西方軍団軍団長

 かつて私たちが暮らしていた、鬼角族の秋営地には何もなかったが、目の前には立派な防御陣地が構築されている。

 地面を掘り、その土で積み上げられた立派な土塁の後ろには、かなり深い壕が掘られていることだろう。土塁と土塁の隙間には、騎兵の突入を防ぐように小さな土塁が構築されており、木材を用意できない場所での法にかなっていた。これだけの陣地が構築できるのだから、ギュッヒン侯の末っ子を侮ることはできないだろう。もちろん、いい参謀がついている可能性もある。

 敵陣からチクチクと全身を貫く殺気を感じ、少し体がすくむが、馬に乗っているために無様な姿を見せることはない。

 おおよそ、敵陣から二百歩ほどの距離で隊列を止めようと号令をかける。

「全体止まれ! 隊列そのまま!」

 さきほどまでの響き渡るような声ではないが、羊のヤビツとハーラント族長にはなんとか届いたようで、二人の指示で隊列はピタリと止まった。

 中央には、二列横隊の四百五十名の羊たち。

 その左右には徒歩かちでバラバラな武装の五十名の鬼角族の女たちがいる。みな体格がいいので、この距離なら普通の兵隊のように見えるだろう。

 さらに、その外側には、きれいに整列した鬼角族の騎兵たちが五十騎ずつ待機している。だが、この騎兵も馬の扱いが巧みな老人と女性からなっており、戦闘能力にはあまり期待できない。

 実際に戦闘力として期待できるのは、羊たちの後ろに待機している鬼角族の戦士たち百五十騎だが、あれほど巧みに構築された陣地に対しては、騎兵による突撃は意味を持たないだろう。

ときの声をあげろ!」

 腹の底から大声を振り絞るが、それほど大きな声にはならない。しかし、ヤビツとハーラントが、すぐさま同胞はらからたちに声をかけると、地響きのような叫び声が沸き起こった。

 黒鼻族のメェメェという鳴き声は、それだけできくと可愛らしいものだが、四百五十の羊人たちの声が合わさると、恐ろしい不協和音となった。

 鬼角族の戦士が突撃の時にあげる吶喊とっかんの叫び声は、人の魂を怯えさせる呪詛のようだが、それが百五十人となると立派な武器となる。

 両翼の百人の声は不協和音でもなく、呪詛でもなかったが、女たちの叫び声が魔術使いの呪文のようにもきこえて、不快度を増す。潮が引くように、鬨の声は小さくなり、やがて戦場に静寂が訪れた。

「イング君、旗だ」

 こちらのときの声に驚かされたのか、敵からの殺意は消えている。下馬したイングが、手に持った旗を高く掲げた。

 休戦や交渉を求める時に示す白い旗だ。

 私も下馬するべきだろうか。いや、また敵の殺意に足がすくんでは、末代までの恥となる。馬に乗ったまま進むことにしよう。

「そのまま進め」

 私の命令に、背筋をピンと伸ばしたイングが白旗を掲げて前進する。少なくとも、二千人の四千個の目が、イングに集まったはずだ。少しだけ振り返り、チラリと私の顔を見たイングの顔は、うれしそうに笑っていた。無視され続けていた男にとって、二千人の観衆は最高の刺激なのだろう。

 その一方で私には、敵兵の殺意が再び集まりはじめ、全身を悪寒が襲っていた。

 馬に乗っていてよかった。無様にへたりこむこともないし、できるだけ平然とした表情をしていれば、格好はつく。

 敵陣まであと百歩‐‐七十五歩‐‐五十歩。

「使者のもの、そこで止まれ!」

 敵陣から怒鳴り声が飛んでくる。

 イングが止まるのを待ち、馬の手綱を引いた。

「なんの用だ。要件をいえ」

 膝が震えはじめ、とても大声が出せる状態ではなかった。だが、声が出なくなることをあらかじめ予想していた私は、相手の質問に答える内容をイングに伝えていたことにホッと胸をなでおろす。

「鬼角族の王ハーラントの代理、西方軍団軍団長ローハン・ザロフが休戦交渉にきた。オステオ・ギュッヒン殿に取り次いでもらいたい」

 イングよ、いつから私が西方軍団軍団長になったんだ?

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