黄色

 服についた血は、お湯で洗うとシミになるといって怒っていたのは、妻のアストだっただろうか。今回の反乱に巻き込まれていなければいいのだが、いまとなってはどうでもよかった。

 固まった血液は、革鎧と肌を糊のようにベッタリとくっつけている。温かい布で少しずつ血液を拭きとると、まぶしいような白い肌があらわれるが、それは死体のような白さだった。

 革鎧の右脇にある留め具を外して、鎧を取り除けようとするが、固まった血液がそれを許さない。今度は、布を鎧と体のあいだに差し入れて、少しずつ血液の糊をはがす。

 もう一度革鎧の端を持ち、少し力を入れるとバリっという音とともに革鎧が外れる。どす黒い血で染まった、もともと白かったであろう肌着は斜めに裂けていた。

「教官殿、お湯と布をもらってきました。入ってもいいですか」

 入るように声をかけると、天幕の外からジンベジが入ってきた。両手で大きな鍋を持っている。

「布を何枚か入れてます。かなり沸いてたんで、大丈夫だと思います」

 ぐったりと横たわるユリアンカの蒼白な顔に、心配そうな表情だ。

「ありがとう。包帯になる布がほしい。探してきてくれ」

 ジンベジが天幕を出ていくのを確認してから、次の手順にうつる。

 腰から短剣を取り、乾いた血ではりついた肌着をへそのあたりから真っすぐ上に切る。はりついた肌着は、湿らせた布でふやかした。首のところまで切り裂くと、布の両端を持って左右に開く。

 こんもりと盛り上がった豊かな双丘は、血の気を失って白く美しかった。

 いったん血で汚れた布は横に置き、ぬるくなった鍋の水で手を入念に洗い流す。度の強い酒でもあれば、傷口や手をきれいにするために使うのだが、ここにはそのような酒はない。こんどは、まだかなり熱い鍋の中から手ぬぐいを一枚指でひっかけて取り出し、手毬のようにてのひらの上で躍らせる。あまりにも熱い湯は、人の体を壊してしまう。十分に温度が下がるまで待って、ユリアンカの傷の上で軽くしぼると、水滴が胸のあたりに滴り落ちた。

 ここからは、ある種の賭けだ。

 血が止まっている今の状態のまま放っておき、自然に治癒するのを待つという方法もある。

 下手に固まった血を洗い流すことで、更なる出血がおき、血を失ってユリアンカが死ぬ可能性もある。

 だが、傷に菌が入っていると、化膿して死ぬことになる。

 そもそも私は医者ではないのだ。応急処置の方法なら知っているが、それだけだ。

 どちらを選んだとしても、ユリアンカは死ぬかもしれない。

 目を閉じて、ヴィーネ神に祈る。

 慈愛あまねくヴィーネよ。自分の命など、どうなってもかまいません。私に正しい道を選ばせてください。

 だが、答えなどなかった。わかっていたことだ。

 頼ることができるのは自分のみ。そして、その結果はすべて自分で背負わなければならない。

 まぶたを開き、現実を直視する。

 傷は鳩尾≪みぞおち≫のあたりから、右の乳房の下あたりまで斜めに走っている。

 鋭利な刃物で切られた傷は、ぱっくりと口を開いていた。

 骨は見えていない。

 乳房の下あたりの傷口には、黄色い脂肪がみえる。

 そのとき、数百人の兵士を治療したという外道の先生のことばが、頭の中で響いた。

 あの先生はなんという名前だっただろうか。出会ったときに五十をすぎていたから、いまは七十くくらいか。とうに鬼籍に入っているかもしれない。先生の講義が、走馬灯のようにうかびあがる。


「傷口を縫うか、縫わないかはどう判断するのかとよくきかれるんだが、私はいつもこう答えている。黄色い脂肪がみえたら、指二本の傷でも縫う。黄色い脂肪がみえなければ、包帯で傷は治る。だが、黄色い脂肪がみえていれば、縫わないと間違いなく死ぬ」


 それが本当かどうかは、今となってはわからない。だが、素人のことばより、専門家のことばの方が信用できる。傷を縫うなら、中に異物があるとダメだ。それが自分の血であろうと。

 縫い針と糸はある。

 もっと熱湯が必要だ。

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