なんかいろいろと腹立つ


 牙痕さえ見なければ、そのあとされたこともなにもかも変な夢、悪夢だったと思える。


 だが、そうはなんとやらがどうのこうの、とサイはうろ覚えの諺っぽいものを思い浮かべた。そうそう、湯あみなどさせてもらえないだろう。それに体が自由になりさえすれば多少の肉体疲労などは屁でもない。とっととウッペに帰らせていただく。


 そうでなくても、ここで目覚めるまでにどれくらい昏倒していたか知れないが、目覚めてからジグスエントが言っていたことが事実として、ケンゴクの足ならあそこからウッペの国境くにざかいまで五日か六日はかかる。それを思うと、昏睡は五日だったとしても長い。


 そうしたら、忍をある程度まで蹴散らして帰路を進み、ケンゴクに合流しようと計画していたサイとしては困ったことだ。ここに忍たちの頭と思しきハクハがいてジグスエントがサイに構ってくるのでおそらくウッペの他面子は無事に帰られたのだろう。


 だったら、早くなんとかして帰る、この戒めから逃れてここを脱し、一刻も早く帰らねばルィルシエに泣かれてうるさい。それに女の子に泣かれるのは、特にルィルシエは妹という立ち位置にいるせいかレンに泣かれているみたいで居心地悪い。


 あまり心配させたらあとが困る。それにサイ自身早くここから逃げたいと思っている。


 ジグスエントはセツキに引けを取らない素晴らしい美貌だが、やっていることは誘拐と性的接触の強要だ。こんなのに触れられるくらいならセツキに隣でずぅーっと説教されながら、ルィルシエに駄々こねられまくって振りまわされる方が万倍、億倍いい。


「サイ、必ずあなたの心を我が手中に堕としてみせます。あなたを虜にしてみせます」


「……っ、勝手を」


「そんなものですよ、男とは勝手に女性の好意や嫌悪を無視してでも手に入れたいと思って動き、思惑を叶える者、叶わずに散っていく者様々です。ですが、残念ながらサイ、わたくしは負け犬になる気はありません。手に入れてみせます。その無垢なる心身と魂を」


「妄想は脳内で留めよ、変態」


「ほう? わたくしにそのような暴言を吐いたのはあなたがはじめてですね、ふふ、楽しいことです。あなたはわたくしにはじめてをたくさんくださる。……だから」


 だから、と奇妙に言葉を切ったジグスエントはどこか遠くを見つめている。


 遠くにいる誰かを見ているかのような男にサイは不審そうな瞳をしたが、器用に肩をあげて顔を動かし、唇だけでも綺麗に、ちょっとばかり執拗だったかもしれないが拭った。ジグスエントに触れられた箇所にサイが考えた「ジグスエント菌」が繁殖しそうなのだ。


 我ながらナイスネーミング、とサイが思っているとジグスエントが立ちあがった。サイの前に膝をついていた王はサイの頭を優しく撫でる。


 なでりなでり、と愛する者にするように。かつて、サイが情報屋稼業の中でも深部にもぐる時、家を空ける必要がある場合などにレンにしていたように。必ず戻るからね、という意味をこめて……なんだか、レンとの思い出を汚された気分だ。


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