壱章――メトレット
仕事終わりに出会うイミフ
ひとを殺したことを微塵も感じさせない足取りでサイは惨劇を起こした倉庫から去っていく。
倉庫のきっちり舗装されたコンクリ床からちょっと粗雑に舗装されたコンクリ地面に踏みだしたサイは目をしばたかせた。地面からコンクリにあるまじき音がしたのだ。
さく、と。覚えのある感覚を信じるなら草を踏んだ音が足下からしてサイは瞠目した。
暗闇の只中であるのは変わりなかったがそこは港の倉庫街ではなかった。五感を澄まさなくともわかるそこは自然の中。大自然の腹中に囲われたような感覚がある。
「このにおい、木、草?」
わけがわからないながらもサイはとりあえず現状を理解するに必要そうな音を発していく。鼻腔を衝く緑の芳しさと臭気の濃さからしてかなりの大自然と判断。
一瞬、草の大地に手を当て考えに耽るサイだったが、やはりわけがわからない。イミフ、だ。
「……なにか」
するとイミフ、と考え、思考に耽っていたサイの耳が今までに聞いたことがない奇妙珍妙な音を聞いた。
太く、鈍く、濁ったような音だった。それがまるでなにかを合図するように長々と響き渡る。
しばらくも聞かずにサイは自慢の五感を頼りにして音の発生地点をおおまかに特定した。
あとはここの地図でもあれば少なくともひとがいるところにはいける筈。不可解さの中でも冷静に判断したサイはまた一歩踏みだす。すると遠くから光が差し込んだ。
白い太陽の光。夜間活動するサイは普段あまり見ない光源だったが今はありがたい。朝陽に照らされて木々の葉たちが、大地を彩る草花が青々とした姿を見せてくれた。
ただ、季節のせいか、それは緩やかな青みだった。
初春の候に人工的でない緑を見るというのはサイが現在潜伏しているあの町では少ない。たまに公園で見かけても悪戯なこどもが毟ってしまうので最近は見ていない。
だからこそわからない。ここはいったいどこなのか。
なぜ倉庫街にいて大自然の只中にいるのか、イミフ以上に怪奇現象で異常事態だと考えているサイだが、本人落ち着いたもので狼狽えたり慌てたりの素振りが一切ない。
冷静に平静を保っているサイは無表情で迷っていた。
移動しようかどうか、動かないべきか否か。迷子、もとい遭難した時はへたに動きまわるなとはよく言うがこのままじっとしていて事態が好転するとは思えない。
「クソ、愚軍の死組、ってか」
「そう言うな。心はみな同じだ」
どうするのが最善か考えているサイの耳にふと声が聞こえてきた。理不尽さに悪罵を吐いているのは男の声。そして次にはそれを宥める声が聞こえてきた。
聞こえてきた声はサイがいた町の、国の言葉と違う言語を使っていた。サイの幼少期にわずかばかり覚えがある言語、東方の島国で使われる音、日本語らしき音。
その音を聞いてサイは本格的に疑問を抱いた。本当マジでまじめにイミフそのものであった。
サイがあの時いたのはまず間違いなく欧州にわけられる国であり、絶対的に日本国ではない。
「お」
そこら辺のことも含めて訊いてみよう。そう思ったサイが自分のいる場所に向かってくる一団に慎重に声をかけかけたのだが、呼びかけの言葉は即座に切り落とされた。
「きさ、まさか、ウッペの……待ち伏せか!?」
サイが声をかけようとした瞬間、相手側もサイを見つけたまではいい。その先が不可解。
一団を率いていた者が悲鳴のような声を発した。そして突然に待ち伏せなどという言葉を口走ったのでサイはかすかに呆けた。だが、長くそうしていることは叶わない。
先頭に立っていた男が手を一振りした瞬間、まだ暗い朝の中で赤々となにかが燃え、さらには鋭いなにかが空を切り、サイめがけて飛んできた。陽光に輝く鈍色の牙。
サイはそれを一瞥して避ける。痛いとわかっているのにわざと喰らうような変態趣味はない。
避けた直後、サイが元いた場所に突き刺さったものを見て殺人者は首を傾げた。細長い竹の身。先に鋭い三角の牙がひとつ。尻には綺麗に整った羽根がつけられている。
現代にはあまりというか普通には見ない凶器。矢。今なお赤々と燃えていることからして俗に言われる火矢。突き刺さったが最後、燃え移った火に炙られ、悶えることになる古来より伝わる兵器で人間の狩猟道具。ただ解せないのはなぜそれがここに登場しているのか、であろう。
弓矢など時代遅れもいいところ。甲冑を相手にするならまだしもわざわざ弓矢を使っている理由がわからない。護身用の拳銃が許可されない代わり? そこまで考えたサイに男たちの先頭に立って指揮していた男が声をかけてきた。怪しむようであり、どこかほっとしている声。
「何者だ?」
「……」
「風体といい、ここいらの者ではなさそうだが……お前は外国人、か? 言葉は、わかる、か?」
無言でいるサイに突然現れて攻撃してきた男たちは少しばかり誤解をときつつ、警戒を続けている。その様子を見てサイは甘いものだとこっそり息を吐いた。
サイの風体が普通でないことを一目で見抜いたのはなかなかのものだがそれ以上がないならばたどる末路は同じ。
だが、サイとてことを荒立てたいわけではない。穏便に進むのならばそうするし、努める。
なのに、なぜかサイの進む道はどうしても、どういう選択をしても、血まみれている。サイがサイ自身で涙ぐましいと思えるほど努力しても結果は変わりなかったのでいっそのこと呪われでもしているのだろうと思うことにして以降、あまりそういう努力に頓着しなくなった。
徒労に終わるならばしない方がまし。サイなりの心が疲れない工夫。心穏やかである為、血にまみれる。サイは歯牙にもかけないが、そちらの努力こそ涙ぐましい。
サイと一団の間に沈黙が降る中、朝陽がのぼり切る。現れた男たちの姿にサイはやや呆けた。
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