少しお話そして、お礼
「名は」
「ふふ、ないよ。私もサイも、名無しなの」
名前がない。サイと同じ。
名無し、と言った時、彼女は少し、ほんのちょっとだけ淋しそうだった。悲しみを噛み砕くかのようなそれはなんというか、サイと違ってとても感情に溢れている。
なにをしていても退屈そうでどんな時にも、誰かと殺しあう、そんな時までつまらなそうにしているサイとの大きな違い。まるで間違い探し。「絵あ」と「絵い」があるとする。サイにあるものが彼女にはない。サイにないものが彼女にはある。違うのに同じで、同じなのに違う。
「だが、サイには「サイ」という名が」
「それはね、サイの宝物。あのひとの救いであり、絶望なの。……昔ね、名無しの双子がいたわ。ふたりは出会った記念に、そして、なによりもよりどころを求めて名をつけあったの。ほんのわずかな救いだけどその時はふたりの大切な支えになったわ」
「それが、「サイ」?」
「そうだよ。てっきり、あなたには話すと思っていたから、今こうして訊かれて意外」
意外だ、と零すそのひとはだがすぐに意地悪な笑みを浮かべた。
つい、ドキリとする。普段のサイだったら絶対に浮かべない感情を素直に表すそのひとはどこまでもサイの姿と顔をしている。普段には見られないからドキドキする。
「ふふ、信用、されていないんだね?」
「はは、は……そう、だろうな」
ココリエは相手の言葉を肯定した。
セツキに言い返せない。だからサイの信頼信用からはほど遠い。ただ、もしも言い返せてサイを庇えたとして、仮にそれが叶ってもサイは受け入れないかもしれない。
彼女は孤独であるのが似合ってしまう。
その孤独、その孤高、まるで邪魔をするなと言われているような気すらする。ずっとひとりだった。これからもずっとひとりでいたい。そう願っているとしたなら邪魔をするのは憚られる。けれど、そんな願いを持たないでほしいと思っているココリエがいるのもたしかなのだ。
サイとココリエの願い。交わらないふたつの気持ちはお互いを苦しめる枷になる。そんなことをしたらサイは、それこそセツキが望むままに、過酷な戦場で死ぬかもしれない。あまり思い悩むようには見えず、いつも即決してしまう恐ろしさを持っているが迷いは戦場では死の意。
「どうして」
「私はね、サイが幸せならいいの」
どうしてサイの意識を乗っ取ってでてきた、いったい何者? との疑問を相手はココリエの顔に見たようで淡々と語りはじめた。彼女はサイが幸せならいい。
口振りからわかる。このひとはサイ以外がサイの幸福で泥をかぶろうと、無惨に散っていこうとどうでもいい。
「サイはここに来て、変わったわ」
「そう、なのか?」
「うん。だって、前はずっともっと冷めていたし、もっと人間を侮蔑していた。今でも充分そううつるかもしれないけど……でも、サイは変わったの。ずぅっと幸せそう」
「……」
「だから、私、嬉しかった。サイが幸せになれるかもって思えるなんて思わなかった。あのコが死んで、あのコを失ってサイはどん底だったもの。凍ってしまった感情が溶けて、凍てついてしまっている表情もそのうち氷解するかもって思ったら……私、嬉しくて堪らなかったわ」
嬉しそうに、本当に心から幸福そうにサイの幸せを祝福しているそのひとは悲しそうに笑っている。悲しみが滲む理由はあきらか。ココリエは触れていいものか迷う。
ココリエが遠慮していると、サイの体を借りたそのひとは微笑んだ。冷たくて美しい笑みを唇に、瞳には刃を宿している。殺意と敵意が首をもたげているのがわかる。
「だから、失望した。やっと幸せになれると思ったのに……どうして?」
「すまない」
「ふふ、姑息だね。謝れば逃げられるとでも思っている? 甘いよ、ココリエ。甘すぎ」
ココリエの謝罪を相手は姑息だと言った。謝罪ぽっちで逃がしはしない、とも。
氷のような女はずっと笑っている。無表情で固まってしまっているサイの顔に感情をつくっている。美しく恐ろしい。いきすぎた美は恐怖の対象になる。
