下・真実の名 3、夜霧に霞む

「なんだよその、わざとらしい溜め息」

 ケオルが言うと、キレスはこれ見よがしにもう一つ溜め息をついてみせた。

 二人は中央神殿の入り口へとつづく石畳の路を歩いていた。儀式が始まって数時間、南の中庭を暴れまわっていた炎も勢いを失い、結界を静かに包むばかりになっていた。あとはじわじわと時間をかけて引き出してゆくだけなのだろう。結界は今も保持されたままだが、内側の様子や変化が見えてこない状態が続いた。半日はかかるということで、それを見計らって南を出たのだ。

「なんで移動にこんな時間かかんだよ……ありえねえ」

「しょうがないだろ。第一、取りに行けって言ったのはお前自身じゃないか」

「お前がうるさいからだろ! そんなに大事なら忘れんなよ、やる気ねえのかよ」

「ああ、もうすっかり忘れてた。お前が放り投げた箱の中身が気がかりすぎて」

 互いに悪態をつきながら、同じ歩調で石畳を踏む。日暮れのころ、高い塔門の上に広がる藍染の空には、もう星々が小さく瞬いている。

「だいたいケオルお前、月属の術を研究してるんだろ。使えばこんなもん一瞬じゃねえか」

 自身の力で自由に行き来していたキレスにとって、知属が移動のために文字を書き連ねる行為が信じられないほど手間に映った。苛立ちを交えそう言い放つと、ケオルは何か言いたげに口を開きかけたが、結局言葉にしないまま黙ってしまった。北で一度試した月属の術は、どうやらあれからうまくいっていないらしい。思いのほか沈んだ空気に、キレスは居心地悪そうに肩をすくめると、思いつきでこんなことを言った。

「これを持ってないからだ」

 そうして黒い革ベルトの間から取り出したのは、紅玉髄のビーズ帯だった。

 ずっと首元を飾っていた紅色の帯。南の森で外してからは一度も身につけていない。これがあるとすぐに自分だと気づかれるためだ。とはいえどこへでも置き捨てる気にはなれず、こうしてひそかに持ち歩いていたのだった。

「せっかくお前にやったのに、返すなよ。これが無いから術がうまくいかないんだって」

 そう言うと、根拠などないことをすっかり見透かされているのか、ケオルは意図がつかめないといった様子で「俺に?」と首をかしげる。

 キレスは答えに窮した。紅い色を望み幼少期に与えられたそれは、渇望が消え失せた今、ずっと身に付けたままでいるのも滑稽で、またいつまでも変わることができないのはこのせいだと勝手に決め付け、遠ざけたいと思っていた。けれど捨ててしまうのもどうにも忍びない。ちょうど次の居場所として都合がよいといった具合だろうか。

 しかしそれでは理由にならないどころか、言葉にするのも面倒に感じ、キレスはケオルの腕に巻きつけるようにして強引にそれを譲り渡した。

「前にもあったような気がするな、こういうこと……」

 ケオルはそう言って、薄闇に朱色をにじませるビーズ帯を手にとり、しげしげと眺めていた。もしかしたら本当にこれで月属の術がうまくいくかもしれない、とでも考えているのだろうか。そう思うとなんだか可笑しくて、キレスはふっと笑みをもらす。

 すると、ケオルもつられたように笑って、戯れにその飾りを自身の首もとに結びつけた。そうして言うのだ。

「兄貴も間違えるかもな」

 キレスは呆気にとられ言葉を失う。まだそんなことを言っているのか、と思った。自分は彼がするように、それを望んだり喜んだりはできないのだ。まるで共感できない。……けれどもなぜだか、以前抱いたような断絶――同じ場所にあっても見ているものがまるで違っているという認識――は影を潜め、今はその代わりに、変わらないもの、変わる様子のないものへの安堵がじんわりと胸を占めていた。

