Rain(大江千里/秦基博)
雨が降っていた。
彼と一緒に暮らしているアパートは、築20年の古い建物だったけど、そんなことは気にならないくらい毎日がしあわせで、楽しかった。
窓の外を見ると、しとしとと長雨に濡れた電信柱が常夜灯に照らされて、ぼんやり光って見えた。――あの人、傘は持っていったかしら? 急に不安になる。
このところ、彼から「帰ります」メールが来なくなった。……もう2年近く同棲もしていたら、そんな日も来るのかもしれない、と自分を誤魔化して毎日をやり繰りしていた。
今日くらいは、傘を持って駅まで迎えに行こうかな……。そんな気持ちになったのはどうしてなのか。
駅の改札前でいつ帰るのかわからない彼を待っていた。自分がさしてきたずぶ濡れの傘と、彼のために持ってきたビニール傘。彼は傘に無頓着だ。
わたしのさしてきた水玉の傘だけが、涙のような雫をこぼして小さな水たまりを作っている。彼の傘には一粒の雫もついていない。
わかっていたことだ。
こんな風にいるのは、お互いのためにならないことくらい。
でも、前には確かにそこにあったに違いない何かにしがみつきたくて、わたしはまだ動けずにいる。雨が降っても、連絡もしなければ、彼の会社近くの駅に迎えに行くこともない。
スカートのまま出てきて、裾が雨に濡れて重くなっている。下を向いて、スカートの揺れ方に目を取られていた。
……彼は、知らない女性と何かを楽しそうに話して改札を出てきた。穏やかな彼女の微笑……あそこにはわたしはもう居場所がない。
咄嗟に傘を2本、胸に抱いてカツカツと歩いた。
「傘、忘れたでしょう?」
ちょうど彼女の大輪の花柄の傘を、彼女が彼とさすために二人の真ん中で開こうとしたところだった。
「優衣子!」
彼が珍しく大きな声を出して、わたしを追ってくる。走り出したわたしの足元はあたかも小川の中のようで、泳ぐように息を乱して逃げ出す。
「優衣子!」
彼がバシャバシャと走る音がする。スーツなのに、馬鹿みたい、ともう一人の自分が言う。
「傘、お前は持ってるだろう? せめて、傘させよ、風邪ひく」
「あなたが……」
つい立ち止まったのは、たぶん、習性のせいだ。
「あなたが濡れると思って、迎えに来たの。でも、やっぱりLINEくらい入れた方がよかったね」
自嘲気味に笑った。
その間も雨は強かにわたしたちに降り続いた。彼がわたしの傘をわたしの手から取り、パサッと開く。
「優衣子、帰ろう」
「……もう、帰れないよ」
どれくらい泣いたら、わたしの中の雨は降やむのか。
肩を強く掴まれる。
「優衣子……」
彼の腕の中は、二年前に同棲し始めた頃と何も変わってなかった。
「行かないで。今更、別々に暮らしたりできないよ」
彼のビニール傘はどこに行ったのか……。
わたしの水玉の傘にふたりで入って、あの頃のように、彼が片側の肩を濡らして同じ家に帰る。あの小さなアパートに帰る。
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