十五 沼



 それから俺達は、ヌマヂの爺様とやらに会う為に上流を目指した。

 目的地の河童の里は、ここから更に山奥のそのまたずっと奥にあるという、とある沼。

 そこまでの道行きは、イヅナとマリモの河童兄妹は当然のことながら川を泳いで行くのだが、俺は川辺を走ってその後を追うことになる。


「えーっ! 一緒に泳いで行こーよー! その方が早いよー!」


 マリモは別々に行くことに御不満のようだ。だがな、俺には俺の事情ってもんがあるんだよ。


「ごめんよマリモちゃん。実は俺、泳ぎはあんま得意じゃねえんだ」


 というのは嘘で、本当はどっちかっていうと得意な方だ。


「じゃあじゃあ! マリモが引っ張って行ってあげる! それなら楽ちんだよ!」


 優しいねえ、マリモはホント可愛いよ。あと十くらい歳上だったら、本気で惚れちまいそうだ。

 だがそれでも、俺はこの有難い申し出を断固お断りした。

 何でって、当たり前だよ!

 いくら泳ぎが得意とは言っても、それは人間の中での話だ。お前らの泳ぎに付き合ったりしたら、俺は沼へ着く前にあの世に着いちまうに決まってるよ!


 案の定というか、二人の泳ぎっぷりはそりゃあ見事なもんだった。

 こないだ村で見かけた時のような、下流をのんびりと漂っていた様子とは大違いで、兄妹の河童は互いに競い合うようにとんでもねえ速さで谷川を遡って行った。

 それはもう、泳ぐと言うよりも水の中を飛んでいると言った方がいいくらいの鮮やかさで、小さな滝なんかホントにひとっ跳びで越えちまうんだぜ。

 さすがは川の神様、正に山の人魚って感じだ。


 その代り、これに付いて行く方はたまったもんじゃねえ。

 いくら脚に自信があるとはいえ、川沿いは平らな場所なんてほとんどねえ岩場の連続だ。

 俺はその岩の上を跳ぶように駆けて必死に後を追ったが、ともすれば置いて行かれそうになっていた。


「こら待て! ちょっと止まれ!」


 途中で何度も見失いそうになり、その度に大声で叫んだのだが、残念ながら相手は水の中だ。聞こえやしねえ。

 待ちやがれ、このクソ河童野郎どもがっ!

 そしてとうとう……。


「く……そっ…、もう……、ついて…行け、……っねえ」


 どれくらい走っただろう。

 さすがに体力も限界で、もう駄目だとひっくり返りそうになった頃、やっと二人は泳ぐのを止めて水の中から姿を現した。


「ぜえーっ、ぜえーっ。て……てめえら……この、ぜえーっ、や、やろ……。ぶはあっ」


 ひとこと文句を言ってやろうと思ったが、息が上がって言葉にもならねえ。


「ああ狼さん。悪いけど、こっからは歩きだ」


 河童達が止まったのは別に俺を気遣ったからじゃなくて、ただ川幅が細くなって泳ぐに泳げなくなっただけのことだった。

 それにこいつらだって相当な距離を泳いで来たはずなのに、疲れた様子なんか露ほども見せやしねえし。

 この余裕たっぷりののんびりした声を聞いたら、なんだか無性に腹が立ってきたぜ。


「はあっ、はあっ。な、何が悪いけどだ。あ、歩いた方がよっぽどマシだよ。お、お前ら、ちったあ加減てものを考えねえのか。はあっ、はあっ」


 やっと言えた、が。


「じゃあ行こうか」


 聞いちゃいねえし!


