第42話 絶命

彼女は覚えていた。

森を進んでいく途中に、胎動する黒い肉のような物体があるのを。

そしてその肉の塊に、真っ黒な黒い煙のようなものが落ちたのを。


そして肉の塊は彼女の目の前で姿を変えた。

グニグニと気味の悪い揺れ方をした後、肉を引き裂くようにして中から見るも悍ましい「何か」が現れたのを確かに見たのだ。


それは黒い体に、至る所から棘のある触手が生えた人間だった。

いや、あれは人間と表現して良いものではない。言うならばあれは、まさに化物だった。悪夢の中から生まれ出たとしか思えないような何かだった。


顔は不完全で、口からは凶悪な牙が見え隠れし、腕には指よりも目立つ鋭いかぎ爪の様なものがある。体は鱗で覆われ、それはまるで半獣人の様な姿だった。


彼女をその半獣人は確かに見た。

金色に輝く細い眼が彼女を捉えたその瞬間は、「餌」を見つけたと言わんばかりの本能に準拠した背筋の凍るような笑みを浮かべていたのも覚えている。


彼女は勇敢だった。逃げようともせず、異能で迎え撃とうとしたのだ。

だが彼女はそれから先を覚えていない。いや、覚えているはずがない。

覚えているのは、半獣人が彼女を目にも止まらぬ速度で蹴り飛ばしたのを、アバラがバキバキに叩き折られる燃えるような激しい痛みと共に感じたことだけである。


人間の形を保っていたことすら奇跡に感じるような、半獣人の人智を超えた攻撃に彼女の思考は追いつかない。森の木々にぶつかりながら吹っ飛んでいく中で、数えることすら出来ない程に体の至る所が砕けていくのを感じていた。


体の至る所から出血し、意識は朦朧とする。

右腕はいつの間にか無くなっていた。見れば、半獣人が彼女の右腕を触手で捥ぎ取っている。だがそれにも気付かない程、彼女の体は痛みでマヒしていた。


もう自分はダメなのだと、彼女は人生で初めて自分の敗北を受け入れた。

自分はこのまま正体も知れぬ獣に命を奪われるのだと。


しかし、心のどこかでは別の誰かが何かを言っている。

絶体絶命、既に万策尽きているはずの状況でそれでも心だけは燃えている。

命尽き果てる直前、彼女は自分の胸の奥の『何か』に耳を傾けた。


『アイツを、喰え』


それは、確かにそう言った。

言葉ではなく、まるでテレパシーのように彼女の心にダイレクトに響くその声は、彼女の体に燃えるような『何か』を与えていた。


胸の奥が少しずつ熱くなっていく。

それは心の奥に潜む感情と同時に、物理的な意味でも熱く熱せられていくのを感じる。脳天も少しずつ熱くなる。体の全てが燃えるように熱くなっていく。


髪の毛の色が変わっていく。

栗色が、少しずつ燃えるような赤へと変貌していくのを視界の隅で捉えた彼女の心に去来するのは、今までに感じたことがないほどの怒りだった。


自分が生命の危機に陥っていることにも、自分をズタズタにする人間擬きの珍獣にも、そして自分自身にも。全てに対して怒っている。

半獣人は、凶悪な己の牙を見せつけるようにして彼女に近づいてくる。

その金色の瞳は、彼女の無防備な首に向けられていた。


その瞬間、地に伏せる彼女の髪が一斉に逆立った。

宙に広がる彼女の赤い髪は、まるで近づく半獣人を威嚇するが如く不気味なうねりを見せている。それは、彼女の意識によるものではなかった。


一瞬だけ、歩みを止める半獣人。

だがそれは一瞬だけだった。再び彼女に近づく半獣人の様は、もう彼女の首を鋭い牙をもって引き千切ることしか興味がないことを示していた。


だがしかし、半獣人は異常なものを目撃することとなる。


もう虫の息であるはずの少女がゆっくりと立ち上がったのだ。

それも身を起こして、手を使いながらじりじりと破壊された体を支えるようにして立ち上がるのではない。体が完全に倒れた状態から体幹の筋力のみを使って、さながらリンボーダンスの如くゆらりと立ち上がっていくのである。