「ほんと、好きだな。お前」

 自然と言葉が漏れた。その言葉どおりの感情があった。ただそれだけのことが、このときキレスにはずいぶんと清々しく感じられたのだった。

 やがて二人はそびえ立つ塔門にたどりつく。キレスは門の前に立つと、いつものように手を掲げ、その扉に触れようとした。が、ぴたりと動きを止めると、

「……俺もう南の代表じゃなくね?」

 代表となるものに応じて扉は開くが、今の自分にその権限はあるのだろうか。力を失って代表のままでいる意味などないはずだ。

「どうだろう」と答えてから、ケオルは「でも今は特殊な状況下だから、別の封がしてある」言いながら腰に下げた小さな麻袋の中をまさぐる。

 案の定、扉の封を解くにもまた時間がかかりそうだ。キレスはみたび大げさに溜め息をつくと、くるりと背を向けぶらぶらと歩き出した。もともと暇だからついてきてやっただけなのだ、面倒なことは全部やらせておけばいい。

 面倒。本当に、面倒ごとばかりだ。力があったときには一瞬でできた事柄に、わざわざ時間をかけ手間をかけないとならない。忘れ物なんて、イメージさえできればこんなところまで来る事なく手元に寄せることができたのに。

 南でそうした面倒ごとの骨頂ともいえる書字を眺めていたとき、キレスは漠然と、自分の中で時の流れる速度が変わってしまったのだ、と思った。それはひとつの大きな気付きだった。これまで素早く望みを実現できていたために、流したり通り過ぎたりしていたさまざまな、自分の外側にあるものが、あまりにゆっくりな時の中で、どうしても目に入るようになる。そうした中でキレスは、最も身近にあるものが、過去に見えていたものと違って見えるように感じていた。

 十年前、兄弟と知らず南で出会った頃、ケオルは一人でなんでもできるのだと思っていた。いつでも先を歩いていて、自分はそれについていけばいいのだと、そうして頼っていた。その後自ら道を違えてみたけれど、彼はいつでも前にいるように感じていた。……それがいつの間にか、すぐ隣にあったのだ。近づいてみると思ったより心許ない。この忘れ物だって、自分が取りに行けばいいと言ってやらなければ、彼は時間を無駄にしたといつまでも悔やんでいただろう。

 結果キレスにとってはより面倒ごとが増えた。一緒に行くかと訊ねられたときなぜ断らなかったのだろう。何もすることがない、待つだけというのはまったく面倒なことだ。それが分かっているのに――ただ、あんなふうに嬉しそうにされたら仕方がない。

(ほんと、しょうがねーな)

 キレスは天を仰ぐ。西の山際はまだほのかに茜色をたたえ、その下には水嵩を増した夏の河が、塔門からまっすぐ伸びる石畳を飲みこんでいる。水面から流れてくるらしい冷たい空気が肌をなでるので、キレスは肩にかけた薄手の亜麻布を手繰り寄せ、小さく身震いした。髪を切ったことを少し後悔もした。

 風が吹くのか、砂の摺れる音が、乾いた草木のざわめきが聞こえる。耳障りだな、そう感じてキレスが振り返ったときだった。目の前に大きな影が揺らぎ、空のかすかな残り火がその輪郭をうっすらと浮かび上がらせる。

「!」

 人影。それと分かったときには既に目前に迫り、眼光がぎらりとこちらを捉えていた。戦慄――そのとき鈍い光が素早く宙を裂くのを捉え、キレスはとっさに顔面を覆う。

「……ッ!」

 身を仰け反らせたが避けきれず、腕に痛みが走る。そのまま地に背を打ちつけたキレスを振り切り、それは素早く身を翻し駆け出していた。

 ひらひらとはためく白布から伸びる四肢は細く、金やトルコ石を連ねたビーズで飾られている。紅や藍で染めた飾り紐が裾を彩り、振り乱された黒髪は豊かに波立つ。若い女――明らかに戦闘に不慣れな装束で、しかしそれは獣に憑かれたかのように荒々しく身を振り咆哮をあげ、振り返ったケオルに向かい大きく腕を振り上げた。

