そして彼は彼女と別れないことを決めた。
「はあはあはあ…やっと着いた」
車で数分の距離も全速力で走れば息も切れてしまう。
途中でこちらに向かってくる車が無かったのは幸運だろうか不運なんだろうか?
工場跡の朽ちた看板は来た時と同じようにキシキシとさび付いた音を立てて揺れていた。
「はあ、はあ…よし、行くか」
一度息を整えて看板の横を通り抜ける。
工場跡内は静まり返っていた。
どういうことだ? てっきり連中が追ってくるかもしくは争っている最中だと思ったのに。
俺達がいた建物の扉は閉まっていて、近くには人影も無い。 ただ確かに誰かがいたことを示すように乗り捨てられた車があちらこちらに止まっている。
車の陰に隠れながら慎重に様子を伺っていると、
「あら~?忘れもんかい、友和きゅん?」
驚いて振り返ると、薄暗い中でもわかるほっそりとした肢体にいつもと変わらない笑みの芳樹さんが立っていた。
「芳樹さん…あいつらは?」
声を潜め手確認すると、彼は『ん~』とした表情をした後に、
「ちょうどいま話し合いが終わってな…みんなわかってくれたぜ」
「はっ?そんなわけ…」
「それでいいんじゃね?ちょうど俺達も帰るところだから一緒に帰るか?」
ニカっと笑う彼の顔には殴りあった後と思われるような痣がチラホラ見えていた。
「芳樹、女達を連れてきたぞ…んっ?なんでお前がここにいるんだ?」
呆然とする俺の横合いから、あのギラギラした痩身の男が出てきた。
「YO 修二、どうやら戻ってきちまったみてえなんだわ」
「な、なんであんたが…」
「ああ、ちょっと友達になってな~、ほら?やっぱりぶつかり合うことで高まる友情?が目覚めちゃったのよ~」
そう言うと馴れ馴れしく修二の方に手を回して仲良しアピールをするが、修二のほうは「ちっ」と舌打ちをして迷惑そうだ。
「一体…どうなってんだよ…これは」
わけがわからない。 その場にへたり込む俺を二人は無感情に見下ろすだけだ。
「……まあいい、適当な車に乗って早く帰れ、あのお嬢さんたちを連れてな」
「お嬢さん…? 白音は?白音はどうした?」
「あれ~?友和さん、どうしたんですか?」
つかみ掛かった修二の裏側からとうの白音が出てくる。
「本当だ、明と一緒に避難したって聞いてたんだけど」
白音のすぐ後からも洋子さんが出てきた。 トレードマークの眼鏡は外していて、彼女の左唇の辺りから血が滲んでいること以外は無事に見えた。
「二人とも無事で…よかった~」
ホッとして力が抜けてしまう。 同時に涙がこぼれてきた。
「だ、大丈夫ですか?どこか痛いんですか?」
涙ぐむ俺を見て白音が心配そうに駆けよって、確かめるように身体中をまさぐってくる。
滲んで歪む視界の中でも彼女が心配そうにのぞこんでいる姿が見える。
ああやっと俺は正解を選べた。 きっと おそらく 多分…いや今だけは言い切らないと。
でないと大切な人を傷つけてまでここに来た意味が無い。
「白音…」
「は、はい…なんですか!どこが痛いんですか?」
もう耐え切れずに彼女を抱きしめる。
「ひゃっ!と、友和さん!」
強く、力いっぱい全力で包み込んだ。 柔らかな肢体の感触が心地よい。
「今まですまなかった。俺はお前が大好きだ、世界で一番愛してる」
搾り出した告白は震えていた。 我ながら情けない。 でもしょうがないじゃないか、簡単に制御できるような感情ならギリギリとはいえ気づくことなんて出来なかったのだから。
「……わかりました。私も好きでしたよ。前よりもずっと…出会った時から」
なんて皮肉なんだろう。
こんな俺に好意を抱いてくれた女性を突き放したあとに似た言葉を聞くなんて。
「ありがとう……白音」
「ああ…その…まあ…ラブラブのところ悪いんだけどよ、そろそろこの場から去ろうと思うんだけど…いいかにゃ?」
「……っ!」
「……っ!」
しまった! 芳樹さん達がいたことを忘れていた。
しかもこんな人の前で…俺は…なんてことを…もっと場所とタイミングを考えていれば…。
羞恥で全身が熱くなる俺を見ながら、芳樹さんは無言だった。
洋子さんも修二も。
「まっ、続きは帰ってからゆっくりやってくれや」
芳樹さんはそういうと手ごろの車を探しにその場を去った。 洋子さんもニヤニヤとした視線を一度こちらに向けた後に芳樹さんの腕にしがみつきながら去っていく。
「……付き合ってられねえ」
最後に残った修二もあきれたような一言を残して歩いていってしまう。
そしてその場には俺達二人だけが残されてしまった。
くそっ! これならまだからかわれていた方が幾分マシだった!
