第103話 大好きだ

「私、亀井さんのことが好きでした」


暗い教室が天井に張り巡らされたライトで、星を眺めているような錯覚に陥る。


教室展示を見上げる彼が、中学の時、星を見たことを覚えていた。帰り道に見上げた夜空。


わざわざ学校から少し遠い丘に寄り道してまで見たかったもの。


どんな名前で、実際にはどれくらい大きいかなんて分からないけど、ただ、綺麗だと思ったこと。


あの日のことを、彼は覚えていてくれた。


嬉しかった。


だから、この瞬間に言ってしまおうと意識したわけではなく、自然と次の言葉が出てきた、という感覚で、私は告白した。


私の目を見た彼は、「うん」とだけ応えて、すぐに天井に向き直った。


「楽しかったです。ありがとうございました」


それには、今日のことに対するお礼なのか、それとも、あの日に対してなのか、自分でも分からなかったが、とにかく心は愉快だった。それだけでいい。


星の光が消える。



トイレに行く亀井さんを待っている間、私は晴らしたはずの心を曇らせていた。


言えて良かった、という気持ちと、言って良かったのか。2つの考えが私の中でせめぎ合う。


「良かったのか?」


胸の中の声が、表に出たように時末さんが私に声をかける。急にいなくなるものだから、ひどく緊張したが、思いは伝えることができた。そして、きっと余計なことも、後で言うつもりだ。


「いいんです」


私は、後悔していなかった。彼が、私と同様にあの日のことを気にしているのなら、私のように思い切って前に進めない。過去に苦しんでいたのは、私だけじゃない。


私も、これでやっと前に進めるかもしれない。これからも、勉強やバイトで目標を作るんだろうけど、それに加えて、目の前の誰かと話したり一緒に何かをしたりする今もちゃんと大切にしよう。




文化祭の1日目が終わり、亀井さんが私たちに手を振る。


時末さんと、帰り道を歩いた。外は、薄暗く少し肌寒い。冬色に染まりかけた11月の風が、ひんやりと肌を撫でる。


「そんなの、全く感じないのに、な…」


時末さんが、さっき亀井さんについてしまった私の嘘を優しく咎める。


「あるんですよ、きっと」


『拒絶』が効かない。それが、私の『チカラ』。


なんて、嘘をついたこと、後悔はしていない。彼には前に進んで欲しかったし、そうすることで私の心も救われると思ったから。そして、救われた。


あの日の放課後、自分の身を守るためについた嘘で、彼を傷つけた。だから次からは、他人を救うための嘘をついてやろうとも、思っていたから。


あるんです、と言葉の発音を気にするように、自分が今さっき言ったことを確認するように呟いた。


送ってくよ、という申し出を断った分かれ道。


彼は、どこか残念そうにしていたようにも見える。そう見えてしまう私は、また自惚れているだろうか。


彼の大きい背中が、だんだん小さくなっていく。遠ざかっていく。こちらを振り返らずにただ歩き続ける。


染め上げられた金色の髪。


筋肉質で背の高い体躯。


刺すような印象を覚える不良然とした目つき。


怖い人だと、思っていたけど。


自己中心とは程遠い、相手の気持ちを察する性格。『チカラ』なんていう非現実的な能力を自慢したりひけらかさず、相手と平等に接する態度。


あの日の暴力を思い出す。バイトの先輩から無理やり酒を飲まされそうになり、プライドを傷つけられるような嫌味に、突き出した拳と吐いた暴言。


嬉しかった。


嬉しくてたまらなかった。本当は、日を改めてなんかじゃなくて、その場でお礼を言いたかった。


あの言葉、あの表現が素直に出てこない。胸の中に入っているのに、私はそれを引き出そうとしない。


だって、それはあまりに都合がいいと思ったから。次はその相手の親友をそういう風に見ることで、軽蔑されることが怖かった。


きっと、そう思っている時点で、私は。


私は走り出す。時末隆太の背中に。

なんだ、まだこんなに走れるじゃないか。病院でリハビリをした時は激痛だったのに、現役だった時よりもカバンを持ちながら走る今の方が数倍速くなったように感じる。足だけじゃなく、心も軽くなったからだろうか。


11月の冷たい外気を掻き分けて、彼の大きな背中に詰め寄る。


「結衣ちゃん…!」


大仰な足音に気づいた彼は、全力で走ってくる私に面食らっていた。


久しぶりに走ったものだから、息が上がる。項垂れて、しばらく呼吸を整える。


「時末さん!」


まだ息が荒い状態で、名前だけを呼ぶ。これから、何を言おうか。しばらく考える。息が荒いことを言い訳に、しばらく黙り込む。


呼吸が整った、でも、苦しい。それはきっと…。


今と一緒に未来へ行く。


私は、誓った。


今日の一件で、前に進むと決めた。今を犠牲にしないと、そう決めた。


閑静な田舎の国道沿い。近くにあるドラッグストアの巨大な駐車場が、人口の少なさを強調する。


まるで、この空間、もっと言えばこの世界に2人だけになったような錯覚。


覚悟を決めた。


私は、できるだけ男子が好きそうな上目遣いで、彼に言う。


「晩ご飯、一緒に食べて帰りませんか?」


私は、樽本結衣。


どこまでも身勝手で、自意識過剰で、傲慢な最低女だけど。


こんな私自身が、たまらなく大好きだ。

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