紅蓮の魔女
『この世界には人間と姿かたちの異なる異種族が存在する。彼らの多くは特殊な能力を持ち、人間とは異なる文明の元で暮らしている』
幼少期に街の教会で異種族について教えられた。
ある種族は人間と関わることを嫌い、またある種族は大昔から人間と共存してきた。
しかし、長い時を経てその数は激減し、今では純血の異種族と出会う機会は殆どない。
世界律に捉われず異種族間の婚姻を認めてきたレジオルディネでも、異種族を先祖に持つ者が少数暮らしているのみで、外見的特徴はさておき、異種族たる能力を身に宿す者はごく僅かな存在でしかない。ましてや、このような炎を無から生み出す人間の存在など、オルランドの知る常識から考えれば、到底あり得ないことだった。
これほどの強力なちからを身に宿す者がいるならば、その者は紛れもなく――
(純血の異種族……!)
燃え盛る炎は火の粉を散らし、瞬く間にオルランドを取り囲んだ。遠方に残してきた部下のどよめきが微かに聞こえたが、その声もすぐに炎の勢いに掻き消された。
胸の高さまで燃え上がる炎の壁。それを隔てた向こう側で、朱紅い髪の女がオルランドを睨みつけている。けれど不思議なことに、翡翠に似たその瞳からは憎悪や怒りと言った感情が感じられなかった。
どちらかと言うならば、これは威嚇だ。野生の動物が天敵を警戒する行動に似ている。
とはいえ、この状態が長く続けばオルランド自身もただでは済まない。いずれ酸素が欠乏し、炎がその身を焦がすだろう。
こちらの意思を伝えることさえできれば、和解も有り得る。
そう考えたオルランドは、手にしていた剣を鞘に納め、女のほうへ投げやった。手慣れた手付きで剣を受け取め、女が眉を顰める。
「すまなかった。東方で悪名高い野盗の一味が先のきみのようにフードを目深に被り、顔を隠しているという情報が寄せられていたもので、勘違いしてしまった。この火を消してもらえないか」
持ち前のよく通る声を張り上げ、冷静に交渉を試みるものの、女は眉間に皺を寄せてオルランドを睨みつけたまま微動だにしない。
オルランドを取り囲む炎はじりじりと衣服を熱し、今にも火が燃え移りかねない。額に滲む汗が熱さだけのせいでないことは、彼自身が一番良く理解していた。
(野盗か不審者のほうが、まだマシだったかもしれないな……)
息苦しさと熱さで眩暈がする。遠退いていく意識の底で、オルランドは自身の迂闊な行動を省みた。自虐的な笑みが、その顔に浮かぶ。
いずれこの炎は水と酸素を奪い尽くし、オルランドの全てを焦がすだろう。
まさかこのような最期を迎えることになろうとは、想像だにしていなかった。
朦朧とする意識に呑まれていくように、オルランドは膝から崩れ落ち、地べたへと倒れ伏した。
そのとき、オルランドの周囲を覆っていた炎が風に巻かれて掻き消えた。まるでその役目を終えたかのように、跡形も無く。
オルランドの朧げな視界に、彼を見おろす朱紅い髪の女が映っていた。
一歩、また一歩と歩み寄ると、彼女はオルランドの傍に膝をつき、その顔を覗き込んだ。
「******」
彼女が口にした言葉はレジオルディネのものではなかった。それは、異国の言葉を数多く知るオルランドですら聞いたことのない言葉。
(そうか、異種族……)
純血の異種族と初めて遭遇したことで、相当気が動転していたことに、オルランドは今更気が付いた。おそらく彼女は始めから、オルランドの言葉を理解できていなかったのだろう。
苦々しく口の端を吊り上げて、オルランドは瞼を閉じた。二、三度深呼吸を繰り返し、ゆっくりと身を起こす。
「******?」
女がオルランドに問いかける。その口調は柔らかく、オルランドの身を案じているようでもあった。
