謳の呪処置


「わだかまりし闇。静寂しじまに響け福音。我、歌うことなき夢の神楽鈴――」


 天幕の中に不思議な謳が満ちる。サイの補助をする為に動いていたジグスエントの動きが止まる。思わず見惚れてしまった。


 美しい。まるで神の降臨。それを連想させるほどに美しい。白衣がくすんで見えるほどの光であり闇が溢れる。ルィルシエの体各所に開けた切れ目に闇が流れ込む。サイの白魚の指先がルィルシエの額に触れ、そっと輪郭をなぞるようにおりていき、頬を撫でた。


「猫の舌上ぜつじょうで死にゆく鼠の子。腐り朽ちゆく卵の内に生まれる雛鳥――」


 それは本当に謳、と呼ぶに相応しきなにか。だが、明確にひとの使うものではない。貴族の者がお遊びで詩を読んだりするのを茶会の席で聞いたりするが、サイのそれは人間のものではない。それこそ神々がかつてひとに教えてきたというものに等しい。


 可憐で繊細で、残酷なまでに美しいのに残虐で惨たらしいのに、どこまでも美麗。現代いまには失われた音の連なり。


「すべてに愛を。すべてに死を――」


 サイの謳に聞き惚れていたジグスエントだが、そのサイと目があい、はっとして準備を急ぎ、なんとか間にあった。ルィルシエにつくられた切り口から溢れてきた闇を霊水にひたした滅菌綿で拭くとどす黒い血が滲み込んだ。切開の各所から流れる闇を拭っていく。


 ジグスエントが忙しく動くのを見つめながらサイは不思議な気分だった。まるで本当に地獄へ堕とされ、妹の為に亡者の魂を救済する堕天使になった気分。変な感じだ。


 やがて、切開した箇所からの闇流出がおさまってきたのでサイは最後の旋律を紡ぐ。


「生死厭わずすべてに等しき幸と絶望を賜らせられん。愛し憎みて我の音と留めよ――」


 謳の最後を締めくくり、サイはルィルシエに触れていた手を彼女の頬からどけた。


 すると、ルィルシエの胸、心臓の上に開けた穴から大きな闇が膨れあがってきた。ジグスエントが手を伸ばそうとしたが、サイが早い。サイはその闇にそっと触れて言う。


「在るべきところへ、お帰りなさい。闇よ」


 サイがそう、諭すように言葉を紡ぐと、闇はその場で霧散し、消えた。不思議な現象に呆け気味のジグスエントに目で切開した箇所を早く閉じるように合図。


 サイの目に独特の尊敬を見てジグスエントは狡いと思いつつ縫合をはじめる。「助手に相応しかったぞ」と言われたようなものだから。嬉しい。愛しい女性に認められるのは。


 今までは、本当に糞を、もしくはそれに湧く蛆を見るような目しか向けてこなかった。


 認識が人間のものにランクアップしたのでジグスエントは自然と笑みが零れる。サイはふらふらしつつも自分で椅子を持って来て座った。女の顔には玉の汗。


 どうやら優雅に見えたのは外の人間だけで実際にやっているサイの負担はかなりのものだったらしい。そんな確認をしつつ、ジグスエントはすべての切開箇所を閉じて、糸を切った。と、まるで処置の終了を見計らったような間でルィルシエが動いた。


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