 キレスは夢中で彼の神杖を手中に現し、女の足元へ投げる。石畳を擦り、弾かれた杖の先が女の足をどうにかかすめると、寸でのところで女は体勢を崩し刃は空を切った。

 うまく回避させたにもかかわらず、キレスの胸には安堵どころか激しい動揺が湧いていた。女は下級神なのだろう、戦闘で精霊を扱えるほどの力もなく、気配など消すすべも持たぬとみえる。しかし今のキレスには、その気配をつかむことすらできないのだ。これほど近く迫っていても、目視するまでそれと気づかずにいた、その衝撃。また彼はこれまで、このような危機に晒された覚えがほとんどない。敵を遠ざけたいと思えばそうした力が自然と働いたからだ。――しかし今の彼には、これらを防ぐすべが何一つない。愚鈍な感覚、力として僅かにも具現化しない意思。その不自由さを、初めて身をもって知らされたのだった。

「きぃああああああ!」

 女が金切り声を上げた。獣のように四つ這いになると、その不気味な眼光がキレスに向けられる。低く唸り歯をむき出し、髪を乱して、女はふたたび腕を振り上げ襲い掛かった。その手に握る短剣の刃が欠けていることに気づいていないのか――女は憎悪の感情に激しく駆られ、冷静な判断力を欠いているようだった。生きながらにして再生者のごとく、非合理的かつ予測のつかない動き。まるで自我が壊れてしまったかのように、敵に執心する様子。その気迫のすさまじさに、キレスは釘付けられたように動けない。

 と、風の唸りだと思っていたものが急激に響きを上げ、それが唱えられた呪文であると気づいたとき、炎が生じ女の身を包んでいた。

 地に転がる女の、叫びあえぐ声。石畳の傍に群生する乾燥した草に火が移り、それは明かりを灯すように地に広がりゆく。

「早く来い!」

 ケオルが叫んだ。肌に熱風が迫る。キレスは立ち上がろうとして肘に力を加えた……しかしその途端、がくりとその支えが失われた。とっさに身を支えようとした反対の腕も即座に崩れ、キレスは再び背を地につけた。

「……!?」

 力が入らない。立ち上がるどころか身体を支えることも困難だった。何が起こっているのか把握できないうちに、体ががたがたと震えだす。止めようと身体を押さえつけるように身を縮めるが甲斐なく、やがて寒いという感覚が遅れて意識にのぼった。火が迫っているにもかかわらず、手足が氷のように冷えてゆく。一方で身体の芯は焼けるように熱く、じわりと汗がにじんだ。

 はっ、はっ、と浅い呼吸が繰り返され、息苦しさに喉を仰け反らせる。

 次第に視界が、意識が、白い霧に呑まれてゆくように感じた。

 朦朧とする意識の中でキレスは、その霧が人の姿をとるのを見た。

 しかしその正体をつかむことなく、意識は否応なく霧の奥に吸い込まれ、それと同じになって、消えてゆく――。


      *


 キレスのもとに駆けつけようとしたケオルは、うっすらと漂う霧に思わず足を止める。

 見れば女を包む炎が消し去られていた。白霧はそこから立ちのぼるようにして生じ、女の周りをとりわけ濃く覆っている。

 いつの間に現れたのか、霧のうちに人影が浮かびあがった。膝を折り女を抱き上げると、滝のように流れるその長髪がさらりと広がり地に触れる。その様子ばかりが印象づいたのは、白く丈の長い衣に身を包み、その肌の色も比較的薄く、霧に溶け込むように見えていたからだ。

 ケオルはそれを警戒しながら、草間にくすぶる火を踏み分けキレスに近づく。

 長髪の人物は、用いる力、外観ともに水属神に違いない。ケオルはそれが「セルケト」である可能性を考えていた。キレスのあの様子は、明らかに毒物によるものだ。治癒力に長けた水属第一級「医神セルケト」は、その象徴物がサソリとされる通り毒物の生成をも得意とする。女の刃物に塗りこめられていたのだろう、それはおそらく神経毒。即効性はないがじわじわと死に至る危険がある。

