第51話 水面下での駆け引き


 薄暗い螺旋階段を、バルバロスさまに先立って降りていく。石積みの階段は丁寧に手入れされていて、とても降りやすかった。登ってくるときにも思ったけれど、シファードの城壁と違う。シファードの階段はもっとでこぼこで、壁にも欠けたところがあって……。

 そっと横の冷たい円柱形の壁に手を這わせると、すぐに後ろから声がかけられた。


「壁がどうかしたか?」


 バルバロスさまだ。


「はい、あの、あちらこちら丁寧に手入れされているので感心しておりました」

「城壁は守りの要。襲撃のあった時に石段で躓くなど笑い話にもならんからな」

「ガウディールが前に敵の襲撃を受けたのはいつなのですか?」


 国境がガウディールよりさらに北に移ったのは私が生まれた頃だと聞いているけれど、それから王国内でも戦は何度も起こっている。


「此処までの侵入を許した戦は三十年ほど前になるか」

「そんなに」


 襲撃もないのに三十年、ここまで丁寧に城壁の手入れを続けているなんて。


「そう古い戦でもない、私にはつい昨日のことのように思い出される」

「私たちには大昔ですわ、生まれる前ですもの。ねえイルメルサさま」


 さらに後ろからフラニードの声がした。階段の中で、彼女の澄んだよく通る声が反響して大きく膨らむ。そこにバルバロスさまの雄々しい笑い声が重なった。


「は! そうか、私も老いるはずだな」

「いやだ、バルバロスさまはまだまだお元気です、そんな風におっしゃらないでください」


 フラニードがバルバロスさまの機嫌を取っている。私もなにか言った方がいいのかもしれないけれど、言葉が思い浮かばなかった。バルバロスさまのことなんてまだほとんどなにも知らない。


「今だってもし蛮族が攻めてくれば、私たちをお守りくださいますでしょう? 城壁の北の門からまた大勢吊してくださいましね」

「昔の話をよく知っているのね」


 初めて聞く話に足を止めて振り返った。フラニードは奥にいて姿は見えなかった。代わりに、少し上からバルバロスさまが私を見下ろす灰色の瞳、その目と視線がぶつかった。感情の見えない顔。少し前に笑い声を響かせていたのに。


「ええ、詳しく教えてくださいましたものね、あっ、あの…‥おじが」


 最後慌てて言いよどむフラニードに、さすがに私も察するものがあった。口の端に歪んだ笑みが浮かぶ、それをバルバロスさまに気づかれたくなくて、顔を背けまた階段を降りはじめた。


「司祭さまは色々なお話をご存知ね、私も教えていただこうかしら」


 誰に向けて言ったわけでもない、私の言葉に返事を返す者はいなかった。もやもやした気持ちを抱えたまま下まで降りると、そこにはジーンが伏せている。のんびりとしたジーンの姿に、やっと気持ちに余裕が持てた。

 当のジーンは人の気配を感じたのか、こちらを見上げてからのっそりと立ち上がり、振り返りもせず外に出て行ってしまった。

 薄情者。それともバルバロスさまが嫌なのかしら。


「あの犬を随分と可愛がっているそうではないか? 気に入りか」

「はい」


 隠しても仕方がない。素直に頷いて外に出る。ジーンは魔術師塔へ続くのとは逆の方向へゆっくりと歩いていた。あちらへ行くのが当たり前の顔をして。いえ、顔は見えないから当たり前の尻尾、かしらね。ゆらゆら揺らしながら遠ざかっていく。


「手放せと命じることもできる、贈らせるか」

「――いえ、そこまでは。命じてそばにいさせては意味がないのです」


 あの子が自分で私のところまで来てくれるのが嬉しいのだ。


「あの有能な魔術師の犬なのでしたわよね」


 またフラニードが会話に入り込んできた。さすがに不愉快だ。それに、この侍女がラスティを無愛想で不快だと言ったのはつい昨日なのに。

 答えず視線も向けない私に代わって、バルバロスさまが後ろを振り向くのが目の端に映った。丁度見張り塔が影を作り、ここは寒い。少し先に行けば日なたがあるのに。

 塔の端から這いでるように、冷たい空気が流れている。それが私の足元を冷やした。たまらず口を開く。


「バルバロスさま」

「どうかしたか」


 フラニードがラスティのことを話すのを聞きたくない。彼のことを考えられるのも嫌。だってこの女は私のものに無遠慮に手を伸ばしてくるから。そんな思いが湧き上がってきたせいなのか、気分が悪くなってきた。


「ここは寒くて……暖かい部屋に戻りたいのです」

「おお。城壁の上の風が体に障ったのかもしれぬな」

「今日は下がらせていただきとうございます」


 膝を軽く曲げ礼をして、暖かそうな日溜まりに向かい歩き出そうとした時だった。


「あっ」

「バルバロスさま!」


 急に二の腕をつかまれたかと思う間もなく、視界がぐんと高くなる。フラニードの悲鳴のような声が聞こえた。

 抱き上げられている。バルバロスさまに。気が付いた瞬間心臓が早鐘のように鳴り出した。揺れた体を支えるため、咄嗟にバルバロスさまの肩に置いた手のひらに、汗が滲んだ。滑らかな皮と毛皮のマントからは、ほんの少し獣のにおいがする。


