第39話 犬と熊と魔術師
庭へと続く道に、枯れた葉が散っている。午前のうちに湿り気を帯びて少し丸まったそれを、わざと踏みつけ音をたてながら歩いた。
気配を殺して歩くのは、フラニードから城の中の様子を聞き出してからにしたほうがいい。無駄に怪しまれるような行動は、まだ避けておこう。
今はただ、ふらりと散歩に庭に出ただけを装って――ジーンを探す。
背丈ほどの高さの塀に囲まれた客用の庭へと続く木戸を押して、中に足を踏み入れた。微かに春が近づいた気配を感じた気がして、不思議に思い目を凝らす。と、あちこちの木々に、ほんの少しだけ芽を出してきた蕾を見つけることができた。まだこんなに寒いのに。
今はまだ黒く硬い姿だけれど、じきに膨らんでくる。楽しみ。そう思ってから苦笑いした。おかしいわね、こんな毎日なのになにかを楽しみだって思えるなんて。
美しく整えられた小道を奥に進み、いつも香草茶を飲んで過ごす人工の池の縁をぐるりと回ってさらに奥へ。茶色い棘だけの姿を見せる、薔薇の茂みの間を縫うように歩いていくと……黒い石を積んだ東側の城壁の一部に行き当たった。
庭はこれでぜんぶ。なのにジーンは見つからない。壁を登って行く……なんてできるはずもないのに。目の前の壁に手を触れると、長く日陰になっていた石は濡れているのかと錯覚するくらい冷たかった。
私が触れられる城壁はここだけ。
色の暗い、威圧的な壁。このあたりには階段もなにもなく、ただただ上に続いていく。これをよじ登るのはアリアルスでも無理ね。
見上げ、続く高さに一瞬目が眩んだ。同時に今上から石でも落とされたら、なんて考えが頭をよぎり、血の気がひいて壁から数歩離れた。庭にいる客人を守るためと言えば聞こえはいいけれど、城壁の上の回廊からここは見えすぎる。城の長い歴史の中で、暗殺に使われたこともあるかもしれない。
それよりジーンはどこだろう。温かく優しいあの子に触れたいのに、あれから鳴き声がしない。
「……ジーン? いないの?」
もうどこかへ行ってしまったのかしら。仕方がない、しばらく時間を潰して部屋に戻ろう。でもその前にもう一度だけ。そう決めて、庭をぐるりと見回した。普段は池のあたりまででこんなに奥までは来ないから、目に映る景色が少し目新しくて面白かった。眺める角度が違うだけなのに、新鮮味があるものね。
「あら」
と、庭の壁に近い大きめの薔薇の茂みの裏に、色の違う石が積まれているのを見つけた。城壁より明るい石を積んで作られている庭の壁の前にあって、暗い色の……。違う、石ではないわね、動いているもの。ジーンかもしれない。
「ジーン」
変だと思ったのは二歩目くらいで。呼び掛けて私が近づいても顔もあげない。それによく見ると黒というより、焦げ茶に近い。
ジーンより小さくて、丸くて。
ジーンではないわ。
そう気がついて足を止めるのと、視線の先のそれが動くのは同時だった。のっそりと二本脚で立ち上がり、顔をこちらへ向けたのは小さな熊。
小熊。母熊はどこに。
瞬間的にそう思って、辺りに視線を巡らせながらゆっくりと後退る。私の動きに釣られたのか、小熊がよろけてころりと転がった。姿は愛らしいけれど凶暴かもしれないし、それになにより親熊が近くにいれば私は襲われるだろう。油断してはいけない。
森でみた、腹を食われていた盗賊の姿が打ち消してもうち消しても頭に浮かんでくる。震えないで、足。視線の先で起き上がった小熊は、私の怯えなどまるで気にしない様子で、茂みを叩いて遊んでいる。よかった、少なくともこの子は凶暴な熊ではないみたい。
私が庭を出るまでそのままでいて。祈る気持ちで足を動かして、人工池の縁にたどり着いてからくるりと反転して前を向く。数秒立ち止まって辺りを警戒したけれど、聞こえてくるのは風が庭の枝や葉を揺らす音だけ。
危険はないみたい。ゆっくり動いて庭の外に行けば……そう考えたとき、池でなにかが跳ねて水音が大きく響いた。瞬間、心も頭も嵐が吹き荒れたみたいに恐怖に支配され、走り出してしまった。
弾みで薔薇の茂みに何度も腕をぶつけ、引っかかれる痛みを感じたけれどそれすら怖くて。だって薔薇の棘ではなく獣の爪だったら? 荒い自分の呼吸ばかりが耳に届く。
飛びつくように木戸にすがりついて開け外に飛び出した。
「っお!」
「熊が!」
ちょうど通りかかったらしい見知らぬ魔術師の男に叫ぶと、男はさっと顔色を変え辺りを見回した。
「小熊よ」
言って男の後ろに回りながら、小熊ごときに怯えてと思われるかもしれないと心配になって、母熊がいるかもしれないでしょうと付け足した。
付け足したと同時に、目の前の魔術師の背中からほっとしたように力が抜けたのがわかった。私と年の近そうな魔術師。大きな熊にひとりで対峙するほどの力はないのかもしれない。
