第59話 魔女


 ここに連れてこられてから一体何日が過ぎたのか。与えられた部屋で横になって、目の前に広がる暗闇に目を凝らしながらふとそう考えた。


 窓がないせいで時間の感覚がひどく曖昧だ。あと十日と少しで父が来るとラスティが言っていた、あれが何日前だったのか、そんなことすらよくわからなくなっていた。


 と、耳が近づいてくる足音を捉える。

 

 リュイかしら、いえちがうわ。あの子ならほらそこの隅で、丸くなって眠っている。暗闇に慣れた目が、扉の隙間から漏れ入る微かな光に浮かび上がる子供の影を私に見せた。


 もっと大きな人間の歩く音。それが扉の前で止まる。同時に厚い木の扉が開き、モルゴーが姿をあらわした。魔術師は一言もなく、部屋に魔力による光の玉を浮かばせた。

 唐突に白い光に晒され、眩しさに目を細める。

 無礼な、声くらいお掛け。言おうと口を開きかけ、やめた。ひどく疲れていて文句を口にする気力もない。


 ここのところずっと指先が痺れていて、物を取り落とす回数が増えていた。食事もままならない。眠っても体が黒に侵される恐ろしい夢ばかり見て、何度も目を覚ましていた。


 食べられず眠れず、疲れきって寝台に横たわるだけの私を見たモルゴーの表情がさっと曇った。面倒なことになった、その顔がそう言っている。多分ひどい顔をしているのね、私。


 もうあそこに行く時間だったかしら。前に行ったのはいつだった? 眠る前だったかしら、でもラスティがいた、温かな手の感触を覚えている。それなら夜のはずがない、彼は夜には来ないもの。でも今は夜中よ。リュイも眠っているもの。なら夜なのにラスティがいてくれたのかしら、それなら嬉しい。いいえ、でもあれから長くこの部屋にいた気がする。リュイが食事を持ってきた、あの前にもずっと部屋に……。


「……イルメルサさま」


 ごくり、モルゴーの喉が動く。それから老いた魔術師は私の名を呼んだ。モルゴーの目を見つめ返し、返事とする。


「シファードから使者が参っております」


 もうしばらくすれば婚礼の日になるのに、その前に使いが。ラスティが早く来いと言ったからだろうか。


「イルメルサさまにお目通りをと、騎士がひとりと魔術師がひとり」


 誰だろう。

 視線をモルゴーから天井の梁に移した。灯りがモルゴーと部屋を照らし、いくつもの影を生み出していた。梁を撫でるようにゆらゆらと揺れている。


「……イルメルサさま」


 疲れているの。眠りたい。ゆっくり目を閉じると、モルゴーの足音が近づいてきた。


「お加減が悪く伏せっておられると伝えましたが、ひと目お姿をと聞き入れませんで今も城前で粘っております。あの頑迷さにバルバロスさまがいつまで耐えられるか」


 それはいけない、バルバロスさまの機嫌を損ねては駄目よ。ぱち、目を開けると私を覗き込むモルゴーがいた。その唇が歪んで笑う。


「一時部屋にお戻りいただきとうございます」



 ◆◆◆



「イルメルサさま、お久しぶりでございます。お元気そうで安心いたしました」


 モルゴーに僅かに魔力で癒やされてから、人目を避け部屋に戻された。私を待ち構えていたのは侍女のフラニードひとり。おべっかなのか嫌みなのかわからない彼女の言葉に、返事をする気も起こらない。

