第37話 エタンキアの戯れ1

イラステーは回廊を急いでいた。

手には女性が運ぶには少し大きい水瓶を抱えている。

必要な水は毎日敷地内にある井戸から運ぶことになっていた。

だがイラステーは体力があるし、敷地内の距離など苦でもなかった。それにここへ来れば訓練場が見える。

前までは耳を澄ませて様子を伺うだけだったが、モドレゴと会ってから少しずつイラステーの行動は大胆になっていった。

イラステーは抱えていた水瓶を床に下ろして、訓練場を眺めた。

素振りをしている男たちはハバシルの男たちよりも屈強に思えた。都での訓練法はやはり地方とは違うのだろうか。

知らず知らずのうちに筋肉が彼らの動きに合わせて反応しているのがわかった。

あの中のいったい何人と今のこの体でまともに戦えるだろうか。

何年も鍛錬を重ねて身につけてきたことが、どんどんと失われているかと思うとやりきれない気持ちになった。

つかの間、現実を忘れるように彼らの訓練に見入っていたが、背後から聞こえてきた声にイラステーは戦慄した。

「ここで何をしておる。」

イラステーは声の主の顔も見ずに慌てて床に平伏した。

まさかエタンキアが自分の館から出てくるとは思いもしなかった。どう答えようか考えているとエタンキアが先に次の言葉を続けた。

「よい、面をあげよ。」

言われるままに顔をあげたが、エタンキアの酷薄な笑みにイラステーの心臓が跳ねた。

「あれが気になるか?」

イラステーが固まっていると、エタンキアはイラステーの前を横切り角の向こうへと消えた。

イラステーはあわてて立ち上がり、エタンキアを追いかけた。

エタンキアの姿に気づいた男たちは、訓練を中断し片膝をついて頭を下げた。

そんな男たちにエタンキアは声をかけた。

「誰かこれへ。」

1人が立ちあがりエタンキアの元へと近づいてきた。

そう若くはない男であったが、鍛えられた体に隙は無く他の男たちにはない静かな威厳があった。エタンキアの傍に来るとその場で肩膝を突いて頭を垂れた。

「何か。」

エタンキアは男を見下ろして言った。

「お前たちに頼みがある。この女は先だって私の傍仕えとなった者だ。」

男は面をあげてエタンキアのそばで戸惑うイラステーを見た。

そして怪訝な表情を浮かべる。エタンキアは気にせず続けた。

「この者のために手合わせする者を見繕ってもらいたい。」

イラステーは耳を疑った。

思わずエタンキアを凝視してしまい、男にイラステーの動揺を気取られてしまった。

男はイラステーの反応から状況を理解したようだった。

彼はエタンキアの目をしっかりと捉え、はっきりとした口調で返答した。

「エタンキア様、お言葉ではございますが、我々は武人として誇りを持って主君よりこの職を頂き、日々鍛錬しております。

戦いも知らぬ者の力試しに技を磨いているわけではございません。そしてそれは我々全てが疑う余地がないことなのでございます。」

イラステーは男の言葉を聞いて胸が震えるような気がした。

この館にエタンキアに対して物申せる人間がいることに驚いた。

彼はエタンキアの女官いじめにつき合わされることは頑として受け付けないつもりだ。

幸いにも男にはイラステーが非力な女として捉えられたらしい。

彼にもプライドがあるならば、いくら女主人の命令とはいえ女相手に刀を振り回すようなことは避けたいだろう。

武を心得る人間でなくても、そのような命令が彼らを侮辱する行為であることがわかりそうなものだが、エタンキアには理解できないらしい。

イラステーは、頭をめぐらせて目の前の男が一体何者なのかを考えた。

おそらくハグノスの私兵隊をまとめる者だろう。

エタンキアは男に言われたことを気にする風でもなく言葉を返した。

「プロトよ、何もか弱き女を相手にせよと言うておるのではない。この女は、もちろん武を心得ておる。

しかも、クレウス将軍の教えを受けた愛弟子なのだ。どうだ、お前も少し興味が沸いてきたであろう。

わかればすぐに仕度をしておくれ。」

エタンキアは麗人が浮かべる仮面のような笑みでイラステーに視線を送った。

イラステーは悪寒が走り、その場に立ちつくしていた。

しかし、プロトと呼ばれる男はエタンキアの言葉に、御意、とだけ答えるとすぐに今まで鍛錬していた男たちに指示を出しはじめた。

イラステーは耳を疑った。

先ほどの反抗の意志はどう納得させられたのか、彼の指示にはもう微塵の迷いもなく、仕度は目を見張る速さで整えられていく。

イラステーだけが着いていけなかった。

これが雲上人の感覚なのか。

イラステーが呆然としている間にも、どこから現れたのか幾人かの女たちがせわしなく準備をはじめている。いつのまにか酒盃やカウチまで運ばれてきた。

どうやらエタンキアは物見遊山を決め込むらしい。

男も女もバタバタとまるで祭りが始まるかのように動き回っていた。

イラステーはただその様子を見届けるしかなかった。

エタンキアはそんなイラステーに、声をかけた。

「お前も仕度をするのだ。久しぶりに剣が握れるのだ、嬉しかろう。」

まるでこれは優しさなのだ、と言わんばかりの笑みにイラステーはどんな反応をすればよいのかわからなかった。

機械的な返事を残してその場を離れる。

