第85話 紳士

金曜日の夜は、相変わらず大盛況だった。


どこの居酒屋でもそうだが、私がアルバイトしているこの居酒屋に関しては、駅前だということ、全国的に拡大しているチェーン店で値段もリーズナブルであることから、金曜日以外の平日にも来客が多いことがしばしばある。


私は、忙しい状態が好きだ。


あの日、走ることを奪われてからは、何も出来ない日々が続いた。いつものようにトラックを走ることが出来ない私は、これからどうすればいいのか、文字通りの行き止まりだった。


部活のように、あらかじめ目標を定められた環境下で、余計なことを考えずに、ただそれだけに追われながら夢中になることが大好きだった。


高校生になってから、アルバイトを始めた。家から3駅離れた私立の進学校、その最寄駅の近くにあるこの居酒屋を選んだ。


運動部で体を動かすことが出来ないし、文化部はなんとなくつまらなさそうだったから、部活には入らず、アルバイトで忙しさを求めた。


「不純動機でしょ、それ」


同じ店で、生活するためにお金を稼ぐ大学生からは、よく冗談めかして言われた言葉だ。不純動機。確かに、生活のかかった彼らにとっては、暇つぶしに働く私のことを嫌味に思う人間も少なくないだろう。


私にも言い分はあるし、言い返したい気持ちになるが、揉め事はなるべく避けたい。しつこく食事や遊びに誘うような人達だから、逆上されても困る。


いつか大人になって社会に出たら、こんな人間関係が自分を待っているのだろうか。そう考えると、気持ちが少しだけ沈んだ。


学校側で、バイトは基本的に禁止していないこともあり、私は4月から、この居酒屋チェーンでお世話になっている。


最初は、働くことそのものが初めてで、怖かったから週に2日程度にしていたが、3ヶ月ほどで、研修生から卒業した後は、テスト期間とその直前を除いて週のほとんどをここで費やすことにした。


出来ないことが出来るようになることは、単純に嬉しい。それが出来たらさらに高い目標を掲げてそれに向かってひたすら努力する。

これは、部活の時でも感じたことだ。一定のタイムを縮めたら、次はより速いタイムを目指す。それの繰り返し。部活と似ている。


この気持ちをバイトで感じるようになってからは、学校に行って、その後はバイトをすることが生活の基盤となった。それ以外は勉強かテレビを観るくらいだ。


しかし、まあ、物足りない。


目標を掲げ達成することの喜びは、部活と似ているとはいえ、やっていることは全く違う。単純に売り上げ貢献や酒の注ぎ方なんかよりも、走ることに対して感じていたい気持ちだからだ。


達成感もそうだが、グラウンドとトラックを走る時が、生きていると1番実感できる瞬間だった。


小学校3年生からクラブに入って、5年以上ずっと走り続けていたのに、たった1日の交通事故でそれが出来なくなったことには、未だに腑に落ちない。


今でも、何かの弾みで思い出してしまう。その度に、なんで私がこんな目に、と嘆いたところで解決できようもない嘆きを漏らす。


この先の人生で、走ることを超える生きがいが来ることはもうないだろう。この時の私は悟った。




飲み会に誘われたのは、バイトが終わった直後だった。


居酒屋の社員と大学生のバイトの人たち。私は、やんわりと断ろうとしたが、仲良くなった女子大学生の人からも頼まれたので、しぶしぶ行くことにした。


明日は土曜日で学校もないからということもあり、自分よりも一回り年上の人たちと仲良くなりたいという背伸びするような気持ちもあるにはあったが。


閉店作業をする人たちを待ちながらも、大人たちは飲み会を始めた。自分たちの会社とはライバルのチェーン店と名高い場所で、仕切り役の男がピッチャーに入った透明な液体を人数分コップに注ぐ。


私たち高校生の分まで注がれたことにガッカリする。液体に鼻を近づけると、これまでに嗅いだことのないような強烈な臭いが鼻を刺した。こんなものが、芋を加工して作られたなんて信じられなかった。


「今日は、ハメ外しちゃいましょう!」


大学生の1人が、文字通り、調子に乗ってはしゃいでいる。


社員の数人と大学生たちの中でもとりわけうるさい人たちは、大人しい人たちや私たち高校生とは別の席に固まり、大声を荒げて大学生の界隈で流行りだという『コール』とやらを唄う。


もちろん私は、理性のある大人しい人たちの席に固まった。優しい彼らは私たち高校生のために、ジュースを注文してくれた。


しかし、世間話をしながら楽しむ私たちに、先ほど、ハメ外そうと叫んでいた、茶髪に染め上げた大学生の男が、近づいてきた。


「ゆいちゃーん、飲め飲めー!」


標的は私だった。


こんなことを思うのは至極傲慢なのかもしれないが、私は、彼に下心を持たれているかもしれなくて、それが怖かった。この人と同じシフトの時、必要以上に感じる視線、そしてお客さんへのビールを注ぐことをそっちのけで私に話しかける。真面目に働かないのもあんまりだが、話す内容が、彼氏の有無を聞いてきたり2人でご飯に行こうと誘ってきたりという内容で、ひどい時には過去にキスしたことがあるかどうかまで聞かれた。


