十六 爺様



 俺は沼のほとりに立って、大きく息を吸い込んだ。


「はは、いい風だ。こりゃあ気持ちいいや」


 燦燦さんさんと降り注ぐ日差しと、頬をくすぐる爽やかな風。目を閉じても、そこにある風景がまざまざと浮かんでくるようだ。


「ねえねえろうさんのろうさん! 海って、この沼よりもずっとずっと大っきいんでしょ?!」

「そうだなあ。何しろ海ってやつは、向こう岸なんか見えやしねえからなあ」

「ええっ、本当?!」

「あははっ。

 ところで、他の皆さんはどこにいるんだい? 姿が見えねえようだけど」

「隠れているんだよ。狼さんを連れて来ることは昨日みんなにも伝えたから、きっと水の中から見ているよ」

「そうかい。まあ、しゃあねえやな」


 そもそも河童たちは人間が嫌いらしいし、それに近付くのも禁じられているそうだからな。そりゃあ大歓迎って訳にはいかねえだろう。

 ま、こないだ村に入った時みてえに、大勢に取り囲まれて鎌や鍬で脅されるよりはまだマシってもんだ。


「んで、ヌマヂの爺様とやらは?」

「こっちだよ!」


 マリモが再び俺の手を引いて、湖畔を歩き出す。


「ヌマヂの爺様はねえ! とってもとっても大っきくて、とってもとっても爺様なんだよ!」

「オイラ達は、普段は水の中で暮らしているんだけどなあ。爺様はもう歳で泳げないから、おかにいるんだよ」

「へえ、そうなのかい」


 そこから程近い岸辺の岩場が、爺様の棲み家だった。


「爺様! 来たよ!」


 ヌマヂの爺様は、岩の上にドッカと座り込み、でかい瓢箪を脇に抱えて居眠りをこいていた。

 なるほど、随分な年寄りらしい。

 だがそんなことよりも、初めてその姿を見てまず思ったのは『うわ、でっけえ!』だった。

 何なんだこの爺様、熊よりもでけえぞ。

 まさか、河童ってのは歳を取るとみんなでかくなって行くものなのか。


「んんー?」


 マリモの声に、爺様が眠たそうにまなこを開く。


「おおーい、マリモちゃんけえ。久しいだなあ、三年ぶりくらいけえ?」

「ううん、昨日も来たよ!」

「そうけぇそうけぇ。んでえ、今日はどしただあ?」

「昨日言った、人間のろうさんを連れてきたんだよ!」

「人間ー? んー、あー……。そうだっけが?」

「うん、そうだよ!」


 大丈夫かよ、この爺様。


「狼さん、ヌマヂの爺様だよ!」

「おう」


 目の前に立つと、そのドデカさが余計に感じられた。

 座っていても見上げる程のこの図体だけでも大した迫力なのに、それとは別に、全身から滲み出る威圧感も相当なもんだ。

 なるほど、こいつはただの耄碌もうろく爺さんとは訳が違うようだな。


「んー? おめ、誰だ?」

「お初にお目にかかるぜ。七殺ななつごろしの狼だ」

「んんー?」


 爺様は、俺をジロリとひと睨みすると、瓢箪を一口、グビリとやった。中身は酒かな。

 しまったな、手土産でも持ってくりゃ良かった。

 つっても、そんな余裕なんか無かったけどな。


「なんだおめ、人間けえ」


 さっきマリモがそう言ったはずだけど。


「ああ、人間だ」

「名は、なんつうだ」

ろうだ」


 それもたった今、言ったばかりだ。

 ほんとに大丈夫なのかよ、この爺様。


「ああそうけぇ。んじゃあ……」


 爺様はやっと納得した様子で、じゃあと言って右手を上げた。


「「あ」」


 それを見たイヅナとマリモが、同時に声を漏らす。


「ん?」


 なんだい挨拶か? と思って俺は前に出ようとした、その瞬間。


「死ね」

「ぶぐぁっ!!」


 いきなり、その熊のような手で張り飛ばされた。

 それも、ただの張り手じゃねえ。それはもう、熊というよりも牛の体当りとでも言った方が良いくらいの、とんでもなく強烈な一撃だった。

 俺はその不意打ちをモロに喰らって体ごとぶっ飛ばされ、近くにそびえ立つ大岩に全身を叩きつけられた後、ボロ雑巾のように地面に倒れ込んだ。


「ぐは……。

 て……てめ……え、ガハッ!」


 口を開いた途端、肺の奥から血が噴き出してきた。

 やべえ、肋骨をやっちまったか。


「クハッ……カッ…」


 息ができねえ。体がバラバラになったみてえで、起き上がることすら……。

 くっそ、この……爺……が……。


「んー? なんだおめ、なんで生きてるだ。おら、死ねっつったべが」


 踏み潰された虫けらのようにもがき回る俺に向かって、爺がふざけた文句を漏らす。

 このクソが。死ねと言われて素直に死ぬ奴がいるかよ。


「お……い…、イヅナ…の、兄さん…よ……」


 俺は地べたに這いつくばったまま、側に突っ立っている河童の兄に声をかけた。


「んー? なんだい?」


 この野郎も、俺がこんな目に合わされたってのに平気な顔してやがって。


「昨日、マリモちゃんは確か大丈夫って言ってたよな。この子の勘は当たるんじゃなかったのかよ?」

「ああ、時々だけどな」


 今回はハズレかよ!


「くっそお……」


 俺はヨロヨロと立ち上がって、口元の血を拭った。


「良かったな、狼さん。今回は当たりだ」

「なんだと? これのどこが当たりなんだよ!」


 だがイヅナは俺の方を見ようともせず、ヌマヂの爺さんの顔をじっと見つめている。

 そしてマリモも、同じように黙って爺さんを見ていた。


「おい、おめ」


 そんな俺達に向かって、爺さんが声を掛けてきた。


「今までオラにぶたれて生きてた野郎っこなんか、一人もいねかっただど。熊っころだってひと撫ででっちまうだに。

 おめ、いってえ何もんだ?」


 熊をひと撫でって、おいおい本気かよ。


「何もんもクソもあるか、ただの人間だよ。見りゃ判んだろうが」

「人間……。嘘つけ! こんな人間があっか!」


 よく判んねえが、この爺さんは本気で戸惑っているようだ。

 クソ爺が。俺が生きてるのがそんなに不満かよ、ったく。

 と、半ば呆れながらその面を睨み付けていた俺だったが、ふと気付いて自分の体を見回した。


「ん?」


 そう言えば俺って、ついさっきこの爺さんにぶっ飛ばされてボロボロになっていたはずだよな。

 血を吐いて、息もできねえくらいに痛めつけられて。

 でも夢中で気付かなかったけど、俺はその後すぐに立ち上がって……。


「あれっ?」


 体中を撫で回す。

 傷が消えている。肋骨も無事みてえだし、それどころか体中何処も痛くねえ……。

 って。なんだこれ、体のあちこちが緑色に光っている?


「おめは……」


 爺さんが再び何かを言おうとした、その時だった。


「爺様、狼さんに痛いことしたら駄目だよ」


 睨み合う俺と爺さんの隣りで、マリモが口を開いた。


「んんー? マリモ……ちゃん?」

「狼さんには、マリモが贈り物をしたからね。狼さんを傷つけることは、例え爺様でも許さないよ」


 普段とは違う、静かな声で……。


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