移動
ハーラントには紙のことや、鍛冶屋とよばれる人々のあいだで、食べ物が不足している可能性については伝えなかった。いまにして思えば、やたらと小麦などを求めていたのには、砂蛇の影響もあったのではないだろうか。しかし、すべては推測にすぎない。その夜は疲れもあって、食事もそこそこに
翌朝、ユリアンカと三人の侍女を連れてチュナム集落へと出発する。ここから東はキンネク族の縄張りだから、安心して旅ができる。砂蛇もここまでは来ていないようで、三日目にはチュナム集落に到着した。
数か月ほどしか住んでいないとはいえ、自分たちの家に戻るのはうれしいものだ。家といっても、組み立てられた天幕にすぎないのだが、夜空を屋根に、大地を寝床にするよりは、どれほど素晴らしいものだろうか。これから迎えるであろう冬に向け、天幕には手を加えなければならないだろう。燃料にする木がない場所での越冬には、どんな準備が必要なのだろうか。自分を含め、チュナム集落にいる兵士は誰一人、この場所で冬をすごしたことがないのだから。
我々の前に、チュナム集落がある丘陵が姿をあらわす。丘陵の西には、私たちが構築した陣地がみえた。
離れたところからみる土塁は低くて頼りなく、陣の横幅は狭く、騎兵の突撃で一蹴できるように思える。鬼角族がこちらを
「おーい!帰ったぞ!」
突然ジンベジが叫び、大きく手を振った。見張りへの合図だ。
だが、陣地の方からはなんの反応もなかった。
見張りがサボっているなら、ツベヒに説教だ。当面の危険がないとはいえ、戦時には平服を着て、平時こそ武装せよ、だ。
馬をすすめるが、誰にも
嫌な予感が頭をよぎる。
周囲をみわたすと、モフモフした二本足で歩く羊が、丘の麓でなにか作業をしている姿がみえる。
我々が不在の時に、集落が襲われたのではなさそうだ。
陣地の近くまでくるが、やはり見張りはいなかった。
不審に思いつつも丘を登りきると、黒鼻族の集落が姿をあらわす。土壁の小さな家々が懐かしい。しかし、そこには大切なものが無くなっていた。
鬼角族のものと比べると、豪華さこそ劣るが機能的で快適な本部の天幕。
兵士が睡眠をとる、軍では標準的な六人用の天幕。
捨て置かれた
あわてて馬を降り、小走りでヤビツの家に向かう。
いったいなにがあったのだろうか。
途中で数人の黒鼻族とすれちがうが、私の姿を見てもなんの反応もない。
「ヤビツはいるか。ヤビツ君」
家の中から、一人の黒鼻族がでてくる。
「隊長しゃん、やっとお帰りでしゅか」
右の角が前に突き出ているから、ヤビツに間違いない。
「ヤビツ君。ここにいた兵士たちはどうなったんだ。天幕もなくなっているようだから、どこかへ移動したのか」
黒鼻族には表情がない。もちろん、仲間同士では喜怒哀楽の違いがわかるのだろうが、人間にはほとんど見分けがつかないのだ。
「ツベヒしゃん達は、ターボルから伝令がきて、でん員移動しぃましぃた。隊長しゃんも、ターボルに戻ってくるよう、伝言をきいていましゅ」
「なにがあったかわかるか、ヤビツ君」無理だとはわかっていても、問わずにはいられなかった。「なぜ部隊がここから移動したかきいていないか」
その真っ黒な瞳で私を見つめながら、ヤビツははっきりとした舌足らずの声で答えた。
「だん念ながら、私ぃはきいていましぇん」
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