サイ。とても美しく恐ろしい娘。だが、ココリエはサイを嫌いになれない。どんなに恐ろしくても、怖くても、例え拒絶し拒否してきてもココリエはサイのことを……。
その先にある答をココリエは知らない。
答を探すことなど不毛なのかもしれないが、あるとしたらなんだろう、という好奇心はある。素敵なものだといいな、と思う。これ以上の凄惨さをサイに見せるのはいやだから。だから、せめて夢見るは幸福でありたい。サイの幸福。ココリエにとっても幸福ななにかがあるのなら。
「半端に距離をつくるくらいなら近づかないでくれる? サイは私の一番大事、なのだから。本来ならあなたのような弱々しい蟲が近づいていいひとじゃないの」
「その辛辣なところ、サイに似ているが、そなたは本当にいったいなにも」
「あら、私は邪悪よ? その点、サイはとても清浄、でしょう? あのひとは闇の中の導き火に同じよ。あなたもそうだから、だから似た者同士で……あったのかしら?」
「? なんと言った?」
最後の方になにか聞き取りにくいことを呟いたような気がした。
しかし、相手の女は首を横に振り、なんでもない、と合図を送った。
そして、ココリエが納得しかねているのを見て取り、うっすら笑う。
「なんでもないわ。これほど、お願いしていい? サイを、裏切らないであげて」
「裏切る?」
「うん。くだらない腹芸ばかり、見てきた。いつも胸の内側は不安でいっぱいだった。いつ裏切られるか、いつ背から撃たれるか知れない不安をこのひとは抱えてきた」
「……余は」
「あのひと、セツキさん? 彼に逆らうのは至難だって理解しているわ。ひいては国に害をもたらすかもしれないってこともわかっている。でも、どうかお願いよ」
必死で縋るように囁く女。サイを裏切らないであげてほしい。サイの敵にならないであげてほしい。サイを必死で想い、なんとか幸福になってもらいたいと願っている。
悲しい願い。淋しい願い。ずっと、そうだったのだろうか? ずっと、叶わない願いを抱えてサイの中で息をしていた。彼女に報ってもらうつもりなどなく、顧みられることも望まない。ただただ、サイの幸福だけを祈ってずっと共にいた。
どんなに孤独だっただろう。どれほどに強い想いだったのだろう。わからない。計り知れないほどに今、ココリエの前にいる女性は孤独で、孤独を受け入れてきた。
サイの為ならなんでもする。サイの為なら我が身すら惜しくない。どんなことも、悪道に落ちようとも、悪行に手を染めようとも構わない。なのに、すべてを犠牲にしてそれでも彼女は及ばないと判断した。だから、ココリエに求める。助けて、と願う。すべてはサイの幸福の為。
「せめて、私に誓って。サイを裏切らない、嫌いにならないって……ダメ?」
卑怯だ、と思った。
サイの姿でこんなことを頼むなんて相手の女性こそかなり卑怯だ、とココリエは思った。だというのに、自然と嫌いになれない。嫌みがないというか、なんとなく素でやっている気がした。素で、サイの為、ココリエに一生懸命願っている。
「だから、これは、先にお礼」
「え?」
疑問を吐いた時にはもう遅かった。サイの姿を借りた誰かの意思でサイの体が動き、ココリエのすぐそばに来た。それだけならよかったが、相手は予想外の行動にでた。
そっと触れた赤い唇。ココリエの頬に触れた熱はとても気持ちよかった。しばらく触れていた彼女は悲しそうに笑って離れた。ココリエは固まっている。
「お礼。だから、勘違いしないで。サイが、あなたなんかを……になるなんてない」
「……」
「おやすみなさい。ぐっどないと」
おやすみ、と言ってサイは廊下の暗がりに消えていった。いや、正確にはサイの姿の誰かだよね、とかどうでもいいことを考え、ココリエは結局一睡もできなかった。
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