本当におこがましいことこの上ないが、彼は私に気があるのかもしれない。


「ねえ、早く飲んでよー」


例の透明な液体の入ったコップを私に押し付けるように差し出してくる。飲み会のメンバー全員の視線が私に集まる。


「いや、私、まだお酒飲めないので、ごめんなさい」


これは紛れも無い事実だ。ここまで言ってしまえばさすがに分かってくれるだろう。


そう思っていた自分が浅はかだった。


「ええ!? 何言ってんの!? 先輩に注がれた酒が飲めないの!?」


諦めてくれると思ったのに。私は、さすがに呆れて物も言えなくなったと同時に、この人に恐怖を感じて目を合わせられなかった。


周りの人たちは、止めずに様子を見ている。というよりもむしろ、面白いものを見ている感じだ。やめろよ、かわいそうだろ、とふざけ調子に声を差し込むだけ。


なんとなく分かってしまう。この後の展開が。


酔い潰れた私を『介抱』の名の下、下心の赴くままにこの男が住むアパートの一室に入れられる。


そして、その後…。


考えるとさらに怖くなった。決して大袈裟ではなく、震えが止まらなかった。


彼が断られたことに対する怒りから、私に嫌味を放った。


「ていうかさ、なんでゆいちゃんバイトなんかしてんの? 他のやつらは、本当にお金が無いからやってるけど、違うよね? 両親いるらしいし」


またそれだ。自分たちは生活のためにやっている。そう言ってくるのは、いつだってこいつだ。


「あっ、分かった!」


大袈裟なリアクションをとり、彼が続ける。


「ゆいちゃん、男と遊ぶ金が無いんでしょ! ホント、モテるんだね〜。カワイイからしょうがないね! 何して遊んでるんだか。 ダメだよ、そんな不純動機でバイトなんかしたら。高校生は部活でもしてなさいよ!」


男と遊ぶ金。不純動機。部活「でも」。


わはは、と彼の笑う顔。周りは、さすがに酷いんじゃないかと、ボソボソ言うだけで、誰も助けてくれない。


さすがに、腹が立った。さっきとは違う意味で震えが止まらない。拳を握りしめて彼を睨みつける。


目に涙を浮かべている自覚があった。視界の中の、このクズ男の歪んだ笑顔がさらに歪む。


悔しかった。


私の足のことなんて、何も知らないくせに、勝手なことを一方的に、自分のいいように言われることが。


年下で、高校生で、女という立場という理由で何も言い返せない、何もやり返せないことがもどかしくて、やるせなくて、堪らなかった。


知らないくせに。分からないくせに。


私は、俯いてしまう。言い返す立場も勇気も無い私は、やり場のない怒りを収めようと、この最悪な時間を沈黙でやり過ごそうとした。


その時だった。


うぐっ、と腹をうずめて身体を縮める男を視界が捉えた。


その腹には、たくましいと形容するに相応しい太い腕、その先にある拳が、彼の腹にめり込んでいるのが一瞬見えた。


その持ち主の後ろ姿が声を発する。


「いや〜スカッとしますねっ!」


その声は、今の空気とは完全に場違いで、非常に快活なものだった。ガタイのいい男が続ける。


「芋の水割り、でしたっけ? まずいし臭かったけど、飲んだら気分が良くなりました! あざす!!」


「な…、お前」


腹を打たれてとても苦しそうだ。そんなことも知らないといった様子で淡々と言葉を続ける。


「姉ちゃんが言ってましたけど、本当なんすね。酒を飲んだらつい本音が出てしまうって、言いたいことを思い切って言えるんだって」


何を言い出すのだろう。この場にいる全員が、緊張した様子でそれを待つ。


「先輩、さっき『ハメ外しちゃいましょう』って言ってたから、俺もハメ外しちゃいますね」


そう言い切ると、作っていた笑顔が、凄みのある剣幕に変わる。腹を痛める大学生の胸ぐらを掴み、近くの壁に身体を押さえつけた。その衝撃もなかなか痛そうだった。


「この子のこと何にも知らねえくせに分かったような口聞くんじゃねえよ! このカス野郎!!」


なかなか広い店内だった。私たちの飲み会メンバーだけでなく、店内の全員がこちらに視線を寄せるほどの怒号だった。


誰も、何もしない、配膳をする店員すらこちらに釘付けで、まるで世界中の時が止まったかのような錯覚を覚える。壁にかかった時計の長針が動いているのが見えることで時は止まらないのだと、思い出す。


殴った、殴られた当人たちも、何も言わなかった。殴った男が、自分の席に戻って、手を挙げる。とてもにこやかな笑顔で、その場に立ち尽くす若い店員に声をかけた。


「すいません! 揚げ出し豆腐、くださーい! 先輩たちは、なんかいります?」


何度かシフトが同じになった、工業高校に通う3年生の先輩。


彼を知ったときは、運動するために生まれてきたような巨軀と、暴力が好きそうな、いかつい顔に圧倒されて距離を置いていたが、実際に話して見るととても思いやりのある紳士だった。


今だって、暴力はどうかと思うが、彼の優しさがしっかりと伝わってきた。


本当に、あの人の友達だったんだな。改めてそう思う。


時末隆太。


ボサボサの、金髪頭。大人しくて優しかった、あの人の親友。

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