第57話 形を与えて
「……さま、イルメルサさま」
耳元で呼びかけられ、目を覚ました。壁に小さな魔力の光がひとつだけ灯されている。それに背後からぼんやり照らされた、毒味の子供リュイの不安げな顔が目に入ってやっと、ここがどこだったかを思い出した。
「ああリュイ、どうしたの、なにかあって?」
「うなされてたから……」
小さな寝台に身を起こしながら聞くと、おずおずとリュイが答えた。壁に私たちの影が膨らんで揺れ動いている。うなされてた? 私が。無意識に手を上げて首の辺りに触ると、汗でじっとりと湿っている。
「そう、夢でも見ていたのね」
「覚えてない?」
「ええ、なにも。水をもらえる?」
「はい、すぐに」
言葉どおり、素早く立って水差しの乗っている机に走るリュイの背中を見つめながら、そっと息を吐いた。
ここに連れて来られてもう三日目の夜になる。魔力を移す実験は、毎日昼過ぎと夜の二度行うと聞かされたけれど、ここもあの拘束される部屋も地下にあるのか日の光が感じられず、時間がよくわからなくなってきていた。空が見たい。
私に与えられたのは、暗く小さな窓のない、囚人を閉じこめておくために作られたような簡素な部屋ひとつ。扉には鍵はなく、開けて通路先の閑所に行く自由はあったけれど、通路から外には出られなかった。
そこを出て魔力の実験を行う場所に行くときはいつも、魔術師が私を連れに来て、目隠しをされていた。
使える場所はどこも清潔に掃除をしてあって、剥き出しの石の壁には、床まで届く分厚いタペストリーが掛けられる気遣いもあったけれど、暖炉のない部屋はうっすら寒い。
魔石の屑石を詰め魔力を込めた火鉢が、寝台近くの床や通路にいくつか置いてあって日中は暖がとれた。今は魔力切れで冷えている。
寝台と机は、小さいけれど細工のよいものが運ばれていて、小さな収納箱には上等の部屋着に本まであった。鏡や髪留め、編み込める長いリボンはない。自死を警戒しているのね。日に二度の食事の器も木製のものばかり。
「イルメルサさま、はい、お水」
「ありがとう、起こしてしまってすまなかったわ」
言って、差し出された木の器に注がれた水を飲んだ。冷たい水が喉を落ちていく。
「ううん、疲れないから眠くなくて起きてました」
「そう」
リュイの言葉に、口元に笑みが浮かんだ。器を手渡して硬い寝台に横になる。初日の夜に連れてこられた時には、この世の終わりのような顔をして青ざめて震えていたのに。今では、下働きより楽な仕事で喜んでいるふしもあった。
けれど。器を片付けに戻るリュイの痩せた小さな背中を見つめていると、ずきんと胸が痛んだ。私がここからいなくなった後、この子は無事に元の持ち場に戻してもらえるのだろうか。もし戻せるというのなら、なぜこんな、この子のような、いなくなっても誰も気に留めない子供を選ぶ必要がある?
ああ、いやだ。ここでは考える時間だけはたっぷりとあるのに、浮かぶのは気の滅入ることばかり。早く朝になって、昼になって、あの部屋に連れて行かれてしまいたい。ラスティに会えるかもしれないもの。
言葉は交わせなかったけれど、昨日は昼に一度会えた。今日は来なかった。隙を見て魔力を分けてくれる彼に会えなかったからか、今日は昨日より体が怠い。うなされたのもそのせいかも。
明日は会えたらいいけれど。
それだけが唯一、心待ちにできることだった。
◆◆◆
「本日からは、こちらを使います」
その日初めて、蛇ではなく大きめの鷹が私の胸の下あたりに羊皮紙を一枚挟んで置かれた。すぐに魔力が流れ込んでくる。両脚と嘴を縛られ、薄く目を開き呼吸している鳥は温かく、美しい。これも一時もしないうちに死んで形を失うのね。
ここに出入りする人間は多くはなかった。エーメかモルゴーが必ずいて、彼らは毎回ひとりか二人の魔術師を従えてくる。
ラスティ以外でこの実験に関わる魔術師は三、四人いた。今日一度目の昼の実験に来たのは、モルゴーと魔術師ふたり。ラスティがよかったのに。そして。
今日来たふたりのうち一人を、私は知っていた。声に聞き覚えがある。
「嘴が体に当たって痛い。きちんと羊皮紙に乗せて」
「これは、失礼をいたしました」
澄まして答える背の低い茶色の髪の男、これは以前魔術師塔へ続く道の途中、ラスティを化け物と呼んでジーンに風の魔術を放とうとした男に違いないわ。