後悔と恥ずかしさで俯くそんな俺の頬を白音が優しく上げてくれる。
「友和さん…大好き!」
彼女はそう言ってキスをした。
あまりにも懐かしく、柔らかいその感触を俺達は感じあう。
「それにしてもなんであいつらが引いたんだ?」
閉じられた扉の前に立つ。
扉の向こう側は静かだった。 まるで誰も居ないかのように。
「んっ? なんだこの臭い」
山の風の香りの中にほのかに別の臭いがする。 どこかで嗅いだような気がするそれは扉の隙間から漏れているように思えた。
臭いの正体を探ろうと扉に手をかけると、誰かが乱暴に肩に手を置いた。
「やめておけ…お前みたいな奴が見るもんじゃない」
修二が無表情で俺を止める。
その表情は出会ったときのように妙にギラギラとしていて、有無を言わせない雰囲気があった。
「そうそう、せっかく助かったんだから無駄に知ることは無いぜ」
芳樹さんも同じように肩に手を置き、強引に俺をその場から引き離す。
「お~い、キーの付いてる車あったからそろそろ行こうよ~」
少し離れたところで洋子さんの声が聞こえる。 それに同意するように白音の声も。
「乗っていった車は適当な駐車場にでも置いておいてくれ、後で取りに行く。それと…」
「うん、なにかにゃ~、親友との別れを惜しむのならもう少しだけ付き合ってもいいぞ~」
軽口の答えは吐き捨てるような舌打ちだった。
「違えよ、お前らが持ってきた物はあのおっぱいでかい姉ちゃんに渡してあるから、忘れずにもっていけよ、始末する時に見つかると厄介なんでな」
「冷たいぜ~修ちゃん、俺達もうマ・ブ・ダ・チだろう?大きな秘密を共有して共同作業もしてるんだぜ」
その言葉に修二の顔が歪んだ。
「ちっ、もう二度と会いたくねえよ、お前みたいな化け物とはな…早く行け!」
追い払われるように俺と芳樹さんは洋子さんが見つけた車へと乗り込む。
運転席には芳樹さん、そして当たり前のように助手席には洋子さんが乗り、そして後部座席には大事そうに『ミドリ』を入れたバッグを抱えた白音が座っている。
「んじゃま…行きますか」
車は一度目とは反比例するように穏やかに山を降りていく。
少し前までの修羅場など嘘のように山の中は静かだ。
窓を開けると木々の緑から発する香りが車内に広がっていく。
「さてと…帰ったら祝杯…じゃなくて祝煙を上げないとな、明さんが丹精込めた大事な『ミドリ』ちゃんも喜ぶだろうよ。お前らも…」
「いえ、自分達は帰ります。それと緑遊会も辞めます」
答えは思っていた以上にあっさりとしたものだった。
「そうかい、それはしょうがねえな…別れは寂しいけれど去るものは追わず、来るものは面接を通れば構わずだ」
底抜けに明るい芳樹さんの答えにホッとする。
だが不思議なことにそれでもこの決断を彼は認めてくれる気はしていた。
横では散々な目にあっても図太く涎を垂らして寝ている俺の『彼女』のその細い手からは名残を惜しむように『ミドリ』の香りが香ってくる。
きっとこの夜のことを俺は生涯忘れないだろう。
そう俺が彼女と別れないことを決めた夜のことを。
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