第160話 逃亡と自白
顔を覆う自分のスーツの名残に手を当てる臥龍。
今や顔を除いては、完全に自身の素性が割れてしまっている。
「ヒヒッ⋯⋯ヒヒヒッ」
「まだ生きているのか。しぶといな」
血だまりの中で体を動かす小さな影はザラキエルだ。
ジリジリと
「アタシは死ねない⋯⋯こんなところで死ねない⋯⋯♡」
刀を再び手に取る臥龍。
死にかけているのに追い打ちをかけるのは、たとえ敵であろうと好きになれない彼だったが、ゆっくりとザラキエルに歩み寄った。
己の心情を二の次にしてでも消さなければならない存在だと分かっているからこそ、臥龍もそれ以上の情けをかけるつもりなかったのだ。
「息の根を止めてやる」
今の死にかけているザラキエルにもう彼女を守るマトイはない。
それを理解しているからこそ、臥龍もマトイは使わなかった。
そして彼は刀を振り上げてザラキエルの首を掻き切ろうとする。
だが、その時彼の鋭敏な感覚が”乱入者”の登場を感じ取った。
臥龍は刀を止め、小さく呟く。
「⋯⋯誰だ」
返答はない。
ヒイヒイと自らの血に溺れそうになりながら必死で呼吸するザラキエルと、音もたてず地に伏す椿とジャンヌしかこの部屋の中にはいない。
だがここで臥龍は何かに気付く。
「俺が斬った左腕がない」
ザラキエルの失われた左腕。
臥龍の刀で斬り落とされたはずのそれが影も形も無くなっている。
まるで誰かに持ち去られたかのように。
その時である。
「ザラキエル様。お迎えに参りました」
臥龍が刀を投げるのと、ザラキエルの傍らに人の姿が現れたのは同時だった。
だが臥龍が投げた刀を現れた男は右手で平然とキャッチする。
突如として臥龍とザラキエルの間に、謎の見知らぬ男が立っていたのだ。
「申し遅れました臥龍様。私はアークテフェス社専属案内人を務めております、名前をグラシャといいます。以後、お見知りおきを」
臥龍の刀をクルリと回し、柄の部分を向けてグラシャと名乗る男は刀を臥龍に返した。その余裕溢れる行動が尚更に現れた男の異様さを醸し出す。
顔はまるで優男のようで、髪はしっかりとワックスで整えている。
服装は白のスーツに白のパンツで、ザラキエルの真っ黒な喪服と対照的だ。
だが、服装や風貌など臥龍にとってはどうでもよかった。
最大の問題点は、今の今までこの男の『気配すら感じなかった』ことである。
「グラシャあ⋯⋯アタシ負けちゃった♡」
「何とおいたわしい。すぐに治療いたしましょう」
その時臥龍は、グラシャの左手にザラキエルの斬り落とされた左腕があるのに気づいた。ザラキエルの腕を一体いつのタイミングでこの男は回収したのか。
だが、臥龍は再び刀を握り締める。どちらにせよ、目の前の男もザラキエルの仲間であることは間違いない。ならば排除対象だ。
『
だがそんな臥龍を嘲笑うかのような事態が起きた。
今までのそれが嘘だったかのように、地を這っていたザラキエルが消えたのである。
「ザラキエル様は私が保護させて頂きます。私の『透過』の庇護下にあるザラキエル様に貴方の刃はもう届きません」
グラシャは誰も居ないはずの血だまりに手を差し伸べると、まるで何かを抱き抱えるかのようにその場で手を掬い上げた。
すると彼は空気を抱くかのようにしている中でふと何かに耳を傾けるような仕草をすると、少しだけ笑って臥龍を見る。
「ザラキエル様は次こそは臥龍様を地獄の底に突き落としてやるとおっしゃっております。残念ながら『透過中』のためザラキエル様の御言葉を直接届けることは叶いませんので代読させて頂きました。ご容赦を⋯⋯」
だがここで、臥龍が動いた。
「気狂いの戯れに付き合っている暇はない。『太刀落とし・第二式』」
折れた刀でも居合は放てる。威力と射程は大きく損なわれてしまうが、目の前で無防備に立ち尽くしているグラシャの首を飛ばすことなど容易と臥龍は判断した。