「心臓が陣の中心にくるように乗せるんだ、そう」
けれどこっちの、濃い緑の髪の丸顔の男があのときもう一人いた者なのかは確信が持てなかった。でも確かあのとき二人は、特別な研究に関わっていると話していたから可能性は高い。
ラスティとジーンに良い感情を抱いていない者たちと思うと、つい態度が悪くなる。嫌いだもの。ただでさえこの魔力は冷たくて気味が悪くて、不快なのに。
「この拘束はいつまでするのですモルゴー、私は逃げなくてよ」
ラスティが初日にバルバロスさまに意見してくれたお陰か、翌日からは実験中でも靴と、下着の上に簡素な服を一枚身につけられるようになったけれど、手足と腰の革紐による拘束は続いていた。首の部分は、バルバロスさまが切ってしまってからそのまま。
「実にご不便をおかけしておりますのは承知いたしておりますしかしこれにはイルメルサさまをお守りするための役割もございまして」
私の足元に立ち、私の横になる台座を机代わりにして羊皮紙になにかを書き込んでいたモルゴーは顔を上げると、実に面倒くさそうな顔で一息に言い、ぺろりと唇を舐めた。
「なぜこれが私を守るのよ」
俯いて視線を羊皮紙に落とすモルゴーの頭の中は、既に私の質問以外のなにかで一杯になっている様子で返事はなかった。
かわりに、緑の髪の男が口を開く。
「この不可思議な謎の魔力が、いつ被験者に苦痛をもたらすかは誰にもわかりません。その時おそばに誰もおらず、万が一にも台座から落ちなどしては」
「馬鹿らしい」
ラスティみたいな言葉が口から飛び出した。だって本当に馬鹿みたい。それなら床でやればいい。
「万が一にも。私が魔物になるかと恐れているのでしょう」
「人間は魔物にはなりえませぬ」
モルゴーの声だけが足元から聞こえてくる。
「そう証明する研究にもなりましょう」
「シファードのイルメルサは、闇の魔力にさらされても魔物にならず人として崩れて死んだ、と? 光栄ね、魔術書に記され後世に残るの。稀代の美姫であったと書いておおき」
「おそらく、ガウディールの者として記されるでしょう。お名前は残せませぬが、美しさに関しては承知いたしました」
「モルゴーさまっ!」
茶色の髪の男が慌てふためいてモルゴーを呼ぶ。不愉快で、ふん、と鼻を鳴らして誰もいない右側に顔を向ける。上まで続く石の壁しか見るものがない。
ラスティがいてくれれば安心してうとうとすることもできるけれど、今日の顔ぶれではそれもできそうにない。
「失礼いたします」
緑の髪の男が、そう言ってから私の手首に指先でそっと触れた。
「昨日より多くの魔力が流れているのはおわかりになられますか?」
「わかるわ」
とても冷たい。けれど少し慣れた気がする。
「同じものをもう一つ、用意している最中で」
「二度続けるの?」
「イルメルサさまのお体はこの魔力にいくらか馴染まれただろう、とエーメさまはお考えです」
「そう」
嫌だ、と思う。この美しい鳥を二羽も駄目にする価値などあるのだろうか、本当に? 鷹の体温はどんどん下がってきている。
鳥の目の下の羽が膨らんで震えていた。なんの慰めにもならないだろうけれど、撫でてやれたらいいのに。
「誰か来たようだ。見て来い」
モルゴーの唸り声混じりの命令を受け、茶色の髪の魔術師が返事もせずに背筋を伸ばして扉の方へ飛んでいった。どうして人が来たとわかるのだろう、扉が叩かれもしないのに。
「なんだ、お前か。今日の持ち場は向こうだろう」
男が、あの日倒木の陰に隠れて聞いたのと同じ棘のある声を出したので、胸が鳴った。期待してしまう、違ったら落胆するだけなのに。
「エーメからモルゴーに伝言を頼まれた」
やっぱり、ラスティ。丸一日ぶりに聞く彼の不機嫌な低い声に、流れ込み続ける魔力で凍りつきかけていた心がぽっと温かくなった。
「言えよ」
「直接伝え返事を聞いてこいと言われた。早く通せ、俺も向こうに作業を残している」
しぶしぶという気持ちが見えるしぐさで男が脇にどき、ラスティが部屋に入ってきた。当然予想はしていたけれど、彼は私を見ない。真っ直ぐモルゴーの元へいき、彼になにか耳打ちをしている。
モルゴーは顔を上げると、一瞬不愉快そうに眉根を寄せ、それから面倒くさそうに小さく何度も頷きながら口を開いた。
「ああ、ああ、その通りだ、それでいいと伝えてくれ」