 私を抱いて運んだ緑の髪の魔術師は、黙ったまま私を寝台に横たえると音もなく部屋を出て行き、すぐに部屋には私たちふたりだけになる。


 時刻は夜。来るまでの間に見えた月の高さからすると、おそらく日の変わる頃。見張りの兵以外みな眠っている、とても静かだった。


「人のいない間にお話ししておきたいことが」


 こそ、と声を潜めたフラニードが辺りを窺いながら近づいてくる。なにかしら、嫌な予感しかしない。


「これを、人目に付かぬよう所持しておりました」


 服の下からフラニードが取り出した物を目にして、はっと息を呑んだ。フラニードの唇が弓なりにしなる。


「枕の下なんて、隠したことにもなりゃしません。見つけたのが私で本当に幸運でした」


 灯りに照らされた彼女の手から、革紐が伸びていた。その先に揺れるのはラスティの魔石。


「夕刻頃、美しい金の髪の騎士がシファードからやって参りました、これ……身につけてお会いになりたいのではございません?」


 美しい金髪の騎士。来たのはロインなのね、フラニードはそれを私がロインから貰ったと思っているのだわ。


「私のものよ、お寄越し」


 寝台に肘をついて身を起こしフラニードを睨む。伸ばした腕は自分でもぞっとするくらい白く細かった。


「お褒めくださると思いましたのに」


 私の視線をまっすぐに受け止めたフラニードはつまらなそうに言うと、頭を巡らせて視線を棚の方へ向けた。私の装飾品を乗せた棚。強請るつもりなの。


「……なにが欲しいの」

「どれをくださいまして?」


 うきうきとした足取りで近づいたフラニードは、目を細めて品物を検分している。それでも彼女の横顔は恐ろしく美しくて、強欲さすら隠す美貌は気味が悪かった。


「銀の、葡萄の髪飾りをやってもいい」


 昔から持っていた気に入りのひとつだったけれど、格別思い入れのある品物でもない。それでも面白くなくて、しぶしぶ口にする。


「感謝いたしますイルメルサさま」

「護符を先にお返し!」


 さっと手を伸ばして髪飾りを掴んだフラニードが、艶やかに結い上げられた自分の頭にそれをつけようとしたので叱責した。強く声を発した勢いで私の肩から髪が一房滑り落ちる。


「髪につけるなんて瞬きひとつの間ですのに」

「それでもよ」


 威厳を保ちたくて半ば意地になって言うと、今度はフラニードがしぶしぶといった様子で近づいてきた。そして、あろうことか、私の目の前に首飾りを投げて寄越してきた。

 ぽす、と上掛けの上に落とされた魔石を目にしてさっと血の気がひいた。なんて無礼な女なの。胸に暗い刺々しい気持ちが渦巻いた。それでも石の方が大切で、手を伸ばして掴む。強めに黒い石を握ると、ラスティの魔力が手のひらに伝わってきてほっとした。壊れていない。内包された魔力に気づかれた様子もない。彼女の興味を引く高価な石でなかったからだわ、よかった。


「シファードからのご使者がここに来るのは明朝以降だそうですわ」

「わかったわ、お下がり」

「仰せのままに」


 髪飾りを頭に差し入れてから、フラニードは雑に膝を折って答えた。その私を軽んじた態度に、胸の中の黒い塊が重さを増す。

 今言い争う気力はない。気にしてはだめ。明日にはロインに会えるのだから。身を起こし痺れる指先を操って、革紐を首にかけた。寝台の脇を横切るフラニードがちらりと私を見るのが視界に入ったけれど、無視した。


 私は無視したのに、なぜかフラニードが足を止める。顔をあげると、前に立ったフラニードは真っ直ぐこちらを見ていた。紫の濡れた瞳、その目を飾るように丁寧に結いあけられた銀の髪、そこに載った銀の髪飾りは、まるで元から彼女の持ち物みたいに鈍い輝きを放っている。


「病に伏せっておられると伝えたのですから、湯浴みはできませんわね」


 そう言ったフラニードがどこか嬉しそうで、急に崖の縁に立たされ背中を押された気持ちになった。私を落とそうとしているんだわ。塔の部屋に行ってから、丁寧な湯浴みはできていない。日に一度リュイの用意する木桶の湯には、香油が垂らされもしなかった。


「そうね」


 侍女ごときに、傷つけられなんてするものか。体に力を入れ、背筋を伸ばして答える。


「それでも故郷の者に姿を見せるのだもの、朝のうちに髪と体を清めておきたいわ。香油を垂らした湯を用意して。夜明け前には暖炉に火を入れて部屋を暖めておおきなさい。それから部屋に花も飾って」