 普通の毒であればケオルにも治療可能だが、「セルケト」のものであれば話は別だ。特有の技を破るためには、単独では不可能という法則があるからだ。

(それでも、同じ『セルケト』なら解毒できる)

 すぐにでも南へ戻ろうと考えていた。キレスの問題だけではない、敵がこれ以上増えると厄介だ。

 ただし先ほどキレスがぼやいたとおり、移動には手間がかかる。この状況でその最善手を簡単に打てるとは思えない。

(攻撃して退けるか、安全圏を確保し移動するか――)

 そうして思案するうち、北の水属神は女を抱えたまま静かに顔を上げ、敵を見定めるかのようにキレスを、次いでこちらを捉えた。その顔面にくっきりと浮ぶ瞳の彩、それはトルコ石のような冴え渡る淡青色。

 さっと血の気が引くのを感じた。――水属の長「水神セテト=ケネムウ」。考えうる最悪の相手である。攻撃の力がさほどないと言われる水属も、属長だけは例外であるのだ。

 いくつか用意された選択肢は一転すべて捨て去られ、空になった脳に動悸ばかりが響く。ケオルはちらと塔門を見遣った。もう少しで開くあの扉の向こうへ行けたなら、強固な結界が安全を保障するだろう。しかし……、

(駄目だ、キレスはどうする)

 ひとりだけ逃げ延びるなどできるわけがない。もう二度とあんな後悔はしないと決めたのだ。

(でも、何ができるっていうんだ)

 策がなければ二人ともまざまざと殺されるだけだ。……激しい焦燥に駆られ歯軋りする。足元の草間にいまだ残る火が、急き立てるようにちらちらと燃える。

 と、そのときケオルは、こちらに向けられた水神の瞳がくっと細められるのを見た。そこにはくっきりと、憎悪が色濃く浮かべられている。

「お前は……『月』」

 低く漏れた男の声。その視線が首もとの紅玉髄にあると知ったとき、ケオルの脳裏にひとつの道筋がさっと閃き示された。

 そうして彼は、口角を持ち上げその言葉を肯定した。――精査する暇はない、やるのだ。これは始めの一手……勝ち目の薄いこの状況を打破するための。

「兄弟がいたとはな」

 北の水神、デヌタはちらとキレスを振り返り言った。

「そう。双子のね」

 ケオルは胸のうちを覚られまいとするようにか、デヌタの問いに明確にそう答えた。そうして油断なく敵を見据えたまま、じりじりとキレスに近づく。

(どれくらいもつか……あまり長くはないだろうな)

 そのうちに、うまく仕掛けねばならない。利用するのだ――虚偽を、そして事実をも。

 水神デヌタは抱える女に視線を戻すと、ささやくように語りかけた。

「ハピ神は月を追うなと言われたが」女の頬にもう一度、いたわるように触れてやりながら。「これは、運命だ。そうだな、スー」

 そうして水属の精霊を呼び寄せ、女をこの場から去らせた。……ここが戦場となるために。

 ケオルはその様子を捉えながら、その男と自分、そしてキレスとの距離を測った。遠すぎれば届かないが、近づきすぎれば攻撃を誘発する。うまく見定めなければならない。

「月神『アンプ』。魔の力をもってハピ神の庇護せし生命を奪い去る『死神』」

 デヌタが立ち上がる。急激に気温が下がり、霧が空気中を濃く広く漂いはじめた。

「非力なるものに降りかかる災厄の主……」

 その奥からこちらを捉えるターコイズの瞳は、激しい敵意にまるで氷のように冴え冴えと灯っている。

「その罪は、重い」

 霧の中をちらちらと氷粒がまたたく。凍てつく大気。ケオルはそれが北の水神の、月神に対する烈々たる憤怒の現れであると知る。

 そうしてケオルは辛抱強くその瞬間を待った。敵もまた油断なくこちらを窺っている。空気がきんと張り詰める。

 ぴくり、とデヌタの眉が動かされた。その一瞬を捉え、ケオルは弾かれたようにキレスのもとへと駆け出す。

 デヌタの黒い長髪が広げられ、無数の氷の刃が放たれた。それは駆けるケオルを追い、足もとを小さく切り裂いてゆく。

 痛みにかまわずケオルは走る。そうしてあと数歩というところで、彼は自身の首もとに手を伸ばし紅玉髄のビーズ帯をちぎり捨てた。横たわるキレスのまわりに赤い粒が点々と転がる。白い石畳の上、それからすっかり闇に呑まれた草むらの中に。

