機械との競争における勘違い


このコラムではAIによる人間の肩代わりについて、これからも触れていくことになると思うが、AI以前にソロバンとコンピューターでも、鍬・鋤とトラクターでも、フライパンと自動卵焼き器でも、本質は同じである。


人間をサポートすること。

平たく言えば、人間の作業を楽にすること。

もっと実質的には、人間の作業よりも良いコストパフォーマンスを発揮すること。それが、機械化の目的だ。


機械は、人間以上のパフォーマンスを発揮できることを目標に制作されているのだから(そうでなければ作る意味がない)、その作業を肩代わりできる機械が世の中に登場した時点で、機械以上の労働対価を獲得するという意味では、もう人間に勝ち目はない。


制作者は、それが「実現可能」だと考えたから、その機械を開発したのである。


対象が肉体労働であるか頭脳労働であるかは関係なく、機械化して意味のあることは機械化していく。ただ、それだけだ。

これまでは、単にパワーが必要とか、数をこなすことが必要とか、そういう「単純作業」は機械に任せられても、理解と思考に基づく判断が必要な作業は任せられないと思われていた。

いや、実際にこれまでは任せられなかった。


それで多くの人は、なんとなく「知的作業こそ機械にまさる人間の絶対優位性」だと勘違いしてしまったのだと思う。


そう、これは『勘違い』だと思う。(個人の感想です)

あるいは過去のイメージだと言っていいかもしれない。


なんであれ、人々の中には、人間の持つ知力と創造性に対する過大な期待が、漠然とある。


だが、これもちょっと考えてみると分かることだが、多くの人々は、毎日、それほど創造的な活動を行っているものだろうか?

確かに人類の創造性は、素晴らしい芸術や、技術や、概念を生み出してきたし、これからもそうだろう。それは間違いないと思う。

だが、「万人が認めるような価値のあるクリエイティブ」を生み出せる人間の比率は、社会の中でどのくらいだろう?


絶対値ではなく視点の置き方の問題に過ぎないが、私の目からすると、多くの人は創造性から何かを生み出すよりも、受け取る方が遙かに多いように思える。

そして、その方が社会のあり方として自然であると感じる。


ここは絶対に誤解されたくないのだが、これは決して俗に言う「大衆」を馬鹿にした発言や、消費行動に対する嫌みではない。

人々にポテンシャルがないという意味ではなく、必要がないから行っていない、という意味だ。


(ただし、これは自分自身も含めてそう思うが、単純な個体のポテンシャルの問題だけではなく、それを許容する社会か、と言う側面も含んでいる。創造性と経済的生産性はイコールではなく、万人が創造的活動のみで暮らしていくことを許してくれる社会は、まだ到来していない)


人々が「創造性」に求めるのは、実際は「創造的活動そのもの」ではなく、「その結果」に過ぎないことがほとんどである。


それが、人間らしい、あるいは人間ならではと感じ入るようなインスピレーションのもたらした物であっても、「数打ちゃ当たる方式」での膨大かつ機械的な試行錯誤の中から抽出された物であっても、恐らく、あえて教えられなければ気にはしない。


インスピレーションがなくとも、ディープラーニングによって、山のような試行錯誤の中から、人々が選んでいった物を残していけば、いずれ、そのニーズに適切に応えられるようになっていくだろう。

自分にとって満足の行く成果物さえ得られるならば、ほとんどの人はコストの低い方を選択すると思うし、すでに実際に選択してきている。


富裕層の投機とお遊び以外の世界では、創造的活動においてもコストダウンへの圧力はすさまじい。


世界中でアーティストやクリエイターに支払う金額を削減させているのは、AIでも、コングロマリット企業でも、悪の秘密結社でもなく、少しでも安い方を選ぶあなた自身だ。

だがこれも、芸術が貴族階級の物としてしか存在できなかった時代に比べ、低コストで万人に喜びをもたらすようになったと考えれば、悪いことではない。


「人間が作り出した物」であることにこだわらないのであれば。


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< 「機械との競争」は、人間の仕事が機械に奪われる可能性を論じたエリック・ブリニョルフソンによる著作「Race Against the Machine」の邦題である。この本でも「意外に知的労働よりも肉体労働の方が人間向きではないか?」という視点が提示されている。

必要以上に不安を煽るといって、この本を嫌う人もいるが、個人的には、この内容を否定するのは難しいと感じている。>


< これは皮肉でも何でもなく、個体としての人間の精神活動がそれほどクリエイティブだったら、いまのような大衆娯楽の枠組みは存続できないと思う。なぜなら、人々が創作にいそしむ結果、消費に費やす時間を持つことができないからだ。>


< そもそもクリエイティブの低価格化の最大要因は、創作活動に従事する人が増えたからだが、これは、多くの人々の生活にゆとりが出たことも示しているので、本質的に悪いことではない。仕事の合間に絵を描くゆとりを持てる庶民が、明治時代にどれほどいただろうか?>


< 先日、モディリアニの描いた裸婦像が、オークションで約172億円で落札されたが、これを「芸術への対価」と捉える人はいないだろうと思える。>

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