「レジオルド憲兵隊、第十七隊隊長……オルランド=ベルニだ。エストフィーネ村の出動要請を受け、現地に向っている。……先の非礼、申し訳なかった」
咳き込んだあと、オルランドはなんとか謝罪の言葉を口にした。けれど喉が焼けたのか、その声は酷く掠れてしまっていた。
女は小首を傾げると、オルランドの瞳をじっと覗き込み、その手を取った。
(言葉が通じないというのは不便で適わないな)
突如として脳の奥に響いた聞き慣れない声に、オルランドの心臓が跳ね上がる。
女が頭を垂れると、その不思議な声は謝罪の言葉を発した。
(すまない、少しやりすぎた。反省しているよ)
顔を上げ、女がふたたびオルランドの瞳を覗き込む。だが、オルランドには女の謝罪の言葉など聞こえていなかった。
生まれて初めて遭遇した純血の異種族の能力を前に、オルランドは只々呆然としていた。そして一言、やっとの思いで口にした。
「驚いた。言葉を使わなくても、直接意思を伝えることができるのか?」
精神感応能力――言葉を使わずに意思疎通を図ることができる、特殊なちから。
稀に人間でもその能力を有する者がいるが、先の炎のような『魔法』と同じく滅多にお目に掛かれるものではない。
驚きを隠すことなく童心に返り、無邪気に笑うオルランドに、朱紅い髪の女は困ったように微笑んだ。
***
「驚きました。あの真面目な隊長が……」
馬の背に揺られながら、テオがぽつりと呟いた。隣に馬を並べるジルドは相変わらずの澄まし顔で、テオの話を聞いているのかいないのかわからない。だが、そんなことにはお構いなしに、テオは更に話し続けた。
街道でオルランドに待機命令を下されて、テオは他の隊員と共に、緊張のなか、遠方の灯りの様子を窺っていた。
しばらくして事態は急変し、オルランドが目指していた場所が、突如、炎に呑み込まれた。
街道に待機していた隊員は、誰ひとりとして何が起きたのか理解ができていなかった。皆が口々に悲痛な声を上げた。
オルランドの身を案じる者、すぐにでも救出に向かうべきだと叫喚する者、成す術なく茫然とする者。
あのままオルランドを失えば、統率が取れず、十七隊は王都に帰還することになっただろう。けれど不思議なことに、炎は意外にもあっさりと、風に飛ばされたかのように消え失せた。
いつの間にか辺りの薄闇は晴れ、灯りなしでも遠くのオルランドが視認できるようになっていた。
そのような状況下で隊員たちの目に映ったのは、朱紅い髪の女の手を取り、少年のように無邪気に笑うオルランドの姿だった。
「炎の原因はあのひとですよね。拘束もせずにふたりきりだなんて、大丈夫ですかね」
「人間か異種族かは不明だが、魔力を持った魔女だ。専門の奴らがいないこの状況で、下手に拘束して暴れられでもしたら、それこそ厄介だろう」
「魔女、ですか……」
――『魔女』。
大昔に存在した、先天的に魔力を持つ人間の多くが女性であったことを理由に、この国では性別を問わず、生まれながらにして魔力を持つ人間を『魔女』と呼んでいる。
当然、王都には魔女に関する研究機関があり、少人数ではあるけれど、王国軍には魔力を封じる技を身につけた『対魔士』と呼ばれる者達がいた。
彼等であれば、危険な魔法を操る魔女を拘束することも可能だろう。だが、この部隊にはそのような人材も、それに代わる道具もない。
会話が途絶え、ふたりは前方を走る荷馬車へと視線を向けた。
オルランドは今、幌に覆われた車両の中だ。ふたりの居る場所からは中の様子が窺えない。
あのあと隊列に戻ったオルランドは、予定通り東へ向かうよう副隊長のアルバーノに命じると、自分は例の女を連れて荷馬車の中に引き籠ってしまった。