 ケオルは投げ捨てるため伸ばしたその腕で、キレスの薄布を掴み取りそのまま、反対側の草むらに身を投げた。そうして肩を激しく上下させながら、敵の姿を探した。周辺の草にくすぶっていた火は完全に消し去られたが、水神はそこから一歩も動いていない様子だった。

 まず一撃目は試用である。「月」への警戒があれば当然そうだろう。つまり次はこの程度ではすまない。しかし今度こそ、水神をその場から引き離さねばならないのだ。

 水神デヌタはケオルが立ち上がるのを待たず、より深い霧を生み出した。草木を凍らすその冷気、数歩先もまったく見えてこないほどだ。ケオルはかじかむ手で薄布の端に素早く文字を書き連ねる。視界が遮られるのは幸いだった、まだ気づかれては困る。

 霧は次第に渦を巻いて吹き付ける。冷たいなどという生易しいものではなかった。身体がそのまま凍てついてしまうかと思われるほどだ。

 やがて粒が集い礫(つぶて)となって吹き荒れる。ケオルは薄布を盾にそれをやり過ごそうとした。短く文字で記した術は水属系統の力に働く一種の結界で、布を媒体にそこに魔術の膜を張り巡らせたのだった。

 しかし案の定、それは水属の長の力を完全に防ぎきれるものではなかった。まず媒体が弱く、冷気の盾となりえても吹き付ける風には容易くもてあそばれるのだ。ケオルは必死で足を地に踏み縛る――しかしついに魔術の結界が破られ、薄布が引き裂かれると、盾を失ったケオルは宙に投げ出された。

 氷の礫が次々と身体に突き刺さる。悲鳴を上げると肺に冷気が入り込む。内側から凍ってしまいそうだった。

 水神が力を収め、ケオルは地に投げ出された。寒さのあまり意識がかすみ、身体の感覚がまるでない。文字術による簡易結界は、水属の長の力の前ではあまりにも心許ないものだったろう。それでもあれがなければ、今意識があったか分からない。

 大気を覆う霧が徐々に晴れ、水神デヌタがこちらに近づいてくるのが分かった。ケオルはどうにか立ち上がるが、自分が本当に地に立っているかすらあやふやだった。荒い息を吐きながらうっすらと開いた目で敵の姿を捉える。水神デヌタは静かに足を踏み出し、キレスの傍を通り過ぎた。手にはまるでガラスで出来たような、透きとおる氷の槍杖が握られている。

(もう少しだ、あともう少し――)

 ケオルはふらふらと後退る。あの槍杖を避ける方法をひねり出さねばならない。

 ところが、水神デヌタはふいにぴたりと歩みを止めた。そうして腕を――槍杖を手にしていないほうの腕を、つと引き上げる。

「!?」

 手中の武器を用いず何をするつもりなのか。ケオルが困惑していると、掲げた腕の先からするりと水流が生み出され、ケオルに向け放たれた。

 迂闊だった。攻撃は武器でなされるものだと思い込んでいた。身構える間もなく――もちろん、身構えたところで無力であるが――、水流はケオルをそっくり呑み込んだ。抵抗するすべなど何一つない。水流が口をふさぎ手足に絡みつく。翻弄されるがままにケオルの身は地に圧し伏せられる。あまりにも無力だった。

 それは戯れのようなものであったのかもしれない、水は一度うねりを上げただけで鎮まってしまった。先ほどの技の威力とは比ぶべくもないが、それでも体力を奪うには十分だった。