僅かに息を吐き刀を居合の形で構え、そして必殺の居合を放った。
が、何と斬撃はグラシャをそのまますり抜ける。
そして彼の後ろにある柱をスパッと両断した。
「⋯⋯ハライを無効化されているのか?」
「認識阻害や幻術の類を無効化するハライ。臥龍様はハライの達人でもあられるようですが、残念ながら私の『透過』は五大体術で攻略できるものでは御座いません」
ハライを極めている臥龍の刃をすり抜けたということは、今目の前にいるグラシャに実体はないということになる。いや、もしくはそれ以上の力でグラシャは臥龍の斬撃を躱したのか。流石の臥龍もそこは判断しかねた。
するとグラシャの姿が少しずつ薄くなって消えていく。
まるで彼の体が透明になっていくかのように。
だが最後にグラシャは今までの温和な様子とは僅かに違う声色で言った。
「予言の奪還失敗、不用意な奴隷作成、そして敗北。ザラキエル様、今回の作戦失敗が持つ意味は決して軽くありません。これは紛れもない失態です」
その時、グラシャは手の中に向けて鋭い眼光を向けた。
それは臥龍には見えていない腕の中の誰かに向けた警告のようだった。
だがすぐにグラシャは表情を元の温和な様子に戻す。
「私も精一杯フォローしますからそんなに泣かないでください。心配せずとも正直に全てを話せば、あの方もザラキエル様を粛正することはないでしょう」
そして臥龍に別れの挨拶をするように、グラシャはペコリと軽く頭を下げる。
だが最後に彼はこう言い残した。
「いずれまたお会いするでしょう。その時までに私の『透過』を克服することが出来なければ、臥龍様の命運もそこまでかと⋯⋯」
そんな不敵な言葉を残してザラキエルとグラシャは消えた。
そして彼らが消えたまさにその直後、臥龍の顔を覆っていたマスクが砕けた。
だがその男の頭の中では顔が露になったことよりも、目前で標的に逃げられたことに対する不快感が勝っていた。
「また厄介な奴が出て来たな⋯⋯」
流石の彼も、なぜグラシャを斬れなかったのかは分からなかった。
幻術でもないし認識阻害でもない。であるなら、彼の刃を防いだのは何なのか。
「直人⋯⋯さん?」
だがここで小さな声が聞こえてきた。
ハッ、と頭の中が一瞬真っ白になる。慌てて手に持っていた刀を隠したのは長年素性を隠し続けてきた経験によるものか。
今の彼はもう臥龍ではない。もう一つの顔なのだ。
声のする方へ視線を向ける。
するとそこには動く影がいた。
「お腹⋯⋯お腹が熱いです⋯⋯」
彼らしくもないが、完全に椿のことを失念していた。
彼女はようやく意識を取り戻していた。
ここで直人は初めて椿が今どんな状況なのかを知る。
腹部に酷い傷を負っている彼女は泣いていた。
「すぐに助けを呼ぶ。少し待ってろ」
だが、ここで直人は気付く。
椿が泣いているのが、自身の腹部の痛みではないことに。
「加藤さんが⋯⋯加藤さんが⋯⋯」
見ると、腹部には僅かに治療の跡がある。
恐らくジャンヌが異能で痛みと傷を癒したのだろうと見当をつけた直人だったが、椿が泣いているのはもっと別の理由だった。
「椿⋯⋯死にたい!!」
直人は部屋隅を見る。
するとそこにはグチャグチャになった何者かの遺体がある。余りの痛ましさに目を覆いたくなるようなそれが何なのか、彼は直ぐに理解した。
「助けられなかった⋯⋯!!」
何も言わず、椿の肩を抱く直人。
そして彼もまた静かに目を閉じる。
「加藤さん⋯⋯残念です」
直人も理沙のことは知っていた。
現役時代にはあらゆる人から嫌われていた彼。だが数少ない話し相手の一人であり、常に顔を隠す自分を受け入れてくれていた数少ない一人が理沙だったのだ。
すると椿は、鼻をグスグス鳴らしながら直人に尋ねる。
