第80話 ソラン

「イル、大丈夫?」


ソランはいつもの優し気でそして気づかわしげな視線を向ける。

マガラは両手を上げて降参の意を示した。


「だって本当のことだもの。」

「奥様の意図は把握しております。

そのために私をここに呼ばれたのでしょう。」


先程侍女に言づけたのはこのことだったのかとイラステーも見当を付ける。

だがソランの言うマガラの意図はわからなかった。


「彼女には無理をして欲しくないだけ。

あなたもそう思うでしょう?」


マガラは意味深な視線をソランに向けた。

イラステーはマガラとソランの気の置けない会話に何か居心地の悪さを感じ、口を開いた。


「あの…お邪魔でしたら私は…」

「その必要はないわ。」

「その必要はない。」


あまりにも息がぴったりなのでイラステーは驚いて何も言えなかった。

ソランは苛立ちを抑えるように、自分の髪を片手でぐしゃりと掴む。


「イラステー、邪魔なのは私なのよ。

ここは使っていいからね。

私は少し酔いを醒ましてくるわ。」


そう言うとマガラは部屋の中へと消えて行った。

イラステーは訳がわからず立ち尽くし、呆然とマガラの消えた方向を見ていたが

ソランが呻いたところで現実に引き戻された。


「ソラン、大丈夫?」

「ああ、大丈夫だよ…いや、大丈夫じゃないな。」


イラステーはいつになく落ち着きのないソランに驚いた。

イラステーが心配して近づくと、ソランは慌てて諸手を挙げてイラステーを制した。


「いや、本当に大丈夫なんだ。

座ってくれないかな。」


イラステーはどうしたものか少し考え、結局言われるがまま席に着き、ソランも先ほどまでマガラが座っていた椅子を少し引いて座った。

今日のソランは本当に変だと思った。


「本当に大丈夫?」


イラステーが気づかわし気にソランを見ると、彼はちらりとイラステーに視線を向けてすぐにそらした。


「ああ…」


それ以上何も言わなかったのでイラステーは口を開いた。


「どうして今日は晩餐に出席しなかったの?

ネメア様は招待したって言ってたわ。」


ソランは大きくため息をついた。


「それは皆が酔いつぶれたら屋敷の守りが心配だからだよ。」

「ふうん…」


イラステーはあまり納得できなかったが、ソランもそれには気づいているはずなのに、この話題を続ける気はないようで話を変えた。


「君のそんな恰好を初めて見たよ。きれいだね。」


イラステーは思わず頬を染めた。


「ありがとう。なんかソランに言われると変な感じ。」

「どうして?」

「そういうこと言わないからね、普段から。」

「そういう恰好をしないからだよ。普段から。していたらいつも言ってたさ。」


ソランが微笑んだ。

なんだか調子が狂う。


「絶対言うわけない。」

「いや言ってたね。

言わないと刺されるかもしれないだろ。」


イラステーが拳を握ると、ソランは身を引いた。


「ほらね。お気に召さないといつもこうだ。」


ソランが笑った。

イラステーははっとして拳を下げたが、笑うソランを見て結局自分も笑ってしまう。

これでいつもの雰囲気になった。


「奥様と仲がいいのね。」


ソランが目を見開いた。


「そう見える?」


イラステーは頷いた。

ソランは首を振った。


「言っておくけど、変な関係じゃないよ。

あの方はここの兵たちを、特に若い兵たちを息子のように思って下さっているんだ。」


確かにイラステーが訓練に参加していることを心配していた。

それはそういうことだったのかとイラステーも納得する。


「それで、どうするの?

奥様は下がられてしまったわ。」


ソランはマガラに呼ばれてここに来たのに肝心の本人はどこかに行ってしまった。

ソランはここで何をしているのか、そう尋ねるとソランはまた落ち着かない様子で頭を抱えた。


「ああ、わかってるよ。」


イラステーはただそんなソランを見ているしかなかった。


「あいつはまだ晩餐の席かい?」

「あいつってラドゥケスのこと?」


ソランが頷いた。


「そうだと思う。きっといろんな話で盛り上がってるわ。」


イラステーは何の話かは口にしなかった。

口にしたくなかったのだ。

ソランとその話題について話したいとは思えない。

どうしてもマルケの話になってしまうからだ。

イラステーの淡々とした口調に、ソランも何かを感じ、それ以上はは話を広げなかった。


「君はこれでいいの?」

「何のこと?」


イラステーは怪訝な顔をした。


「あいつとの結婚のことだよ。」

「ああ…」


イラステーはうんざりした顔をした。


「あなたまでそんなことを言うの。」

「俺は心配なんだ…君がその…将軍の妻なんてものをやれるのか、それに都が住みやすい場所だとは思えない。」


それはイラステーも何度も考えた。

だからと言ってラドゥケスと離れるなんて無理だ。

ラドゥケスとイラステーはすでに分かち難いものを共有している。


「フェモラやセラはどうするんだ?また2人を置いていくのか?」


イラステーの胸がちりちりと焼けるような気がした。


「母さんもセラもここに残ることになると思う。ラドゥケスは都に来たらいいって言ってくれてるけど、母さんはここに残ると言ってるの。セラはもう少し大きくなったら考えたらいいって。」

「それじゃあ置いて行くってことなんだな。」


だめだ、とイラステーは自分に言い聞かせた。

イラステーの胸にどろりとした熱くて醜いものがせりあがってくる。

声を荒げないように気を付けながら尋ねた。


「何が言いたいの?」


ソランは何も答えなかった。

イラステーは黙っていられず胸の内からわき出るものをそのまま吐き出した。


「ソランが言うことは全部何度も考えたし、それも全て織り込み済みで出した結論なの。

そんなのソランが一番わかってるでしょ?

なのになんで私を苦しめるようなことを言うの…?」


イラステーは自分の人生を悲観してはいなかった。

父が早くに死んだことも、家族のために命を懸けてきたことも、目の前で最愛の人を失ったことも、全てに自分を憐れんだりはしていない。

だけどあまりに疲れていて、そして愛する人が私を愛していると言ってくれたのだ。

この幸せを手放すなんてできない。

そこにどんな障害があっても、乗り越えてみせると誓ったのだ。


「…君にあいつがふさわしいと思わないんだ。」

イラステーは形容できない怒りに飲み込まれた。 


「私に残って欲しいならもっとマシなことを言いなさいよ!!

馬鹿じゃないの!?」


イラステーはそう言い放つとその場を逃げるように室内に飛び込んだ。

だが自分が何を言ったのか考えようとした次の瞬間にはソランに手首を掴まれていた。

イラステーは反射的に腕を振り払ったが、ソランは放すどころかそのままイラステーを腕の中に捕らえてしまった。

イラステーは驚いて体が固まってしまった。


「ごめん。」


首にかかる吐息に妙な震えが走る。


「イラステー、ごめん。君を傷つけるつもりはなかった。」


ソランは絞り出すように囁いた。


「そうだな、俺は馬鹿だ。自分を守るあまり君を追い込むようなことしか言えなかった。

それをマルケ様も奥様も心配していたのに…。」


突然マルケの話が出てきたことに驚いた。

イラステーはソランの言うことを理解しようと必死で頭を巡らせた。


「俺は自分が傷つかずに、自分の望む状況に事が運ぶように立ちまわっていたんだな…こんなことだから君は去っていくんだ…」


イラステーの頭の中でソランの意図が形になろうとしたところで、突然、腕を緩めてイラステーを向き直せた。

目の前には真剣そのものの彼がいた。


「イラステー、君を愛してるんだ。

もうずっと昔から。

それは妹としてではなくて、一人の女性として愛してるんだよ。

君にここを去って欲しくない。」


そう言うとソランはイラステーの両手を持って、自分の唇に押し当てた。

その手の甲に伝わる感触から、ソランの言葉が全身に広がっていく。

イラステーは知らず知らずのうちに涙を流していた。

そして呆然としたが、いつの間にか言葉が口をついて出た。


「どうしてもっと早く言ってくれなかったの…」


ソランは、はっとして顔を上げた。

イラステーは涙が止まらなかった。

イラステーのすることを全て受け止めてきた人。

優しく粘り強く見守ってきた人。

たとえそれが他の男性を追う時でさえ…。


「もう遅いよ…」


ソランの大きな愛の意味が大きく違ったことを知り、その溺れたくなるような深さと価値を知ったところで、イラステーの心はもうそこには無いのだ。


「もう無理だよ…。」


イラステーは失ったもののを大きさにおののいて泣いた。

両手で顔を覆って泣いた。

そんなイラステーをソランは優しく抱き締めた。

その抱擁は子どもをあやすような、そんな抱擁だった。


「ごめん。ごめんな。」


ソランは頭を優しくなでながら呟いた。

彼は自分が失ったものに絶望していたが、目の前にある悲嘆の少女を放っては置けなかった。

それは悲しくも彼のさがであり、使命なのだった。

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