 心も体も疲弊して、すぐにでも枕に頭を沈め眠りたいと思っていたのに、ぺらぺら言葉を紡げる自分に驚いた。馬鹿みたい。

 でも塔にいる間ずっと、ラスティが隣に立ってくれていた短い時間がなにより心強く嬉しかったのに、この女の顔がちらついて心を波立たせられていたから。


「壁の明かりは残しておいて」


 八つ当たりだわ、わかっている。一息に言って、ため息をついて座ったまま目を閉じた。疲れる。


「花ですか、この季節では魔術師に頼まなければ……もう……嫌だわ」

「聞こえていてよ」

「っち、違います、嫌と言ったのは魔術師と話すのがですわ」


 焦りを含んだフラニードの声だけがする。魔術師。フラニードの発するその言葉に心臓が一度脈打った。誰に話すの。


「親しくしている魔術師が、いるのでしょう。その者に頼めばいい。向こうでも噂を耳にしたわ――嫁ぐの?」


 最後の声が震えそうで、必死に堪えながら尋ねた。目を閉じたまま、返ってくる答えに怯えていた私の耳が拾ったのは、蔑みのこもる小さな笑い声。


「まさか。あんな賤しい生まれの者」


 続けて吐き捨てられた言葉に驚いて目を開くと、寝台脇に立つフラニードが銀の髪飾りを撫でながら、忌々しげに下唇を噛んでいた。


「賤しい……?」

「疫病で消えたどこだかの貧しい農村の生まれだそうですわ」


 “八年前の流行り病で村にいた家族はみな死んだ。大学にいた俺だけが生き残った”


 ラスティの洞窟で、彼が教えてくれた時の静かな声が頭に響く。


「賤しいなんて」

「おおかた親は文字も読めない下層民ですわね」


 “母は学がなく読み書きできない。教会の人間に書いて貰った文字を写したと言っていたがそれでも間違いが”


 恥じることなんてない、素敵なお母さまだわ、彼に糸を紡いで持たせた、生きていたかっただろうに。

 胸が苦しい。本当の気持ちを何一つ口にできなくて、苦しい。心に留めておくには思いが強すぎて。苛立ち、焦燥、怒り、悲しみ。


「バルバロスさまにも、惚れさせてガウディールにつなぎ止めておけと命じられただけですのよ。嫁ぐなんて。あんな化け物じみた魔力の者とどう暮らせと? 甘えてみせれば指輪のひとつふたつ吐き出すかと思ったのですけれど、紐が固くてとんと駄目。なにを考えているのかもわからない気味の悪い男。でもそうですわね、花の用意くらいさせてみせ――……イルメルサさま?!」


 フラニードが叫ぶように私の名を読んだ。覚えのある手の痺れに咄嗟に指先に目をやる。黒く染まった指先を目にするのは二度目。でも今度の染みはみるみる広がり手の甲まで黒く変わっていく。


「あ……」

「だっ、誰か!」

「駄目!」


 フラニードが後退る動きに、駆け出そうとする素振りを見て手を伸ばした。彼女の上衣を掴む。と、掴んだ部分の布がみるみる黒く色を変えた。焼けた鉄を掴んだような、激しく凍るような感覚に弾かれたように手を退けると、黒くなった布がボロボロと崩れ落ちていく。


「いやあ! 神さま! 誰か!」

「お黙り、知られれば――」


 お前は口を封じられるかもしれない。そう伝えるより先に、フラニードが駆け出してしまう、止められない。


 両の手は、手首まで黒く変わっている。ぶるぶると震え見つめたけれど、それ以上変化はしなかった。どうなるの、どうしたら。知られてしまう。

 恐る恐る上掛けに触れても、上掛けは黒くならなかった。次はぎゅうと掴んでみる。と、掴んだ部分は黒く変わり、崩れていった。


 フラニードが扉を開け放ち、遠ざかっていく足音を聞きながら、私は一人その場に座り続けた。

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