「何で⋯⋯直人さんが加藤さんのことを知ってるんですか?」
直人は少しだけ間を開けた。
だが、すぐに話し始める。
「加藤さんは、昔の俺とも仲良くしてくれてたからさ」
「えっ⋯⋯?」
「羅刹にも毛嫌いされてたし、NO3とは仕事でもうまくいってなかった。当然、他の人たちともな。だから俺はいつも一人で単独の仕事しかしてなかったよ」
きょとんとしている椿。
だがもう直人は止まらないことにした。
「だから、椿のことを聞いた時も俺は心配だった。あの時の俺みたいに孤立してるんじゃないかとか、NO3の奴に嫌がらせされてるんじゃないかとか思ってさ」
「な、何を言ってるんですか?」
「昔話だよ。俺が最強だった時のさ」
直人は、椿の前を隠し持っていたそれを置いた。
黒く輝く黒刀。刃先は折れているが、その輝きは失われていない。
刀と、直人を交互に見る椿。
腹部の傷など忘れて彼女は何回も、何十回も交互にそれを見る。
「もし⋯⋯かして⋯⋯」
直人は、頷いた。
震える手で椿はポケットから黒い短刀を取り出す。
すると直人はその短刀を受け取った。
「ずっと持っててくれてありがとう。これは俺の大事なものなんだ」
それが示す事実を受け入れるのに時間がかかっている椿。
だがそれは直ぐに、大粒の涙と共に事実へと変わった。
「臥龍さん!! ずっと会いたかった!!」
直人が臥龍であるという事実。
それを初めて明かした瞬間だった。
「椿、また臥龍さんに助けてもらっちゃったのかな⋯⋯」
「アイツらは俺が追い返した。暫くは襲ってこないはずだ」
「やっぱり臥龍さんは凄いです!」
ここでふと直人は後ろにいるジャンヌを見る。
目を凝らし、彼女がまだ目覚めていないのをしっかりと確認する。
するとここで椿は突然、直人に向けて言った。
「椿を臥龍さんの弟子にしてくださいっ!! もう、大切な人を失いたくないんです! お兄ちゃんも、DHの仲間も皆守れるようになりたいんです!!」
ケホッケホッ、と咳をする椿。
興奮しすぎて彼女自身が重傷を負っていることを忘れてしまったようだ。
「聞け、椿」
すると直人は言った。
「俺は椿を弟子にできない。俺は他人に技術を教えることは出来ないし、そもそも俺の技術は誰にも真似できないものだ」
「そんな⋯⋯」と涙を浮かべる椿。
しかしここで直人は、刃先の折れた刀を椿に手渡した。
「えっ?」
「これはもう椿の物だ。この刀は変形しやすくて、どんな金属にもよくなじむ。これをベースに自分の好きなようにカスタマイズすれば、自分だけの刀が作れるはずだ」
「い、いいんですか?」
「ああ。ずっと俺の小刀を持っていてくれたお礼だ」
信じられないという面持ちで刀を手に取る椿。
すると直人は、懐のポケットからある物を取り出した。
「椿、ごめんな」
「⋯⋯? どうしたんですか?」
そこから先の直人の動きは素早かった。
取り出したのは『記憶改竄装置』というマキが作った機械。
それを人の頭に翳すと、自動で都合のよい形に記憶を変えてしまうのだ。
直人はそれを椿の頭に翳したのだ。
「ごめん」
ただ一言、そう言う直人。
すると直人の黒刀を手に持ったまま椿は、カクリと頭を垂れた。
椿の記憶はこの瞬間書き換えられたのだ。
「ジャンヌにも一応やっておくか⋯⋯」
そして倒れているジャンヌに歩いていく直人。
しかしここで、バタバタとこちらに駆けてくる人の足音が聞こえてきた。
どうやら緊急連絡を受けたDHたちのようだ。
一瞬迷うようにジャンヌを見る直人。だが彼女の意識を刈り取ったチョップは完璧だったなから大丈夫だろうと考え直し、直人は踵を返す。
そして直人は日が昇りつつある空をバックに、建物から姿を消した。
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