「歩けぬほどではございません」

「ならぬ」


 小さな子供を抱き上げるみたいに私を抱えたバルバロスさまは短く返事をすると、そのまま魔術師塔へと続く道を歩きはじめた。

 バルバロスさまの腕は硬く力強く、私が身を捩っても抜け出せない。酷く落ち着かなかった。獣と、馴染みの薄い老いた男のにおいが混ざり合っていて。


「暖かな場所で煎じ茶を飲めば回復するだろう」


 なんとしても私を魔術師塔に連れて行くおつもりなのね。途方に暮れ視線をあたりに彷徨わせる。私たちから少し離れてフラニードがついて来ているのが見えた。なにか言ってバルバロスさまを止めて、と願っても、彼女は視線を地面に落とし黙っているだけ。

 どこか寂しげな彼女の様子に、胸のすく気持ちがすると同時にどこか痛むものもあって、複雑な思いにさせられた。


「茶を部屋に運ばせるのではいけないのでしょうか」

「このまま寄る方が早くそなたの口に入れられる」


 確かに。部屋に戻るにも、魔術師塔の前を通らねばならないのだ。


「そう身を固くせずともよいだろう」

「は、はい」

 

 無茶な、寛げるわけがない。魔術師塔に近づくにつれ、人の目も増えてきた。すれ違う魔術師や兵たちは、バルバロスさまに遠慮してか、さほどあからさまに野次馬めいた視線を寄越すわけではなかったけれど、まったくないわけもなく。

 こんなところをラスティに見られたらと思うと、不安で肌の内側を小さな針でつつかれているような心地になった。


「バルバロスさま!」


 魔術師塔の前を横切り、脇の道を薬草園へ入る門扉へ向かい渡っていると、薬草の手入れをしている魔術師のひとりが驚いた声をあげた。痩せた小さな男だ。


「姫君をお連れした。気分が優れぬそうだ、すぐに煎じ茶を用意しろ」

「かしこまりました、すぐに」


 その魔術師は半ば駆けて薬草園から出てくると立ち止まり、手を胸にあてこちらに礼をした。それから、もの問いたげな視線をちらりと私に投げかけ、足早に去っていく。


「確かに魔術師たちの視線は露骨にすぎるな」


 そうつぶやいて薬草園の中に入っても、バルバロスさまが私を降ろしてくださる気配がない。


「もう、ここで」

「軽い。魔力の気配もない。本当に生きているのか?」


 再度降りたいと願っても聞き届けては貰えなかった。鴨の浮かぶ池の方へ大股で進みながら、目を細めたバルバロスさまに、間近から顔を見つめられ思わず息を飲んだ。


「思えば不可思議な娘よ。貴重なものを贈られた。王には感謝せねばならぬな。まだ寒いか?」


 優しい声で私に尋ねるバルバロスさまの灰色の目の中には、相変わらず私への親愛の情は微塵も見られなかった。そんな人間の腕の中にいるのはひどく恐ろしくて。


「震えておる」


 それに薬草園に入ってすぐのここは、魔術師塔の作る影の中。バルバロスさまの腕の中は真冬のように寒々しく、私を見るフラニードの目も凍えた紫の氷のみたいで。


「風が、冷とうございますから」


 そう答えるのが精一杯だった。と、ふいに体に熱い魔力が触れた。その熱にびくりと体を強ばらせると、く、とバルバロスさまが笑う。バルバロスさまの火の魔力が、私の体を温めていた。


「ありがとうございます」


 寒さからくる震えは止まったけれど、凍えた心は少しも温まらない。ラスティと同じ種類の魔力のはずなのに、受ける印象はまるで違った。


「領主」


 と、どこかからラスティの声がした気がして顔を上げる。気のせい? 彼を思い出していたから……。


「なんだ、珍しいな。お前から声を掛けてくるとは」


 ちょうど私の背中側に向かって立ち止まったバルバロスさまがそう言ったので、そこにラスティがいるのだとわかった。薬草園の奥。体が硬くなる。どう思っているのだろう。

 分かり切ったこと。忠告を無駄に、易々とこんなところに連れてこられている私をひどい間抜けだと思っているに違いない。

 情けなくて振り向けなかった。


「人を呼びつけておきながら、広間にいないとはどういう了見だ。たらい回しにされた挙げ句戻ってくれば、結局ここにいるだと? 人をなんだと思っている」

「おお、そうだったな、忘れておったわ」


 ははは、と笑うバルバロスさまの声が体を伝って私の中に響く。それがバルバロスさまとの近さを嫌でも私に思い出させる。こんな姿、ラスティには見られたくなかったのに。


「このシファードの姫君が、朝からへそを曲げてそこら中に当たり散らしていると聞かされてな、機嫌を取っておったのだ」

「当たり散らすなんて私……」

「モルゴーを羽毛だらけにしたのだろう?」


 すかさず言われ言葉に詰まる。あのお喋り魔術師。それともフラニードかしら、あのあとしばらく姿を消していたから。


「話したのは私ではありませんわ! 睨まないでくださいましイルメルサさま!」


 じろ、とバルバロスさまの肩越しに後ろに立つ侍女に目を向けると、彼女は大袈裟に手を振って否定してきた。

 なにが可笑しいのかそれにバルバロスさまはお笑いになって、また歩き始める。


「これからここで朝食をと思ってな」


 初耳だわ、お茶をと言われただけなのに。


「お前もどうだラスティ。話はそこで」

「……わかった。手短に頼む」


 バルバロスさまが一歩進むたびにラスティの声が近づいてくる。私は彼の顔も見られずに、ただ後ろからついて来る侍女のコートの下に隠された、木彫りの女神の顔を思い出していた。

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