己が為に、刺はある―4―
淡く春の夕闇が漂う、都会路。小腹を空かせた女学生が、今、自宅の扉を開く。
「ただいまー」
「お帰りなさーい!」
デザイナーズマンションの一室。表札は、二枚。女学生──咲夜を出迎えてくれたのは、長身短髪、キリリとした三白眼、引き締まった筋肉をお持ちの立派な体躯の、ママであった。
……。
……ママであった。
小麦色の肉体美に、白のシックなエプロンが良く映えている───
「お疲れ様、サクちゃん!」
───爽やかハンサムなママであった。
紹介しよう。彼女……いや、彼の名は、【富田玲二】。れっきとした第一次性・男性の……ママである。親しい者には「レイ」と呼ばせているこの玲二は、物心が付いた頃から美に深い拘りを持っている。この言葉遣いや立ち振る舞いも、その方が美しいからという理由で自分で身に付けた。
女性らしく、男性らしく……などという言葉は時代遅れの表現であるが、忘れてはいけない“オンナ”の優秀美が、この男には備わっている。ちなみに、叔父さん呼ばわりするとブチギレられるので(叔母さんもアウト)咲夜はレイママと呼んでいる。だからママなのだ。………だからママなのか…………???
「お弁当ごちそうさまでした。……ふぅ」
「はい、お粗末さま!どうしたの?大丈夫?」
「ああ、今日はちょっと色々あって……でも大丈夫。いつも通り軽く食べたらお店行くよ」
「そう?じゃあ美味しそうなクロワッサン買ってきたから一緒に食べましょ」
「うん」
ささっと春服のパーカーに着替え終えた咲夜は、コーヒーの香りに誘われ、玲二が待つ広々としたキッチンへ。温められたクロワッサンのバターが夕暮れの食欲を刺激する、そんな穏やかな日常。咲夜が最も大切に、想いを馳せる時間だ。
玲二は、もふもふと美味しそうに咀嚼し始めた安心しきっている咲夜を、愛おしそうに見つめ。
「サクちゃん、いつもありがとうね」
「何?」
「毎日お店のお手伝いしてくれて」
おもむろに話し出した玲二は、咲夜の向かいに座り、彼女の目線に合わせるよう頬杖をつく。お店と言うのは、もちろん洋菓子店【
咲夜は、この家が好きだ。自分をすくい上げてくれた、この人達が好きだ。何よりも大事で、何よりも守りたくて、何よりも貴いものだと思っている。───だからこそ。
「そんな事ないよ」
「あーるーのっ!トラくんもよく言ってるんだから、サクちゃんが居て助かってるって」
「トラ叔父さんも?ほんとに?」
「ほんとほんと!」
「……へへ」
「だからね、サクちゃん」
カップを片手に優しく微笑む玲二にも、それは当然伝わっている。年端も行かぬ少女の等身大の愛と恩。そして、それ以上の、見えない壁を。
「もっと、自分の好きな事をしていいのよ」
「え?……好きな事……?」
「そう。サクちゃんももう高校生でしょ?例えば、お休みにお友達と遊びに行ったり、何か習い事を始めてみたり、部活に入ってみたり、あとはそうね……」
「え!い、いいよそんなの!」
青春を指折り数える玲二を遮り、咲夜は困ったように声を荒げた。
「だってレイママ!そしたらお店の手伝い出来なくなっちゃうよ?それに家の事だって……っ」
「それよ」
「え、え?」
「ママね、サクちゃんのその責任感の強いとこ、とっても立派だと思ってる。……だけどね、」
「……」
「いいのよ、サクちゃん。青春は一度切りしかないんだから!好きな時に好きなだけ好きな事したって、バチなんて当たらないわ」
「……じゃあいいじゃん。アタシ、みんなの事好きだし、お店だって……」
「ええ、ありがとう。サクちゃんの気持ちは本当に嬉しい。それで、気兼ねなくママ達に寄り掛かってきてくれたら、もーっと嬉しい!」
「……だけど………」
「馬鹿ねぇ」
玲二はくしゃりと笑って、俯く娘の頭を優しく撫でた。
「トラくんも、リンちゃんも、ハルちゃんも。みんな貴女の事、大事な大事な家族だって思ってるわ。もちろん、ママもよ」
「……うん」
「ゆっくりで良いから、考えてみてちょうだいな。何も、いい子でいる事だけが正解じゃないんだからね」