『喰え! そいつを喰え!』


彼女は本能に従順になった。

もう体の痛みは気にならない。どうせ『喰えば治る』のだから。

カッと見開かれる彼女の目の色は、銀色にまるで円盤の如く輝いている。


怒りと共に、天井知らずに上昇していく魔力。

それは彼女に一時的に人間を超えることを許した。


これをすれば、己の足など跡形もなく吹っ飛ぶだろう。

だが構わない。どうせ治るのだから。


彼女は飛び掛かった。半獣人に向けて、何もかも投げ出した身のみの姿で。

思わぬ弱者の反撃に半獣人もまた迎え撃つ。だが、目の前の弱者は先程までとは明らかに違っていた。


人間の腕力ではない。いや、己の力に彼女自身も耐えきれていない。

飛び掛かった瞬間の跳躍力に肉体が耐えきれず、膝から先があらぬ方向に向いている。だが一時的に限界を超えたその跳躍は、半獣人すら反応できぬほどの速度であった。


その瞬間、半獣人の腕が力づくで捥ぎ取られる。

左手のみで、彼女は捥ぎ取った腕を一瞬だけ銀色の瞳で見つめた。

そして彼女は胸の奥の本能に身を委ねると、捥ぎ取った腕を口に近づける。


そして、喰った。


ほんの一口である。

半獣人に馬乗りになった状態で表情無く口を動かすその少女は、用済みだとばかりに捥ぎ取った腕を放り投げると、口の中の肉片を飲み込む。


そして、全てが吹き飛んだ。


溢れ出る赤い閃光と、太陽の如き灼熱が辺り一面に放出され、半獣人が熱に焼き飛ばされていく。それは彼女から放出された極大のエネルギーの発露であった。


光り輝く光線の中で、彼女の体は再生されていく。

捥がれた右腕はいつの間にか生え戻り、骨も臓器も、傷だらけだった皮膚も元通りに再生されていく。


『喰え、喰い続けろ。そしてお前は強くなる』


そんな言葉を残して、胸の奥の何かは消えていく。

同時に、爆発したエネルギーの発露もゆっくりと収まっていく。


そして光が収まった時、辺り一面は焼け野原になっていた。

半獣人は影も形もなく消え去り、僅かに残った黒い霧のみがその名残である。

熱エネルギーで服も完全に吹き飛び、素肌に風が吹きつける感覚を覚える。


だが彼女の意識はもう朧気おぼろげだった。

いやそもそもまともに意識と呼べるものは半獣人に一撃を叩きこまれた瞬間から、既に存在していなかった。その意味では本能による体の自動操縦が終了した、という表現が一番正しいかもしれない。


彼女の視界に、何かが近づいてくるのが映る。

黒い妙な格好をした何かと、もう一人誰かが横に居るのも見えた。


燃えるような熱の中で、僅かに彼女は近づく影に手を伸ばす。

だがそれは消えゆく意識の中での出来事で、実際に手を動かすことなど出来ない。


(熱い⋯⋯)


体中を魔力が暴走しているのを感じる。

己の力で、自分自身が焼け焦げていくようなそんな恐怖を彼女は感じていた。


近づく影に助けを求めようとする彼女。

だが、もう限界だった。


(助けて⋯⋯)


助けを請うことを恥とすら思わぬほどに、彼女は危機に瀕していた。

二つの影が何かを言っている。だが、内容までは聞き取れない。


すると大きな黒い影がゆっくりと近づいていく。

その手には何かが握られている。まるで小さなナイフのような形だ。


影は彼女に近づくと、ポツリと言った。


「覚醒したのか。やっぱり、俺の理論は正しかった」


(理論⋯⋯?)


その瞬間、影はナイフを振り上げる。

ナイフの向かう先には、彼女のほかに誰もいない。


(何を⋯⋯!?)


大きな黒い影は、横にいるもう一人にこう言った。


「一度殺しましょう。さもないと、この人は本当に死んでしまう」


「でも、大丈夫かい? この子のトラウマにならないといいけどねえ」


「記憶改ざんで全てを忘れさせましょう。それで済む話です」


さも当たり前とばかりに影は言った。

そして影は彼女目掛けてナイフを振り下ろす。


焼けつくような痛みが彼女の胸元を襲った。

一度拾ったはずの命が消えていくのを、消えゆく意識の中で彼女は感じる。


(何⋯⋯で⋯⋯?)


それが意識の中での、彼女の最後の言葉。

若山夏美は絶命した。

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