喪ってしまった者


 夕暮れの朱色はとうの昔に消え去ってそこには宵の青が広がりはじめていた。青はやがて群青になり、黒になり、闇に変わる。戦国島にくる前までのサイが活動をはじめる時刻がやってくる。今ではすっかり朝早く起きるのが癖になっているが、前はこうだった。


 悪魔でしかなかったサイは夜の帳が落ちてから動いた。軽く食事を摘まんで適度に喉を潤し、その日、予定に入れた仕事に向かう。それが当然で、当たり前で、日常だった。


 たまに誰かさん、傍迷惑なハイザーじじいのアレで突然のそれも急ぎ仕事が入ったりもしたが、それはほどほどに満たされた生活だった。このままでいい。そう思える程度には満たされていて、充実していた。ところがどうだ。戦国ここに来てサイは変わった。


 前にいた世界では殺しで稼いだ金のほとんどを孤児院に寄付して自分の生活は質素を保っていたが戦国島に来てからは誰かに施すことが難しくなった。薄給だ、というのもあるが、それ以前に備えねば死ぬ世界だから戦装束から下に着込む肌着に鎖帷子など。


 買わねばならないもの、買い替えが必要なものがたくさんある。多分、ココリエに言えばそれくらいは必要経費としてだしてくれそうな気がしないでもないが、その請求書がセツキに見られたら大事おおごとである。絶対にねだるな、とか、たかるな、と言われる。


「朔月……か。そういえば、あの日も」


 あの日もこうだった。と、そう思い出にひたるサイは思いだしていた。妹と一緒に実家を飛びだした日のことを。あの日、レンは母親を殺した。いつもサイを傷つけていたナイフを手に母親を滅多刺しにして血と肉と内臓の挽き肉にして惨殺した。


 そして、それを悔いることなどなく、父親を待ち伏せて殺そうとサイに提案したが、サイはレンがさらに血濡れることを望まなかった。むしろ、サイの為などに血をかぶって汚れ穢れてしまったことを悲しんだ。


 だから、一緒に風呂で血を洗い流し、レンの服を着て、着替えや家にあった紙幣硬貨などを詰めた鞄を持って朔月の闇に隠れて国の境を無許可で越え、他国に逃亡した。


 それからはずっとレンとふたりで支えあって暮らしていた。レンは家事についてはからっきしだったのでサイが炊事掃除洗濯をしてレンはそれのお手伝いをする。例えば、パンを切ったり、洗濯物を畳んだり、ゴミをだしてきたり……幸福な日々だった。


 あの降誕祭の、世間が祝いを口にし、ご馳走に舌鼓を打つそんな日に悪夢のような思いをするなど考えもしなかった。贈り物ではなく不吉を運んできたあの男へ憎しみを募らせ、恨みを吐き、激痛に絶叫し、悲哀のあまり慟哭した。はじめて、泣いた。


 実家で飼われていた時に泣いたことがない、と言ったら嘘になる。ただ、泣こうと思って、泣きたい、涙したいと切実に願って泣いたのはあの時がはじめてだった。


 悪魔と罵られてでも最愛の妹の為、涙を零し、嘆き悲しみたかった。


 最愛の存在が消えたことになにも感じない、そんな冷血で在りたいと思う人間はいないだろうが、それでもサイはずっと悪魔と言われてきた。だから、人間ではない、人間扱いされたことがなかったので不安だったのだ。人間らしく哀悼できるかどうか……。


 そんなでない不安を抱いていたから涙できたことに涙し、レンの喪失を心から悲しんだ。でも、悲しんでばかりはいられなかった。だってそう、そのようにレンが望んで頼んでくれたから。あの日あの時、レンはサイに最期の願いを告げて逝った。


「私だけの、幸せ……か」


 レンの願い。自分では叶えられないと悟ってサイに自力で叶えてくれと望んだ。彼女の悲痛な願いが胸に痛かったし、苦しかった。こんなにも想ってくれているのに、どうしてあなたは逝ってしまうのか、とサイは問いたかった。


 だが、問えなかった。レンはサイのせいで死ぬ。死んでしまう。その事実に、現実に変わりは一切なかったから。サイがレンを殺してしまった、それは覆らないから。


 だからこそ、辛かった。


 「姉様、サ、イ……あ、なただけの、幸せ……私、ずっと、ずっと、ずっと願い、続け、るから、ね」……と、そんな言葉を残して逝ってしまった妹の愛が悲しかった。


 幸せになるべきはレンだ、とサイはずっと思っていた。でも、レンは幸せになるべきなのはサイだ、とずっと思っていた。互いを想って、互いの為に互いのことを、それだけを考えていたのに。ああ、どうして……。


「……どうして私たちは失ってしまったのだろう? なあ、レン? どうして……?」


 応える者なき牢獄でサイはひとり呟く。孤独に。ずっと、ずぅっと、ずっと……。


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