イラステーは足早に自分の部屋へと向かった。

イラステーは歩きながらこの短時間の間に起こっていることを頭で整理していった。

エタンキアの目的は明白だった。イラステーを痛めつけ、それを余興とするつもりなのだ。

プロトと呼ばれた男ははそれらに自分たちが利用されることを快く思っていない、はずだった。今はもうどうなのかわからない。

私がマルケの弟子である事実に興味を持ったのだろうか。

彼はイラステーの相手に誰を選ぶだろう。その男に自分は勝てるのだろうか。

その問いが頭に浮かんだ時、急に体が高揚するのがわかった。

部屋につくと、すぐにベッドの下にある箱を取り出した。

その箱を開けるとイラステーは胸が熱くなった。

手に馴染んだ布の感触を確かめると、すぐに戦闘着を身につけた。

イラステーは不思議な感覚で満たされていくのがわかった。

着替えが済む頃には、エタンキアやこの屋敷への疑問や違和感は消えていた。

今イラステーの頭の中にあるのは、目の前にせまる試合のことだけだ。

剣柄を握る感覚を思い出すと頭の芯が熱くなり、こめかみで激しい脈の音が聞こえる。不謹慎にも、自分は興奮している。イラステーは武人の性を自覚した。

先ほどの場所まで戻る道を一歩一歩、歩を進めながら一呼吸ごとに戦いの感覚を思い出していく。

イラステーは限られた時間でそれぞれの筋肉を丹念に伸ばしていった。

すれ違って行く使用人たちが、息を呑んでイラステーに道をあけた。

しかし今のイラステーは気にならない。

イラステーの目には今までの戦いと訓練の記憶が流れていく。

到着する頃に思い出したのは、最後に握った剣の感覚だった。

ラドゥケスとの試合だ。

あれ以降マルケはイラステーが剣を握ることを許さなかった。

イラステーはエタンキアの元へ近づき片膝をついた。

「これを。」

エタンキアの声で顔を上げると彼女の傍にいた女がイラステーに対して膝を折った。一緒に働いたことはないが、見知った使用人だった。女は両の腕に広げた布の上にある長剣をイラステーに差し出した。イラステーはその剣、正確には鞘の美しさに息を呑んだ。作りは至ってシンプルだがとても洗練されていた。鞘の本体はおそらく動物の角から掘り出したものだろう。色は血を思わせる深く濃い赤をしていた。職人が丹念に磨き上げた様が浮かぶよう艶やかな質感だ。柄は金細工だが本体の美しさを損なわないように申し訳程度に縁取られている。きっと中の刀身も同じくらい立派な物に違いない。その美しさをひと目確認しようと、イラステーは思わず手を伸ばした。

しかしイラステーの中の何かが彼女の手を止めた。

そのまま固まってしまったイラステーにエタンキアは声をかけた。

「どうした。これはお前のために用意した剣だ。剣がなくては戦えまい。」

イラステーはなぜ自分が手を止めたのかわからなかった。

「…エタンキア様。申し訳ございません。

このような美しい剣、わたしには不相応。

どうか訓練用の剣をお貸し頂きとうございます」

エタンキアが何かを言おうとしてあの男、プロトが遮った。

「では我々の護身用を使いなさい。大きさも調度よいだろう。」

「ありがとうございます」

イラステーはエタンキアのいる場から軽く跳び降りてすぐに男たちのいる場所に駆けた。背後でエタンキアが用意された席に座る気配を感じた。

イラステーは見えない檻から飛び出したような気分になった。

プロトに言われて部下が剣と盾をイラステーのもとに持って来てくれた。

盾は訓練用の小さな物だった。

剣はよく使い込まれていてイラステーの手に馴染んだ。

「ここがフィールドだ。」

プロトが地面を指し示している。

気づけばイラステーはレンガで丸く縁取られた円の中にいた。

イラステーはプロトに強く頷いた。

「ルールはトリだ。わかるな。」

イラステーはまた頷いた。3本先にとった方が勝つということだ。剣を落としたり、急所を捉えたら1本だ。力のないイラステーは急所を正確に狙っていくしかない。残る問題は相手だ。

「相手は、モデレゴがする。」

イラステーは驚いてプロトの視線の先を追った。

間違いなく彼が相手だった。モドレゴはフィールド内に入って来た。イラステーと目が合うと彼はにやりと笑った。イラステーは居心地の悪い気分になって剣を持ち直した。

「女相手だが、手は抜かない。クレウス将軍の弟子とあっては失礼に値するからな。」

モドレゴはイラステーの中途半端な姿勢を見抜いて言い放った。

イラステーは驚いてモドレゴを見返した。彼はきっと優しい男に違いない。

そうでなければ、わざわざ警告を与えたりしない。

こんな形で親交を深めることとなるとは。

イラステーは少し悲しい気持ちになった。

しかし沈んだ気持ちも一瞬のことで彼が剣を構えると、イラステーの意識が急速に戦いに向くのが分かった。

どうすれば勝てるのか、最初の一手をどうするか。

再びモドレゴの目を見た。

だが彼の表情からは何も読み取れない。

イラステーは静かに自分の位置に着いた。

年若の男が審判を勤めた。

イラステーは腰を低め、剣を構えた。

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