第65話 言葉が出なかった

カーテンの隙間から朝の清々しい光が差す。


目を開けて、なかなか立てずに、ベッドに横たわっていた僕は、平日で疲れきった身体をなんとか起こす。運動部の人は、学校で勉強するだけでもキツいのに、よくそのあと運動なんかできるよな。


そんな彼らを差し置いて、壁にかかった時計の短針が11時を回っていることも意に介さず横たわる、今日は土曜日。


そして。


僕の、亀井智の誕生日だ。




今日は、片岡さんと水族館へ行った。


水族館や遊園地は、僕らが住んでいる家の近くにはないから、電車に乗って30分の場所まで向かう。


女の子と一緒に遠出をするのは初めてだったから、心が躍っていた。この気持ちを、僕よりもずっと年下の彼女に悟られるのは恥ずかしかったから極力おさえてはいるんだろうけど、きっと些細な態度に出ているだろう。


小さい頃は、よく家族で行ったものだ。僕自身、あまり歩き回るのが好きな子供じゃなかったから、帰りたがってたっけ。でも、大人に近づいた今では、自分たちの倍以上大きな生き物が水の中には何匹もいると思い感慨深い気持ちになる。

なんとも不思議な感覚だ。


他にも、小さな魚を見たり、カラフルなやつ、発光するやつとか、名前は覚えきれなかったけど、色々見た。



今日の片岡さんは、どことなく変だった。


正確に言えば、元気がなかった。


せっかくの誕生日なのに、と彼女を責めたい気持ちもあったけど、それ以上に心配だった。


だから、きっと歩き疲れたに違いない、電車に長く乗ったし。そう思い込んで、何も言わないようにした。




帰りは、お約束の丘へ。


ベンチに座った隣で、手提げの鞄の中に手を入れて何かを出そうとした。


プレゼントだ。


「はい、これ。誕生日プレゼント」


照れ臭そうに僕に渡した、カラフルな包装紙に包まれた箱。


「開けてもいい?」


「うん」


僕は、包装紙が破れないように丁寧に外した。その下の、白い箱を開ける。


中には、ネクタイピンが入っていた。銀色の、有名ブランドの刺繍が入ったネクタイピン。


僕が通う学校の制服は、ブレザーで、上はネクタイを締めるのが決まりだ。制服が学ランじゃないからという理由で入学する人も多い。僕は、ネクタイピンにはこだわりが無かったからいつも安物を付けていたけど、これ、高かったんじゃないのか。


「ありがとう…。でもこれ、結構高かったしょ?」


「うん」


彼女が続ける。


「すっごく、高かった。だから、うちの八百屋を手伝ってお小遣いを多めにもらったり、あんまりお菓子とか買わずに貯めてたから、なんとか買えた。」


すごく嬉しい。


言葉が出なかった。


「私は、サトシさんのことが、好きだから」


僕のことを真っ直ぐ見つめてそう言った。



今日も夕陽が綺麗だ。先週よりも、少しだけ涼しい。秋の、仄かに涼しい、あの切ない感じがする。


夏の日焼けなんて、無かったような真っ白い肌。整った顔立ち。


キレイだ。


彼女の姿が。


そして何よりも、心が。


どうしようもなかった僕の人生を、ことごとく変えてくれた片岡さん。僕の前に立ちはだかる絶望を、拒絶してくれた片岡さん。


真っ暗な僕の旅路を、明るく照らした、まるで太陽のような彼女。



キスがしたい。



そう思った。



「片岡さん、僕も好きだよ」


僕は、唇を彼女の唇に近づけようとした。


早く、たどり着かないかな。でも、凄まじくもどかしいこの間も、狂おしいほどに愛おしい。




その時だった。




「さよなら」




「えっ?」


一瞬、何を言われているかわからなかった。


数秒後に、声の内容を理解する。しかし、その内容の意図が、まるで分からない。



「『効果』はもう、切れてるみたいだから、無理しなくてもいいよ。 今まで、もてあそんで、ごめんなさい」


僕は、顔が固まる。


「片岡さん、何を言って…」


「さよならっ!」


彼女は自分の家の方向に走って行った。呼び止めたいのに、あまりの驚きから言葉が出なかった。



秋の始まりを知らせるような風が、僕の身体を横切った。

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