぎっていた。


 …新潟県の山中、冬が来る前のある日、竹之高地に王子の知らない女性が訪ねて来た。

「…王子!ほら、お前のお母さんが迎えに来たんだよ!」

 玄関口で応対したヤイ叔母が振り返ってそう言ったが、王子は見知らぬ来客に臆して祖母キノの背中に隠れてしまうのだった。

「本当にお世話になりました…!」

 フミはヤイとキノに深々と頭を下げると、王子の手を取り頭を撫でたが、万感の想いが胸につかえて後は言葉が出なかった。


「王子~!元気でな~!また来いや~!」

 庭先で見送るヤイとキノを振り返りながら、王子はフミと一緒に今日まで過ごした竹之高地を後にした。

 学校や畑仕事に行っている清吉叔父や4姉妹のお姉ちゃんと会えぬままに行くのが寂しかった…。


 …サダジとフミは千葉県松戸市の北松戸駅前に2階屋の家を建て、浅草の社宅から引っ越して来た。

 新潟から王子も戻って4年ぶりに家族が揃ったのである。

 …しかし、この時の北松戸は殺伐とした田舎だった。

 駅前は土を盛って砂利が敷いてあるだけの広場で、片隅には松戸競輪開催の日だけ商売をする立ち食い客相手の車輪付き屋台が何台も置いてあった。

 駅前には不動産屋と商人宿みたいな旅館がちらほら在るだけで、その周囲は葦がぼさぼさと茂る湿地だった。

「…何だかずいぶん都落ちしちゃったなぁ…!」

 サダジは新居の周りの風景を見て言った。

 …一方、フミにはまた新たな懸念があった。

 自分が3年半ほど小岩で頑張り、サダジの給与からの支出と合わせて土地は何とか買ったものの、家屋(上物)は融資を受け借金して建てたので、フミはここでも商売をするつもりで一階の前部分を店舗仕様にしたのである。

 殺伐とした周りの情景にがっかりしながらも、目の前の北松戸駅で駅員に訊いてみると、近くにはS大学の付属高校が在って朝夕は生徒らが乗り降りするとの情報を得た。

「よし、決めた!」

 …考えた末にフミは、サクサクと準備してパン屋を開業したのであった。

 その頃、船橋市に工場があった「船食パン」から菓子パン類を仕入れて売るだけの簡単な小売店としてスタートしたが、開店後まもなくしてフミに思わぬ展開が待っていた。

 …駅の反対側の松戸競輪場の周りが埋め立てられ整地されて、北松戸工業団地が出来たのである。

 …新しい工業団地に続々と工場が建てられ稼働するようになると、駅前のフミの店にパン類の注文配達や出張販売の依頼が殺到した。

 何しろまだコンビニやファミレスなど無い時代である。…駅の競輪場口側はちゃんとした店舗も無く、有るのは競輪場帰りの客らが飲むための不定期営業屋台食堂くらいで、要するに工場勤めの人たちにお昼御飯を提供するところが全く無い状況だったのだ。

 言ってみればこれは大きなビジネスチャンスである。

 しかしフミ一人ではどうにもならないことなのだ。

「よし!」

 この状況を打開するために、しかしフミが取った行動は実に素早いものであった。



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