第35話 疑念
道の向こうからどんどん押し寄せてくる強い力に、丸太の山の向こうの魔術師たちの魔力はあっという間に押し流され感じられなくなった。ひとりの発していた風の気配は、熱に飲み込まれ消え失せている。
「俺の犬に用か」
少ししてラスティの声が聞こえてきた。怒りを滲ませた低い声。
「……あ……あ、いや、なんでも……なあ、それを止めてくれないか」
「それとはなんだ」
「魔力をおさえてくれ頭が痛い!」
もうひとりの悲痛な声がしたけれど、ラスティの魔力が弱まりはしなかった。むしろ近づいてきたぶん、より強く、濃くなっている。
自分で自分を抱き、体に腕をまわし目を閉じて、ラスティの魔力を感じた。あたたかい。指先にまで力が満ちていく。ジーンを傷つけようとした愚かな魔術師たちには悪いけれど私には助けだわ。
「行け、俺の犬に二度と近づくな」
言葉のあと、少し魔力が弱まった。ああ、まだあのままいて欲しかったのに。
「くそっ、化け物が!」
弱々しい声で、それでも悪態をつきながら去っていくふたりぶんの足音を聞きながら、ゆっくりと目を開けた。私の目に映るものにはなんのかわりもない。丸太のひび割れた樹皮と、積もった枯れ葉。そこからほんのり甘い匂いがする。
「久しぶりだなジーン、元気だったか」
魔術師たちの気配が消えてしばらくしてから、ラスティがジーンに語りかける声が聞こえてきた。優しくはないけれど静かな声。それに、ジーンの息遣いと尻尾の激しく振られるばしばしいう音。
「俺よりいい暮らしをしているらしいじゃないか――」
いい暮らし。ラスティは大変なのかしら。元々人の中で暮らすのは苦手みたいだった。しかも嫉妬や疑惑の目にさらされているというのに、私は手助けもできない。食事は他の者たちと別なくもらえている?
「ああいう奴らには気をつけろ。もう戻れ、ジーン……おい、何処へ行くつもりだ」
かさ、
あっと思う間もなく、丸太の影から顔を覗かせたジーンと目が合った。体は見えないけれど、尻尾を振る音も。私を見た後ジーンは首を巡らせて振り返っていた。ラスティになにか訴えかけているのだ。やだ、呼んでいるんだわ。もう。
「兎でもいるのか」
「私です」
こほんと小さな咳払いをひとつして、しゃがみ込む姿を見られる前に立ち上がった。膝下についた枯れ葉を手で払う。
済ました顔を数日ぶりにラスティに見せた。彼は驚いたようにほんの少し目を見開く。痩せては見えない。髪はいつも通り赤い。短く切った爪は? 石鹸の香りもいつも通りかしら。いいえきっと違うわね、石鹸を持ってきているはずがない。
姿を見せたはよいものの、言葉がみつからなくてそのまま黙り込んだ。朝早く、鶏をくわえたジーンを追った日とは違い今はもう午後。近くに誰かがいるかもしれないのだ、気安く声をかけては……。
「もう声は出るんだな」
「え?」
と、迷う私を見透かしたようにラスティが話し出した。答えに窮する私に片方の口角だけを少しあげ、皮肉げな笑みを見せる。
「話せるか? 近くに人の気配はない」
「そう……ええ、話せるわ」
丸太の裏から出ると、ラスティはこちらを見て訝しげに目を細めた。
「痩せたな」
「多分、すこし」
「喉はもういいのか。食事の時も姿を見せないからまだ寝込んでいるのかと思っていた」
彼は広間で食事をしているのね。
「ここのものを口にするのに抵抗があって。毒味役がついたのよ。広間に連れて行けばバルバロスさまがご気分を害されるわ」
「毒味。ここ数日おまえの住み家のあたりをウロチョロしはじめたとかいう痩せた子供か」
ラスティは言うと、腕を組んで考え込む仕草をした。
「私が命じたのではないのよ」
残酷な真似をと思われるのが嫌で、そう声をかける。と彼は、ちろ、と視線を私に向けた。
「責めてはいない。お前を生かしておく為にここにいるんだ、毒味とはいい案だ。むざむざ殺されたとなれば、俺はお前の父と騎士たちに吊されるだろうからな」
「まあ。あんな小さな子供が巻き込まれているというのに」
あなたに憐れみの心はないの、と続けて責めると、ラスティは馬鹿にしたように鼻で笑った。
「ガウディールの食い物に毒が仕込まれる可能性は低い。それではシファードの罪にできないからな」
「シファードが私を殺すはずはないのに。そんなことをここの者たちは本当に信じていると?」
抑えたくても憤りが滲んだ。吐き捨てるように聞くと、ラスティは肩をすくめて一歩こちらに近づいた。私もジーンと一緒に一歩だけ彼に近寄る。
「信じていないものもいれば、信じてお前に同情している女たちもいる」
同情。同情ね。ガウディールの者が私に同情。そう思うと胸に薄い嫌悪感がわきあがり、自分がどれほどここが嫌いなのか思い知らされる。
「シファードには知らせてくれた?」
自分の服の襞に目を落とし、故郷の名前を口にした。大丈夫、今日の服はきれいだわ。髪も編んである。
「もちろんすぐに」
「ありがとう」