 地に伏せたまま激しく息をするケオルの様子を、ターコイズの瞳が静観するようにじっと捉えていた。奇妙な間。槍杖を振るうにはずいぶんと距離がある。が、デヌタはそれ以上近づくことをしなかった。その目からは強い警戒の色が消えている。

「双生児か……確かによく似てはいる。が――」

 デヌタはふっと目を閉じると、冷ややかに言い放つ。

「『月』がまとう魔性と言うべきもの。お前からはそれがまるで感じられない」

 呆れか嘲りか、デヌタはその淡青色の目で一瞥すると、静かに背を向けた。

「非力な身の程で兄弟を庇おうとするか。太陽神側にあるお前たちにも当然、肉親への情があるのだろう。……なればこそ」

 デヌタはもう一度歩みを止め、僅かに振り返ると言った。

「身をもってその罪の重さを知れ。これは、お前たちが成した事だ」

 デヌタの手にした氷の槍杖が月明かりを照り返す。背に垂れた黒髪が左右に揺れ、その歩はゆっくりと進められる。まるで死刑を宣告するかのように。

 ケオルは焦りを抑え深く息を吐き出すと、努めて呼吸を整えた。敵の注意が〝真の〟月神へと向けられるこのときを、待っていたのだ。

 だが準備は万全とはいえない。思うより早かった。距離が十分でなく、意識が揺らぎ呼吸も乱れている……それでもやらねば――今しかないのだ、躊躇っている暇はない。

 雑念を払うように強く目を閉じ、ケオルは低く言葉をつむぎだした。

《i, sn.Tn, "wnywy" imyw dwAt. arrt m Akht Imnt, aAwy m Hwt mHwt――おお、汝らよ開け。冥府にまします〝開ける双者〟。西の地平の入り口を、北の神殿の対の門扉を。》

 あのとき北で唱えた月属の術。唱え始めればふしぎと、脳の奥が熱をもち、意識が明瞭になるように感じた。

《wn n.i sbAw, snS n.i arryt.Tn ――我がため門を開け、汝ら、門扉を開け放て。

 mAi sf, mAA dwAw, HkA smsw tpy-a.n, "rkht-pAwt" ms n kkw――昨日の獅子、翌日を見るもの。我らが祖なる魔術の長。闇より出ずる〝原初を知るもの〟。》

 まったく同じものではない。それは新たに知りえた詞で彩り連ねてゆく。素早く、しかしできるだけ多く。その威力を、完成度を高めるために。

《r rkh.i rn.nw nTrw imy dwAt, r rkh.i rn n Tn――我、冥界のうちにある聖なる者どもの名を知るために、我、汝らが名を知るために。》

 月属の性質を唱えるその術は、やはり言葉を重ねるほど何かが身体を重く圧してくる。肺が締め付けられ息苦しい。しかし掠れさせてはならない。その声の威厳を闇に深く刻み、届けなければならない。

 デヌタの歩みが止まった。キレスのもとへたどり着いたのだ。位置の狙いは外れていないはずだ、しかし間に合うか――。

《i, sbAwy Xkr Hr DADA nswt, nb Swty m DAdw――おお、王の頭上に輝ける双星、謁見の間にまします二重の羽毛の主たちよ。》

 槍杖が静かに手元に引かれる。焦りが次第に声を大きく響かせた。

《wn n.i, awy.Tn bnty-aAwy――我がため開け、大いなる狒々。汝らが腕を。

 Hr bw pw dSr mr.f m rn n "imy-wt"――〝イミウト〟の名に於いて彼が望む、その赤の場に……》

 そうして彼はついに結びを声する。

《wp irk Tn! ――うち開け!》

 その時だった。まるでその声に応じるかのように、前方からどっと冷気が押し寄せ、視界を白く染め上げた。

「っ!!」

 ケオルは伏せたまま顔を覆う。激しい冷気。皮膚に細かなガラスの破片がいくつも突き刺さるかのようだ。冷たさを通り越して肌が焼けるように熱く感じる。

 幸いにも爆風は一瞬で収まった。白い息を吐きながらケオルは恐る恐る顔を上げる。

 ……静かだった。薄闇の中を散り散りになった白いもやが覆い、そのうちを冷粒がちらちらと漂うのが見えた。

(術は……うまくいったのか?)

