第9話 ハバシルのイラステー

イラステーが暮らすハバシルの村は人口こそ少ないが、居住地の周りを囲む大麦畑は広大で、収穫期には一面黄金色に変化する。今でこそ海洋国家と謳われるエオナだが、建国当時は航海技術も未熟で農業こそが基幹産業として国を支えた。ハバシルも農業地帯として国家の財源を担ったのだ。陸路での物資の流通が激しくハバシルにも商人や流通業者のための宿が多く存在した。しかし時代と共に国の有りようも変化し、物資の流通は陸路から海路へと代わった。刻の王がエオナの地形に目をつけ、港を整備したのだ。首都エオナイの眼前に広がるマール海は外国との貿易の航路へと変化した。エオナの隅々まで物資を行き渡らせるため、人工の河もいくつか造られた。ハバシルの大麦も運搬が容易くなり一時は大いに喜ばれたが、海外との貿易が軌道にのると国は政策の転換を決め、貿易中継国としての道を選んだ。外国の安い大麦が流入し、昔から農耕を続けてきた地域は打撃を受けた。変化に乗り遅れた者たちは住み慣れた故郷を捨て水運関係の仕事を求め、都を目指した。こうして多くの村が消えたが、そんな中でハバシルの村は広大な畑を維持し続けた。変革の時を生きる国民の所得は二極化したが、富裕層はハバシルの大麦を求めた。いつの時代も国産にこだわる人はいる。

しかし、市場の幅は確実に狭まった。最盛期から見るとハバシルの収入は比べものにもならない程落ちた。それでは将来的に大麦の質が落ちると、ハバシル一帯を治める領主が、私財を投じて工具の改良や農地の改革を行った。しかし成果を見る前に戦争が始まり、兵糧として作物はことごとく召し上げられた。そういったわけでイラステーはハバシルの栄光の時代を知らない。しかし、マルケから自分の村の歴史についてこうして話を聞かされるまで、イラステーは自分たち家族の外の世界について考えたことはなかった。

だが過去の栄光がどうだとか、その頃に比べて今の生活はどうだとかイラステーには預かり知らぬことであった。イラステーの世界は今のこの瞬間と、自分の家族で完結してる。イラステーが今も昔もわかっていることは、イラステー自身の生活が決して楽ではなかったということ。イラステーの家族はハバシルの村に住む多くの人がそうであったように大麦畑を所有し、土づくりから種まき収穫までを、村人たちで助け合いながら生活してきた。しかし父が兵役に就くこととなり男手を失った。そしてそのまま父は村に戻ることなく戦争で亡くなった。イラステーが7歳の時である。母は娘たちのために寝る間も惜しんで働いた。イラステーも母を支えたが、もともと村自体が貧しいのでイラステーたちの生活はいつも困窮していた。だが家族がいればイラステーは大概のことは乗り越えられた。だがついに母も無理がたたり4年前に病で倒れた。イラステーは自分が家族を養う決意をした。15歳のことであった。その頃にイラステーたち家族は今の家に移り住むことになった。ホムニスさんは村で宿を経営する女主人だった。隣村に嫁入りしたが、夫家族とうまくいかずにこちらに戻っていた。母より一回り上で、何かとイラステーたちの面倒を見てくれていたが、母が倒れたことを機に一緒に住むよう勧めてくれたのだ。イラステーもセラも宿の手伝いをしながら母の面倒を見た。今、こうして生きていけるのもホムニスさんのお陰だった。

イラステーはここでマルケ・クレウスと出会った。

イラステーの父が死んだ翌年、マルケはハバシルにやって来た。彼はエオナイから来て、住むところを探しているとのことだった。ホムニスさんは、イラステーたち同様、ここに住まわすことを決めたのだ。マルケはハバシルに来て間もなく、領主の護衛隊指南役の仕事を見つけてきた。イラステーはホムニスと同居するまで彼と関わりを持ったことはなかったが、同じ屋根の下で暮らすうち、彼の持つ知識や能力を目の当たりにして、彼が一体何者なのかとても興味を持つようになった。しかし、子弟となった今でも彼は自分の過去について一切語ろうとしない。ラドゥケスが師匠のことを知っていたことにはとても驚いた。状況が状況でなければ様々なことを問いただしていたに違いない。

イラステーはマルケに出会って剣術を学ぶようになった。全てはお金のためであったけれど、学ぶことの楽しさを知ることができた。だがもう学び続けることに価値は無くなってしまった。今年、イラステーは初めてメラタイに優勝することができなかった。ラドゥケスは約束を守って賞金を渡してくれたが、もう来年からは出場することはできない。女性で出場したことによる処罰は逃れられたが、イラステーは心が晴れなかった。来年以降、どうやって家族を養えばいいのか。

そして心が晴れない理由は他にもある。ラドゥケスとのもう一つの約束だ。


「顔が暗いわよ」

イラステーはつと顔を上げた。

「ぼうっとしてないで、早く洗濯物干しちゃいなさいよ」

イラステーのそばにはセラよりも少し年上の女の子が腕を組んで立っていた。愛らしい顔に美しい金髪が映える。イラステーと同じ髪色の少女は、そのあどけない容貌とは裏腹に澄ました物言いでイラステーに突っ込んだ。

「最近浮かない顔ばかりしているわね。あんたが戻ってから3ヶ月経つけど日増しに暗くなるんだもん。一体何があったの?」

メラタイのことを知る者は少ない。誰にも教えるわけにはいかなかった。

「ウェルシアには関係ないことよ。」

「まぁ失礼しちゃう!こっちは心配してあげてるのに!」

イラステーは苦笑した。ウェルシアはマルケが勤める領主ネメアの娘で本来ならこんなに気軽に話などできないのだが、何故か昔からイラステーに懐いていた。常に高飛車な物言いだが、本当はイラステーを心配してくれていることはわかっていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る