答えて、今度は道の端で枯れた茶色の葉を揺らす茂みに視線を移す。どうしてか、近くではラスティの顔が見られない。馬鹿みたいに毒を盛られ死にかけて、城で働く者たちの噂話に登る自分が急に恥ずかしくなってきたのだ。
どうせよい噂になど出てこない。私のいないところで、ラスティの耳にどんな話が聞こえているのかと思うといたたまれなくて。
「――荷と一緒に届けられた手紙は蜜蝋が割れていたの。読むのを隠すつもりもないみたいね」
手紙の話を思い出してやっと顔が上げられた。と、私を見ていたらしいラスティと目が合いかけた。先に視線をそらしたのはラスティ。それは私の脇に向けられ、つられて見ると私を見上げ尾を振るジーンの姿が。
まるいジーンの頭をそっと撫でると、尻尾が止まって耳が垂れる。かわいい。
「伝えておこう」
ラスティの返事のあと、沈黙が広がった。さわさわと風の音がする。彼の魔力のせいだろう、ここは暖かくて居心地がいい。あの庭を思い出すわ。彼の庭。そうだ。
「ラスティ、あのね、私……あなたのねぐらにいた時魔術が使えたのよ」
「なんだって?」
「水をね、出せたの。桶いっぱいの」
やっと伝えられた。ぱっ、と笑って彼を見上げると、ラスティもいつもより興奮した面もちで私を見下ろしてきた。今度はしっかり視線が絡み合う。
「魔力を分けた後か?」
「ええ。うちの騎士たちが来たあの日」
「俺の仮説が合っていたわけだ。お前は偉大な魔女だよイルメルサ。また魔力を分けてやろうか。手を貸せ」
「触れられても気づかれないくらいでね……」
敵ばかりのここで変わったことをするのは怖かったけれど、彼の魔力は欲しい。欲に抗えず迷いながらおずおず手を差し出した。
「婚約者に触れられることはあるのか?」
手を取られながらラスティに聞かれ、心臓がどくりと跳ねた。数日前強く顎を掴まれたけれど。
「ほとんどないわ。でも召使いたちには毎日、湯浴みや着替えのたびに触れられるから」
「ひとりでやればいいものを」
言葉に嘲笑がまじっていて、少しむっとした。
「人を使うのも貴族の大切なつとめよ」
「そうか。俺をこき使うように」
「その通り。さ、早く魔力をお寄越し」
「なんて女だ」
くくく、とラスティが低く笑うのを聞きながら、身の内に彼の魔力が流れ込むのを感じた。とてもあたたかい。あたたかいし、ほっとするわ。
「渡した魔石の魔力はまだ残っているか」
「ええ、ほとんどそのまま」
私の指を緩く握るラスティの手を見た。短い爪。指先はきれいだ。作業をしていないのかしら。でもさっきの魔術師たちは……。
「さっきの魔術師たち、あなたがモルゴーに気に入られていると話していたわ。なにか特別な研究に関われていて?」
「知る必要はない」
「なぜ――」
間髪入れず拒否され、さすがにむかっと腹が立つ。その気持ちのまま顔を上げたけれど、彼の表情を見て言葉に詰まった。
硬く強張った頬、冷たく私を見下ろす赤銅色の目。それらが私に言葉もなく伝えてくる。なにも聞くな、と。
「……大丈夫なの?」
「心配は無用だ」
言葉の終わりと同時に彼の魔力も途切れた。受け取れたのは私の器に空いた穴と比べずいぶん少ない魔力量だったけれど、体をあたためるには充分すぎるほどだ。ここへ来たときと比べものにならないほど、気分はよくなっている。
「俺がここに来てまだいくらも経たないんだ、そうたいしたことを見聞きできてはいない。だが、魔術師塔には近づくな。それとそうだな――北の城壁にも」
「北?」
言葉に引かれ北を見やる。高い城壁、それを越えた向こう遠くには山の岩肌が。魔術師塔と、北の城壁。突然あらわれはじめた熊、さきほどの魔術師の言葉。
「それ以上考えるなイルメルサ」
「じゃあ言わないで。気になるわ」
「言っておかないとお前はふらふら出歩くだろう」
はっきりと言い切られ、ぐっと言葉に詰まった。彼の洞窟から抜け出そうと勝手に出歩いた私だもの。
「それから」
「まだあるの?」
非難の声をあげた私に、ラスティは片方の眉を上げて答える。
「二晩ほどジーンを返してもらう。可能なら飯はなるべく広間で食え、俺もそうする。毒消しを携帯しておこう」
広間で。バルバロスさまと並んで。想像しただけで胃のあたりがおかしくなりそうなのに。
「ガウディールの食事に毒は盛られないと言ったのはあなたよ」
「可能性は低い、と言ったんだ。ないわけではない。毒味の子供を連れ広間で食えばより安全だろう」
「毒味役を引き連れてなんて……バルバロスさまやここの者たちがどう思うか」
「言わせておけイルメルサ、命はひとつ、失えばそれまでなんだ」
ラスティの言葉に心が揺れた。そうだ、それに広間に行けばラスティに会える。言葉は交わせなくとも、私の身を案じてくれているのだと信じられる者のそばにいられるのだ。
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