「わかった。邪魔をしたな」
短い、私へ向けたものではない声を残してラスティは出て行った。夜の実験のときは来てくれる? 聞けたらいいのに。彼、私をちらとも見なかった。
目を開けていても、ラスティのいない部屋とかわいそうな鷹が見えるだけ。そう思うと寂しくて。目を閉じて眠ったふりをした。
「モルゴーさま、なぜあんな新参者を重用するのです」
しばらくそのまま目を閉じていたら、私が眠ったと思ったらしい、茶色の髪の男のささやき声がしはじめた。
「あれは有能だ」
「確かにあの魔力量には一目置くしかありません。ですが、毎晩バルバロスさまに取り入るのに夢中でここにも来られない男を――」
「カシュカ、止めておけ」
緑の髪の男の諫める声に、茶色の髪の男、カシュカは話すのをやめた。毎晩って、取り入るって、なにかしら。
「なんの話だ?」
モルゴーも気になったのだろう、続きをうながす声がした。
「ご存知でしょう。このところ毎日夕食の席を司祭さまの姪と並び取り、食後にはバルバロスさまにお声掛けしていただいている」
「それか」
ふ、と詰まらなそうに漏らすモルゴーに、カシュカの話が真実なのだとわかった。ラスティが毎晩フラニードと並んで食事を取っている。だから夜、ここに来られない。
その事実を知った瞬間、どろりと身の内の魔力が粘り気を増した。
私がここでこんな薄気味の悪い魔力に晒されている間、あの女がラスティの隣で笑っている。そう思うと、嫉妬で胸が焦げつき痛んだ。
なにもできない、やめろとも嫌だとも、言える立場にいないのに。知りたくなかった。
嫉妬心に意識を向けると、鷹を乗せた部分が痛みを感じるほど酷く冷たくなった。
「おい、見ろ」
「これは……」
魔術師たちにも異変が伝わったようで、ざわめいている。魔力が強く流れ込む。私が引き込んでいる、形が欲しくて。胸の中に生まれた暗い心に形を与えたいの、この魔力を使えばそれができる予感がする。
ぱち、と目を開けると、羽を膨らませ震わせる鷹がいた。美しかった茶色の羽根が、みるみる黒く染まっていく。その様子が恐ろしくて、ふいに自分が怖くなった。
私はなにをしているの?
恐れを感じた途端、吸い込むように体にとり込んでいた魔力の勢いが衰える。形を与えられかけていた魔力も、揺らめいて流れていく。
寒い。
同時に寒気に襲われた。
「モルゴーさま、イルメルサさまが震えて」
「よい、じき終わる」
がたがたと震えているのに、誰もなにもしてくれない。ただ周りを囲まれ、見下ろされて観察されている。
胸の上の鷹は、全身塗りつぶされたみたいに真っ黒になり、間を置かず白くひんやりとした煙をあげはじめた。乾いた砂の固まりが崩れるようにほろほろと形を失う。
「羊皮紙をどけろ、イルメルサさまにお怪我がないか確認せねば」
モルゴーの指示に従い、カシュカと緑の髪の男が素早く私の上から羊皮紙をどけた。羊皮紙の上には、黒い粉が山になっている。
「痛みが残る場所はございますか」
羊皮紙がどけられると、ひりつく痛みは消えた。魔法陣のおかげか、前と違い火傷を負った感覚はない。ただ、寒くて。
「痛みは、ないわ、さむいの」
「左様で。すぐに対応いたします」
声とともに、モルゴーが片手を上げた。途端に音をたてて、手足を拘束していた革が外れる。体が自由になった私はすぐに横を向いて膝を抱き込み体を丸めた。
少しでも暖まりたい。
「失礼いたします」
その私の上に、毛皮のコートが一枚掛けられた。狐だわ、普段なら暖かいと感じるのだろうけれど、今は大した助けにはならなかった。
「モルゴー、魔術で、暖めなさい」
「それは出来ませぬ、私の魔力と混じり、作用に乱れが生じてしまう可能性がございます……火のそばまでお連れいたしましょう、さ、お手を」
悔しくてぎゅっと下唇を噛んだ。持てる力を振り絞って台座の上に起き上がり、ひとりで下に降りる。なおも手を差し伸べるモルゴーを押しやって、掛けられた毛皮のコートの前を掻き抱き、ひとりで暖炉のそばまで歩いた。
「暖まられましたら、二羽目の実験を始めたく思います」
暖炉の前に崩れるように膝をついて座る私に一番にかけられたのは、モルゴーのそんな言葉だった。
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