「レイママ……」
「……ふふん!ママなんてね、サクちゃんくらいの頃はそれはもう刺激的な毎日だったんだから!あっ!これはトラくんには内緒なんだけど、来るもの拒まず去る者追わずで男も女も歳上も歳下もみーーーんな」
「ごちそうさまでした」
「え、あっはい」
「そろそろ行ってきます」
「あっ……そうね、気を付けて行ってらっしゃい!……って最後まで聞いてってよね!んもん!」
ワザと大袈裟にぷんぷん頬を膨らませてみても、咲夜は微かに笑っただけ。玄関の側の折り畳み自転車を担いで行った少女を見送り、玲二は寂しげに表情を引き締めた。
「ふぅ。サクちゃんも……」
手に残るは、コーヒーの温もりだけ。
「もう一回、恋でも出来れば……そうしたら………いや、でも………」
礼儀正しすぎる娘を憂い、小さく呟く。
「ああもう、王子様でもお姫様でも……いっそ魔王でも魔女でも何でもいいから、早く現れてくれないかしら。あの娘を救ってくれる───“運命”の人」
瀧本咲夜。どうやら少々訳アリのようである。が、彼女の隠し味の正体を知るのは、もうしばらく先の話になりそうだ。
───
─────
「はーあ。レイママはああ言ってたけどさー」
夜が更け、陽は登り、雲は流れ、朱く染まり、月が浮かび……日々は過ぎて行く。学生の一日は何に掛けても早い。
咲夜は今、黒板端の小さなスケジュールボードに目を落としていた。そこに書かれた『○○日(金) 入部届け〆切』に……思わず、うむむと口を結ぶ。
「好きな事……好きな事ねぇ」
──いや、いきなりそんなん言われても…… というのが、率直な感想だった。何せ咲夜は、富田家で暮らすようになってから、常に彼らを第一に考えて生きてきた。そもそも、“普通の優等生”を目指している理由は、ひとえに富田家の為だ。一刻も早く独り立ちし、面倒を見てもらった恩返しをするべく、清く正しく在ろうと自らを叱咤してきたのに。
まあ。今週の頭に、意味不明なアクシデントはあったけれども。それももう終わった事と言ってもいいくらい、今では何事もなく平凡に過ごせている。例の先輩と会うのは──否、会ってしまうのは、精々、朝の登校時間くらい。今週いっぱいまで続いた朝の挨拶運動は、向こうにとってはものすごく都合の良いイベントなんだろう。
と言っても、目の前を通る辺りで言われる「おはようございます」に、当たり障りなく「おはようございます」と返しているだけだから、何か起こるはずもないのだが(毎回意味深に微笑まれるのを除けば)。
(別に不満なんてないのにな、今のままでも)
玲二達は、優しい。まるでミルクティーのような、ホッとする温かさ。そうでなければ、居候の自分なんかの将来を真剣に案じてくれるはずもない。あの時の話は、『だから重荷に感じてくれるな』と、改めて伝えたかったのだろう。
だけども突然、好きにしていい、さぁ羽を伸ばしてくれと言われても、正直困ってしまうのだ。元より咲夜は、自由に飛び立ちたいのを我慢しているのではなく、空の青さを知っていて、進んで飼い主の為に鳥籠で暮らしているのだから。それとこれでは全く異なる境遇だろうに。
「でも、それでレイママが喜んでくれるなら……」
染み付いた思考回路は中々変えられず、結局自分よりも家族を優先して考えてしまっている咲夜。そうこうしている内に、帰りのホームルームが始まった。「どっちにしろもう入部届けは提出済だしなあ」なんて今更な事を悩みつつ席に着き、担任である紫乃の話に耳を傾ける。
と、そこで、前の席の者がすっと振り返ってきたかと思うと、机にルーズリーフの切れ端を置かれた。こういう時、一番後ろの席は助かるよなあなんて思いつつ、バレないよう机の下で開き見たそれに、ぱっと咲夜の目が輝く。
『 今日この後カラオケ行く人〜〜〜!!
行くー!○○ おっけー♡×× ……… 』
(……これだ!)
その瞬間、咲夜の脳裏にある一つの名案が浮かんだ。そうだ、何事も適度にこなせば文句も言われまい。ましてや心配だって!