「狼さんの狼さん! こっちだよ!」


 てっきり川に沿って行くのかと思ったら、マリモが指差したのは森の方だった。


「え、そっち?」

「川を伝っても行けるけどなあ、こっちの方が近いんだ」

「へえ、そうなのかい」


 二人に続いて森へ入ると、そこにはちょっと見ただけじゃ気付かないくらいの、細い獣道が続いていた。

 ははあ、なるほど。人間に見つからねえ為の隠し小路って訳かい。


「狼さんてすごいねえ! 石の上を鳥みたいに飛んじゃうんだねえ!」


 マリモが俺の手を引きながら、嬉しそうに声をあげた。

 おやおや、見てねえ様で水の中からちゃんと見ていたのか。


「マリモちゃん達こそ、水の中を飛んでるみてえだったぞ」

「えっ、そう? そんなこと……えへ、えへへ……」


 はは、ちょっと褒めただけでこれだよ。あー可愛い可愛い。

 そんな無駄口を叩きながら、森の奥へと歩を進める。

 そのうちに……。

 なにやら景色が変わってきやがったな。

 急に陽がかげってきたと思ったら、頭上を覆う枝葉がいっそう密度を増して、陽射しを遮っているようだ。

 まだ真っ昼間だというのに、日暮れかと勘違いするほどの薄暗さだぜ。

 それに鳥や獣の声も少なくなってきたし、風も妙に湿り気を含んで、匂いまで違うように感じる。


「そろそろ、里に近づいてきたかい?」


 イヅナ兄さんに聞いてみる。


「そうさなあ。ここら辺はもう、人間は出入り出来ない所だなあ」


 出来ない? 来ないじゃなくて。


「結界かい?」

「まあ、そんなとこだ」


 なるほどね、そりゃそうだ。

 人間って奴等は、どれほどの山奥だろうとどんな難所だろうと、平気で入り込んで来ちまう。

 それに行きたいと思ったら他人様の縄張りなんてお構いなしだし、用がなくても行ったことがねえってだけで行きたくなっちまうという、おかしな頭まで持ってやがる。全く以て迷惑千万な生き物だ。

 そんな厄介な連中は結界でも張って締め出して置かねえと、河童たちも落ち着いて暮らすことなんかできやしねえだろう。

 『人間こそこの世の大迷惑』か。

 あの盗賊オヤジの言う通りだぜ。


 やがて、霧まで立ち込めてきた。

 ただでさえ木々が生い茂って見通しが悪いのに、もう周りの景色などまるで見えやしねえ。

 少し前を進むイヅナの背中さえも、霞んで見える。ともすれば見失いそうになっちまう程に。

 マリモも何故か無言になって、俺の手を引いて黙々と歩いている。

 こっちの方が近いと言っていたはずなのに、もう随分と歩き続けているような気がする。それとも、これも錯覚なのか。

 いつしか鳥の声も消え去り、しんと静まり返った空間の中で、踏みしめる落ち葉が放つグチャッ、グチャッという水音だけが、やけに大きく鳴り響いていた。


 それからどれだけの距離を歩いたのかも、どれほどの時が経ったのかも定かじゃねえ。

 冥界にも似た、昏く白い森を通り抜けた先に、その沼はあった。



 ―*―*―*―



「着いたよ」


 イヅナ兄さんの唐突な声と共に、視界を遮る深い霧と枝葉の連なりがいきなり途切れ、目の前の景色が一気に開けた。


「うっ……」


 それまでの昼か夜かも判らないような陰気な風景が、まるで芝居の幕が上がったかのように一転して明るい世界へと変わる。

 俺はあまりの眩しさに、思わず手をかざして顔を伏せた。


「さあ、狼さん」


 兄さんに促されて、ようやく慣れてきた目をうっすらと開く。

 そこには、降り注ぐ太陽を一面に浴びてキラキラと光り輝く、沼と言うよりも湖と呼ぶに相応しい、広大な水面が広がっていた。

 なんだ……これ……。

 こんな山の奥に、こんなものが……。


 水面にはいくつもの小さな波紋。魚も沢山いるようだ。

 見渡せば、この地を見守るように連なる緑の峰々。

 湖上を渡る風が、森の匂いと鳥の唄声を運んで来る。ああ、一呼吸しただけで体の中が綺麗に洗われちまいそうだ。

 陽の光が水面みなもに反射して、振り返る兄妹の姿を影絵のように照らし出す。


「ようこそ狼さん、河童の里へ! だよ!」


 マリモが沼を背にして、芝居がかった仕草で深々とお辞儀をする。

 その大袈裟な身振りさえも相応ふさわしく見えてしまうほどに、目の前に広がる景色は輝いて見えた。


「えへへー。どお、どお? 驚いた?」


 聞かれるまでもねえ。


「いや、冗談抜きで本当に驚いたよ。あんたら、こんな綺麗なとこに住んでいたのかい」

「いいとこだろう?」

「ああ」


 イヅナ兄さんの声さえも、どこか自慢げだ。

 無理もねえ。この俺だって、ここに住みてえくれえだよ。


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