 霧覆う闇の中、彼は必死で目を凝らす。術が成立していれば、敵は開かれた空間に呑まれたはずである。北で試したとき、こちらから異界への路を開けたものの目的地への接続が不十分で、移送にはかなりの危険を伴うと知った術。それを、彼は今その不十分さをもって攻撃のすべとした。術の未熟さを逆に利用したのだった。

 冷気が闇を白くかすめるその向こうに、敵の姿を認めることはなかった。うまく呑みこみ退けられたのか、完全に呑み込むことが出来なくとも致命傷は与えられたのではないか。ケオルはきしむ身体を引きずりどうにか立ち上がると、地に倒れる影を注意深く探った。やはり敵は見あたらない。石畳の上にはキレスの姿だけが残されている。

 しかしそれを目にした途端、ケオルははっと息を呑む。

 様子が違う。あの黒々とした影はなんだ。キレスの身体をねっとりと覆い、そこから白い石の上を静かに滑り広がる黒。

 血だ――蒼然と立ち尽くし、ケオルはまさかとつぶやいた。瞬きも忘れ見開かれた目に映る、多量の黒い影。

(そん、な……)

 間に合わなかったというのか? 何かがじわりと喉に這い上がり絡みつく。信じたくない。危険すぎる賭けであったのだ、それは分かっていた、けれど――。

 ぞっと背筋が凍りつく。あの時、十年前のあの時に、キレスを見捨て一人で逃げた記憶が鮮明によみがえる。そしてまた、お前さえいなければと叫んだ自身の声が脳裏を響き渡る。白い息が、小刻みに吐き出された。

 ――いや。ケオルはそれらを振り払うように激しく首を振る。まだそうと決まったわけではない、まだ――。

 彼はふらりと足を踏み出した。確かめねばならない、まだ、わからない。確かにするまでは……そうしてキレスの元へ向かう。

 が、そのとき。突然、鈍い衝撃が背を襲った。

 ケオルの目はふたたび大きく見開かれ、虚空を見据える。背に突き立つ氷の槍杖が月明かりに仄光をたたえ、それはまっすぐにケオルの腹部を貫いていた。

 がくりと膝が落ち、仰け反るようにして槍杖から解かれるとそのまま、ケオルの身体は重い荷を落とすようにどっと地に伏した。声ひとつ漏れず、ただその身から湧き出る影がじわじわと地を這いゆく。

「ハアッ、ハアッ、……」

 デヌタは先を黒々と染めた自身の槍杖を地に衝き立て、それを支えに立った。肩が大きく上下する。ぼとぼとと音をたて彼自身の血液が足場を黒々と染める。地に立つ足はひとつきりで、もう片方は大腿から下をそっくり食いちぎられるように損失していた。

 デヌタは低く呻いた。激しい痛みが視界を霞ませる。意識が徐々に閉じられてゆく。

(ここで果てる、わけには……)

 あの瞬間――術を唱えられていると気づいたそのとき、彼はとっさに自身を――四属高位者が成せる一体化のすべをもって――氷粒に代えたが、ほんの僅か遅れをとった。通常の知属の術であればこれほど警戒することはなかった、しかし厭な予感が的中した。それでも、完全に避けることは出来なかったのだった。

 激しい吐き気とめまいが襲った。これ以上長くは意識を保つこともできそうにない。

(ま、だ、終って、は――)

 しかし、ぐらりと体が揺れ、意識の薄弱に応じるように槍杖がその形を失う。長髪が扇のように広げられ、身体が地に向かう――と、地に着くが早いか、白霧がたちのぼりその身を包み込むと、あとかたなく消し去った。

 風もない夜だった。うっすらと霧が残る塔門前の石畳は、冷え切った空気に霜がかったその表面を、月光にちらちらと瞬かせていた。

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