瞬時に周囲を炎で覆ってしまうような強力な魔力を持つ女だ。その能力がある以上、彼女が人間だろうとなかろうと、王都に連れ帰り、軍法会議にかける必要がある。
「とんだ拾い物をしたな」
溜め息混じりに呟くジルドに、同意するようにテオも大きく頷いた。
***
ガタガタと荷馬車が揺れる。街道に敷かれた石畳みは長い年月を経て老朽化が進み、所々舗装が剥がれていた。
(近いうちに補修工事が必要だな……)
ぼんやりとそう考えて、オルランドは向かいに座る相手に目を向けた。
幌で切り取られた狭い景色を馬の頭越しに眺めていた彼女は、オルランドの視線に気がつくと、小首を傾げて微笑んだ。
マリア――それが彼女の名前だ。精神感応能力を使い、彼女はオルランドにそう名乗った。
彼女の精神感応能力は言葉を伝えるものであり、思考の一部を相手に直接伝えるだけで、本質は人間の言葉と変わらない。
伝えたい相手に触れ、視線を交わすことで、声に出さずとも直接言葉を伝えることができる能力らしい。
互いの言葉は通じなくとも、手を触れ、眼を合わせていれば意思の疎通を図ることができるのだから、便利な能力もあるものだ、とオルランドは感心していた。
勿論、彼女の言葉が全て真実とは限らないけれど。
あれから彼女と共に過ごした時間は僅かだったけれど、彼女についてはひとつだけ、はっきりしていることがあった。
マリアは無知だ。
『頭が悪い』という意味ではない。彼女に足りない知識の数々が、彼女が育った限られた世界では必要のないものだった。ただそれだけのことだ。
聞けば、彼女が故郷の村を出たのは今回が生まれて初めてのことだという。それ故に外の世界の恐ろしさも知らず、己の身を危険に晒す情報も、問われれば全て馬鹿正直に答えてしまう。
場所が違えば、異種族というだけで始末される恐れがあることすら、彼女は知らなかったのだ。
魔力を持つ人間か、それとも異種族か。どちらにせよ、本来ならば王都に戻り、専門の研究機関に引き渡すのが筋のはずだった。けれど――
(本当に、彼はそこに居るのかな)
オルランドの指先に触れて、マリアが顔を覗き込む。翡翠の瞳を真っ直ぐみつめて、オルランドは力強く頷いた。
マリアはある人物を捜していた。夜の闇を思わせる黒い髪と紅玉のような赤い瞳が印象的な、青年と言うには少し幼い印象の男性だという。
その特徴が、昨夜の出動要請に添付されていた、事件に関与していると思われる人物像に酷似していた。資料には黒い髪と赤い瞳の青年としか書かれていなかったが、そもそもこの国では黒い髪が珍しい。加えて赤い瞳、これもまた例が少ないのだ。
「おそらくな」
呟いて、オルランドが馬車の進む先へ目を向けると、マリアは翡翠の瞳を輝かせて、大きく頷いた。再び馬の頭の向こうに視線を戻し、期待に満ちた眼差しで街道の先をみつめる。
彼女の横顔をちらりと一瞥し、オルランドは考えた。
マリア――無知で純真な、紅蓮の炎を操る魔女。
彼女の『言葉』には、他人の心を懐柔する不思議なちからがある。
そのちからは魔法でも特殊な能力でもない。彼女の持つ純粋さゆえの、ひとの心を動かすちからだ。
彼女を魔女とするならば、そのちからこそ、最も魔女らしく人を惑わす魔性のものだ。
しかし、決してそれは邪悪なちからではない。少なくともこれまでの経緯から、オルランドはそう感じていた。
「俺は、魔女の術中に嵌ってしまったのかもしれないな……」
誰にともなく呟いて、オルランドは自虐的に含み笑うった。
幌に切り取られた視界の先に、白い外壁に囲われた街が見える。
朝陽に照らされた夜明けの街道を、憲兵隊は進み続けた。
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