「ご安心くださいイルメルサさま、小熊なれば、今我々が探しているものに違いありません」
「探す?」
「母熊を亡くし負傷していた小熊を保護し、魔術師塔で世話をしていたのですが逃げ出してしまい探しておりました」
「そう」
それなら安心だわ。怪我した熊を保護なんて、ラスティみたいね。ラスティみたい、と思うと心が温かくなる。服の下にリスを入れていた魔術師。
「一番奥の、薔薇の茂みのところにいるわ」
木戸を指差して伝えると、魔術師はわざとらしい笑顔を見せて膝を折り、私に礼を取ってみせた。
「驚かせてしまい、お詫び申し上げますイルメルサさま――ただ、我々が熊を飼っていることはどうかご内密に。他の者が怯えます、先日の騒ぎで熊に身内を殺された者も多ございますので」
秘密なの。
そうね、あの騒ぎからまだいくらも経っていないのだもの。
「傷が癒え次第山に放ちますゆえ、どうか」
「……バルバロスさまはご存知?」
「許可をいただいております」
そう聞けば安心だわ。
「わかりました。秘密は守りましょう」
「感謝いたします」
言うが早いか、魔術師はさっとローブの裾を翻し庭に入って行った。その姿を見送ってから、ふうと息をひとつ吐いた。恐ろしい熊でなくて良かった。逃げだしたその熊を、ジーンも探していたのねきっと。
それで見つけて誰か――多分ラスティを呼びに戻ったのだ、賢い子だもの。
そう思い至ったときだった。また犬の声がした。反射的に顔を向けると、魔術師塔のある方へ続く道の先から、探していた黒い犬が真っ直ぐこちらへ駆けてくるのが見えた。さらにその後ろには、足早にこちらへ向かってくるラスティの姿も。
「ジーン!」
呼ぶと、わん、と吠えてそばにきた犬は、飛びついてくるかと思ったのにそうしなかった。尻を向けて木戸と私の間に立ち、耳を立てて警戒している様子を見せる。
少し遅れてラスティがやってきて、ジーンの横に立った。庭に魔術師と小熊がいると伝えた方がいいわよね。
「魔術師たちは小熊を探しているのでしょう、話は聞きました。その庭で私が見つけ、捕らえにひとり入ったところです」
あえて他人行儀に話しかけると、振り返ったラスティは眉根を寄せて小さく頷いた。それから私にだけ聞こえる小さな低い声で、ここから離れていろとだけ言うと、ジーンの首を軽く叩いて庭へ入って行ってしまった。
“逃げたおとなしい小熊”を捕らえに行くだけにしては、妙に緊張した顔をしてはいなかった? そう思うと心がざわめいた。
「離れていろなんて……」
先に行った魔術師は言わなかったのに。軽い調子で庭に入って行っただけ。庭で見た小熊だってまだ小さかった。母熊がそばにいないのなら怖くないわ。
中を覗く勇気もないのに、近くにラスティとジーンがいると思うと部屋に戻るのも惜しく、じっとその場に立ち尽くした。陽は少し傾いて、吹きつける風も冷たくなりはじめている。
小さな熊を連れてくるだけにしては遅くないかしら。そう感じはじめた時だ。塀の向こうから、突然男たちの言い争う声が聞こえてきた。けたたましく吠えるジーンの声も。
揉め事、と思った瞬間。
男の大きな叫び声が一度、あたりに響き渡った。悲痛な叫びに、心臓を掴まれた心地がして身体が強張る。
でも、ラスティの声ではなかった。怯えながらもそれはしっかり判別した。とはいえ、ただ事ではない雰囲気に、思わず庭から離れるように後退る。ラスティとジーンが心配でたまらないのに。
いつの間にかジーンの声も途絶え、庭はさっき私が足を踏み入れた時と同じ、静かな姿に戻っていた。どうしたらいいの。思った瞬間、冷たい魔力が地面を流れ、服の裾の中の足首を撫でていった。
肌が粟立つ。
目には見えないけれど、朝の霧のように庭から塀を越え、魔力が溢れ漏れ出しはじめているのを感じ取っていた。それほどの魔力量なのに、ラスティの魔力ではなくて。
冷たい、水の魔力に似てはいるけれど……風のものとも違う。触れただけで底冷えのする、命を凍らせるみたいな……こんなもの知らない。
怖い。なにが起こっているの。ラスティの言った通り離れていなければいけないのではない? どうしてこんなに静かなの、なにか言って。
ラスティ。
彼の顔を思い浮かべた瞬間、じわじわと私を蝕んでいた恐怖と不安に心が打ち勝った。ぎゅ、と拳を握りしめ、庭に向かい一歩を踏み出そうとした瞬間。
「向こうだ!」
あたりが俄かに騒がしくなった。叫び声やジーンの声を聞いた者たちが駆けつけてきたのだ。
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