3月3日 利己的であり、独善的であるということ

 ハロー、哲学の時間だ。

 雪車町地蔵と申す。

 あらゆる事柄を自らのために尽くすのであれば、そこには善悪正負という概念が

意味をなさないという話をしよう。


 善悪を感じない人間というのは存在する。

 理屈の上で、なにを悪と呼びなにを善とするか。これは文字にでもしてやれば万民誰しもが理解できるものだ。

 だが、理解したからと言って、それでどうなるというのだろう?


 たとえばあなたの前に、石ころがあったとしよう。その石ころの組成が炭素の塊であったとき、それは石炭などと呼ばれるだろう。しかし、あなたにとっては石ころであることに変わりはない。

 善悪とは、この石ころのことだ。


 多くの者にとって、石炭は無用の長物だ。

 しかし60年近く前の火力発電所であれば、拾った石炭にも値段を付けただろう。せいぜいがうどん一杯分と言ったところだろうが、そこに価値が生じたわけだ。

 あなたはそれを見てどうするだろう。

 どうも思わないだろうか、転がしたままにするだろうか。

 拾い上げるだろうか、喜々として売りさばくだろうか。

 善悪を理解するというのは、そういうことだ。


 価値があれば利用する。利用するためにそれを知る。概念に、それ以上の意味はない。

 では、善悪の違いとは何か。

 同じ炭素でできたものでも、石炭とダイアモンドは違う。この程度のものだろう。

 どちらにより価値を見出すかは、あなたの気まぐれと環境次第だ。

 とはいえ、善悪とは確実に存在することは分かった。物を図るスケールとして、確かにそれはあるのだ。


 けれど、そのスケールを振り回すのは誰だろう。

 自分である。

 誰かのためにスケールを掲げるのなら、他者の基準に従うことになる。

 けれども、自分で判断を下すのなら、すべては自己に責任が生じる。

 自分が自分のために、善悪というツールを使うのだ。

 善悪の判断も自分の中のスケールでつけることになる。


 であれば……それがどのような概念であっても利己的なものに限れば、プラスだとかマイナスであることに意味合いを持たないということになる。

 なぜかって? 結局は自分のために利用するからだ。


 そうして、この考えをもう一歩突き詰めれば、他人のためも自分のためである。

 誰かにゆだねたはずのスケールでさえ、それは自分で判断をしないという利己的な行動なのだ。


 人間とは、則ちにおいて原則的に、こう言った側面を持つ。いささかうがった意見であり、それこそ一面的な見方ではあるが、これを否定することは難しい。

 否定してしまえば、自我というものが危うくなるからだ。


 ならばどうするかといえば、結局これまでと変わりなく生きればいいという結論に落ち着く。

 あなたが自分を利己的だと考えようが、考えなかろうが、他人にとってはどうでもいいのだ。

 だって他人だって、利己的にふるまっているのだから。

 以上。



(はいはい戯言乙)

(せめて詭弁と言ってもらいましょうか。まあ、戯言ですよ実際)

(ははは、自覚はあったか)

(無自覚なら、もっと賢かったでしょうけどねー。それでは、アデュー!)

 

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