適度に遊び、適度に手伝い、適度に勉学。きっとこれまでは、働き詰めだったから良くなかったのだろう。そうだ、そうに違いない。
咲夜はニマニマと目を細め、早速ルーズリーフに参加の意を書き込もうとして……突然立たされる。─── 一瞬、このメモのやり取りがバレたのかとギョッとしたが、何のことはない、ただの起立と礼だった。チャイムが鳴り終わると同時にワイワイガヤガヤ席を立ち始めるクラスメートらに、ホームルームが終わった事を悟り、事情を知る周辺の席の者達とクスクス笑い合う。
「瀧本さん、ちょっといい?」
「……はい」
だが、何故か紫乃にご指名を受け、笑っている場合ではなくなってしまった。
──ば、バレてたのかな、やっぱ……
念の為見えないようにメモを他の子に手渡して、色々な覚悟を決めつつ苦笑いで教卓に近付いてみる。一歩ずつ明らかになる、教師のにっこり笑顔。……いや、そんな怒んなくてもよくない?ぶっちゃけ良くあるっしょ、授業中とかにコソコソ手紙のやり取りするの……違う?
「何でしょーか、紫乃先生?」
「あのね……って、こらこら。加島先生でしょう?」
「何でしょーか、加島先生?」
「全く。それより、瀧本さん。今日が何の日かわかる?」
「え……何ですかそのめんどくさい彼女みたいな聞き方……?」
「……。部活申請の締め切り」
「ああ、ですね!」
「もう……。実はね、少し前に保護者の方からご連絡があって」
「え?レイママ……いや、れ、玲二さんからですか?」
「そう。もし瀧本さんが何か迷っているようだったら、背中を押してあげて欲しいって」
「……そうだったんですね」
「うん。だからね、瀧本さん。これ」
「……?」
さてさて、機嫌良さげに取り出されたるは、見覚えのあるA4用紙。丸に囲まれた『無所属』。右上には自分の名前。うむ、間違いない。
「私が出した申請書?それがどうかしたんですか?」
「うん……やっぱりね、このままじゃ勿体無いと思って。瀧本さんも、それで悩んでたりしたんじゃない?さっきだってスケジュールボード眺めてたみたいだし」
「あ……まあ、そうですけど……」
「……で、ここで先生から提案なんだけど!」
「はい」
「生徒会なんてどう?」
「……はぁ!?」
教室中に響き渡った叫喚が数々の視線を掻き集め、咲夜はしまった!とばかりに口を抑えた。
「生徒会?な、何でまた急に……?」
「え?だって、興味あるって聞いてたから……違うの?」
「……にっしーだなぁ……?!」
ゴゴゴ……と効果音が付きそうな気迫で背後を振り返ると、睨まれる心当たりがあるらしい学友はピャッと人の陰に隠れて消えた。
──もー!誰も興味あるなんて言ってないっしょ!?
「全く、いつの間にそんな事に……!」
「あ、待って。確かに仲西さんからも少し話は聞いてたけど、瀧本さんが生徒会に興味があるって言ってたのは彼女じゃないのよ」
「え、じゃあ誰ですか?」
「竜峰さん」
「……たっ」
「竜峰さんが、瀧本さんを強く推してたの」
絶句である。今度は驚きすぎて、もはや声すら出ない。
「……い、いつの話ですか?それ」
「初めにお話したのは………富田さんからお電話があった日だったから……そう、確か、火曜日の放課後」
「………」
騒動があった日の翌日だ。玲二と話をした次の日でもあるから、サプライズ好きなあの人が、自分に内緒で担任に一声掛けていたというのも、無論驚きはするが納得も出来る。問題は……
「ちょ、ちょっと待ってください、今……『初めに』って言いました?」
「ああ、その後ちょくちょく話しかけてくれるようになったのよ、竜峰さん。貴女の事でね」
「えっ……!?」
「先生、驚いちゃった。すごいじゃないの瀧本さん」
「あの竜峰さんにああまで言わせるなんてね」と続けた彼女の言葉が、妙に遠く聞こえてくる。その代わりに頭の中で、大音量の警報が鳴り出した。
……やばい。知らぬ間に、何かが動き出している。いや、動き出されている!?
今にも剥がれ落ちてしまいそうな仮面を抑え、咲夜は震える声で問うた。
「それで、何て言ってたんですか、竜峰先輩……」
「ん?最初は、職員室で───」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます