第62話 エタンキア
「マルケ‼」
エタンキアの叫び声にイラステーは鳩尾がえぐられるような恐怖を覚えた。
「マルケ様⁉」
そばの男が機敏に反応した。
「マルケがやられた。奥へ運ぶんだ。」
イラステーは手探りでエタンキアを押しのけ、マルケの脇に入った。
男が支えてくれているお陰で難なく奥へと入っていけた。
イラステーはマルケを支えながら片手で彼の背を探ると、突起物に触れた。
イラステーの目に涙が溢れ出てくる。
そこは間違いなく急所の位置だった。
「マルケ様…」
嗚咽の中で名前を呼んだ。
「大丈夫だ…」
荒い息をしながら答えてくれたことが奇跡のようだった。
「そこにカウチがある。」
前を歩いているエタンキアが切迫した声で言った。
「背中に矢が…」
イラステーは口に出したくない言葉を絞り出した。
鞘走る音が聞こえたかと思うとマルケが呻いた。
「軸を切った。」
男の声だ。2人でマルケをカウチに座らせた。
「お前たちは逃げろ。」
マルケは息苦しそうに呻きながら言った。
「奴らは戻って来た。もう逃げるしかない。」
イラステーは首を横に振った。
「そんなことできるわけありません。」
「エクトン、これを…」
マルケはイラステーの言葉を無視して隣の男を呼んだ。
残された時間で何を伝えるべきか取捨選択が始まっているのだ。
イラステーは胸が苦しくなった。
マルケは懐から何か小さな袋を取り出し息絶え絶えに呟く。
「必ず陛下に、そしてアーロガンタイに…」
エクトンと呼ばれた男は袋ごとマルケの手を硬く握り、涙で揺れる声で答えた。
「もちろんだ。
この命にかけて誓う。お前に救われた命だ。
絶対にこの国を救って見せる。」
マルケがこちらを見た気がした。
「イラステー、最期にお前に会えてよかった。」
イラステーは暗闇でもわかるようにマルケの手を取り自分の頬に当てた。
涙が留まることを知らずあふれ出る。
顔をしっかりと見たかったがここは暗すぎた。
彼の目の光を見たいのに叶わないことが辛い。
「マルケ様…」
「お前には苦労をかけた。絶対に生き残ると誓ってくれ。」
イラステーは嗚咽を抑えながら言った。
「もちろんです。私もあなた様に救われた命です。
家族も皆感謝しております。言葉に尽くせない程…」
マルケの息が荒くなった。
イラステーは大事なことを忘れてはいなかった。
エタンキアの手を掴むとマルケの手へと導いた。
「マルケ様、エタンキア様をお連れしたのは私です。
エタンキア様はずっとあなた様にお会いしたかったのです。」
エタンキアはここに来て反論などしなかった。
「エタンキア…」
マルケの声が揺れていた。
イラステーが重ねる手の下でエタンキアの手が強張った。
「私は本当にすまないことをした…本当に…」
マルケが前かがみに倒れこみ咳をした。
「マルケ…!」
「マルケ様‼!」
マルケはその姿勢のまま彼女たちを押した。
「行くんだ…
エクトン…!」
エクトンはすぐに2人を掴んで立たせた。
「いや!最期までそばに居させて!」
「放せ!」
「ここは危険だ。死にたいのか!」
一括されてイラステーは何も言えなくなった。
軍人としての性がそれ以上の抗いを許さなかった。
エタンキアはまだ抵抗していたが次の瞬間、聞こえて来た音に誰もが動きを止めた。
足音がいくつか近づいてくる。
「遅かった。」
エクトンが2人を離し、鞘から剣を抜く音が聞こえた。
イラステーもそれに倣う。そしてエタンキアを傍に引き寄せた。
イラステーはびくりと体を強張らせた。
エクトンが急に何かを押し付けてきたのだ。
それを急いで受け取り感触で何か検討をつけた。
先程マルケが彼に託した物のようだった。
イラステーが口を開いた瞬間、片手で口をふさがれた。
「必ず王宮へ。」
そう呟くとエクトンは音のした方に走っていった。
イラステーは瞬時に頭を働かせ革袋を懐にしまうとエタンキアを引き寄せる。
「エタンキア様、ここを出ます。」
返事を待たずに彼女の手を引いた。しかし彼女は従わなかった。
「私はここに残る。」
「何を…!」
イラステーは闇夜にうっすらとうかぶエタンキアの顔を見た。
「青い小箱だ。」
イラステーは意味が分からず眉間に皺を寄せた。
「お前の部屋の青い小箱だ。」
すると突然エタンキアがイラステーを引っ張り、抱き込んだ。
その力はとても強く痛いほどでイラステーは一瞬何が起こったのかわからなかった。
「エタンキア様…?」
イラステーは疑問を口にしようとしてそれは阻まれた。
足音が近づいて来たのだ。
イラステーは突き飛ばされるように解放された。
「去れ!!」
その言葉と同時にイラステーは足音に向かって走り出していた。
ここは屋内で暗く相手が見えない。
エタンキアの声を頼りに向かってきたに違いない。
どうにかイラステーに注意を引かせようと陰に向かって剣を振った。
男は突然切りつけられたことに驚き、悪態をつく。
今度は男が自分を追うように仕向けるため、走り去る方向に体当たりした。
だがその努力もすぐに霧散する。エタンキアが叫んだのだ。
「お前の求めるものはここにある!」
イラステーは苛立ちで唸った。
男はすぐさま反応してエタンキアの方向に走る気配を見せる。
イラステーは陰に向かって背後から剣を振り下ろした。
男が野太い声で叫んだ。
だが急所ではなかったようで、剣の方向からイラステーに検討をつけると男はイラステーに襲い掛かって来た。
その衝撃で手から剣が落ちた。その瞬間イラステーは絶望し、死を覚悟した。
男に力で勝てるはずがないのだから。
取っ組み合いになり体が絡み合うと急所がばれ、男はすぐにイラステーの首を絞めにかかった。
イラステーは必至で抵抗した。腹にけりを入れようともがいたが相手はプロだ。
両膝も抑えられるといよいよ首にかかる力は強まった。
これは試合じゃない。向こうも必死でイラステーを殺しにかかっている。
尋常ではない力で首を絞められ、イラステーは痛みと苦しさで頭が爆発するかと思われた瞬間、男が叫んで手を引っ込めた。
次の瞬間エタンキアの叫び声が聞こえた。
「噛みやがった!」
初めて男の声を聞いた。
「イラステー!行け!」
エタンキアは絞り出すように叫んだ。
イラステーはエタンキアの言葉を無視して、必死で呼吸を取り戻しながら血眼で剣を探した。
手に固い物が当たると剣かも確かめずに掴んで男の影を追った。
またエタンキアが叫んだ。
「私はここだ。お前に欲しいものを与えるからその娘は逃がせ!」
なおも敵を引き付けようとするエタンキアに、イラステーの胸は張り裂けそうになった。
エタンキアの前に立ちはだかる影を捉え、狙い定めて渾身の力で心臓目がけて剣を突き入れた。
男が断末魔を上げた。
その叫びに身震いしそうになりながら必死で剣をねじ込んだ。
男は半身を振り回しイラステーをなぎ倒したが、力尽きて男もろともくずおれた。
イラステーは力を使い果たし、倒れたまま荒い息を整えることしかできなかったが、自分の呼吸しか聞こえないことがわかると、自分が勝ったことを知った。
だがその喜びも束の間で、すぐに彼女の名を叫んだ。
「エタンキア様!」
イラステーは絞り出すように彼女を呼ぶと、男を押しのけ這うようにエタンキアの傍に寄った。
柔らかい女の感触を見つけ、エタンキアの無事を確かめた。
「エタンキア様!ご無事で!」
イラステーの胸に喜びが宿る。
「イラステー、もう大丈夫だ。
もう逃げてもよい。もう私の傍にいる必要はない。」
エタンキアの疲れたような声と訳の分からない言葉にイラステーの胸がざわつく。
イラステーは手のひらに違和感を感じ、エタンキアの身体が生ぬるいもので濡れていることに気づいた。
「エタンキア様…?」
「もう助からない…。ようやくだ…。」
イラステーはエタンキアの見えない顔に穏やかな笑みが浮かんだ気がした。
そんなはずはない。
イラステーは一度だってそんな顔を見たことがないのだから。
「エタンキア様…!!」
恐怖が胸を刺し貫く。
イラステーが取っ組み合いになった時、男は剣を持っていなかった。
イラステーは間に合わなかったのだ。
「いや!エタンキア様…!!嘘です!そんなっ…」
「青い箱だ。イラステー…青い箱…」
そうしてエタンキアはそれ以上何も言わなくなった。
イラステーはエタンキアに縋りついて揺さぶった。
「エタンキア様!!だめです!!ここから逃げましょう!エタンキア様!」
イラステーは必至で訴えた。
だがどれだけ揺さぶっても人形のように
振れる体は
生気を持つことはなく
それは永遠に失われたのだと
もう二度と帰ってくることはないのだと
静かに訴えていた。
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