悪くない賭け

 明確に、私へ向けられた殺意。

 たったそれだけで意識は凍り付き、手足が震える。

 新兵訓練所でも、怒りのあまり殺意を持つ兵士がいたのだろうが、戦場における殺意とは根本的に異なるらしい。訓練所では体が動かなくなるようなことは、一度もなかったのだ。

 弓から矢が射られても、私は馬上で棒立ちのままだった。

 時間が止まったかのように、世界がゆっくりと動いていく。

 イングが、飛翔する矢を止めようと右手を差し出すのが見える。その動きは稲妻のような速さだが、残念ながら矢の方が圧倒的に速い。

 あの矢が私に突き刺さると死ぬのだろうか。いや、男の持つ弓は半弓だし、弓鳴りの音は軽いから、当たり所が悪くなければ死んだりはしないのではないか。人は死ぬ間際に、過去のことを一瞬で思い出すという。ということは、これは私が死なんとしてるということか。

 次の瞬間、衝撃がきた。

 右肩を強く殴られるような衝撃が。

 馬上で体をのけぞらせるが、落馬するほどのものではなかった。

 「親父!」

 イングが私の足へすがりつく。

 虚を突かれたジンベジが、あわてて槍を突き出し、弓を射た兵士の左胸を貫く。

 痛みはほとんど感じなかったが、やたら右肩が熱かった。

 「大丈夫だ。天幕の中に他の兵士がいないか確認しろ。書類を入れる鍵の掛かる箱があるはずだ。それを持ち帰るんだ!」

 私への殺意は消え、体が自由に動くようになったので、左手で短剣を抜いて右肩に刺さった矢をやじりに近いところから切り落とす。矢を切ったとき、はじめて右肩に鋭い痛みを感じたが、耐えられないものではない。

 「この糞野郎が!」

 そう叫ぶとイングが倒れた男を蹴り飛ばした。ジンベジの槍は心臓を貫き、すでに男が物いわぬ死体となっていることなど、お構いなしだ。

 「やめろ、死者には敬意を払うんだ」

 いずれ右肩の傷が痛みはじめ、自分で男の死体を蹴り飛ばさなかったことを後悔するかもしれないが、まだ体裁を繕うだけの判断力は残っている。死者への冒涜は、場合によっては味方の士気を上げたり、敵の戦意を削いだりすることもあるが、長い目で見ると自分たちをおとしめることになる。

 「教官殿、中には誰もいませんよ」

 ジンベジが天幕から顔を出す。天幕全体が燃え上がりはじめていた。兵士の一人が鍵のついた収納箱を運び出してきたのと、ほぼ同時に天幕が焼け落ちた。

 「シルヴィオ、合図の鏑矢かぶらやを頼む。これで撤退する」

 手際が悪く、焼き討ちが成功したとはいえないが、後方であっても私たちの騎兵に攻撃されるという印象をギュッヒン侯に残すことには成功したはずだ。ズキズキと右肩の傷が痛みはじめていた。

 「キャミロ……」

 ライドスのつぶやきを、私はきき逃さなかった。

 「ライドス君、どうした」

 少し悲しそうな顔をしたライドスが、倒れた男の方を見ながらいった。

 「この男を知ってるんです。キャミロという名前で、兵学校で私と同期でした。私と同じ大隊補佐官を拝命していたはずです。剣も槍もからきしダメで、軍隊にいるのが不思議な奴でした。弓が使えるなんて知りませんでしたが、そもそも戦闘になったら真っ先に逃げそうな奴だったんです」

 最前線から離れたここでは、戦いの強さなどよりも事務処理ができる能力が必要とされたのだろう。そして、敵襲の声とともに上官は、この男に書類を守れとでも命じたのではないだろうか。戦えないのであれば降伏すればよかったはずだが、自分に与えられた任務を忠実に守ろうとしたのだろう。

 「この男は勇敢だった。だが、命を賭ける時と場所を間違ったんだ。ライドス君、この男のことを忘れるな。君が忘れなければ、この男の勇気は無駄にならないだろう」

 もし、男の矢が私を殺していれば、この鬼角族の部隊は機能しなくなっただろう。そういう意味では、この男の賭けは悪くなかったのかもしれない。

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