第2章ー9話 『ご・め・ん』と、ありがとう 2

――…ツキ。イ……。


 何かが聞こえる。

 静かで落ち着いた女の人の声だ。それがどこからが聞こえてくる。


 ――イツキ。


 ああ、これは俺の名前だ。俺を呼んでいるんだ。

 その瞬間、四肢の存在をはっきりと認識する。自分と他の境界線が完全に分かれ、俺という意識が光の中へと急浮上していく。


「イツキ」


 顔を上げる。

 目の前にいたのは、師匠であるミレーナだった。


「え? ……あ」


「勉強熱心なのは良いことだが、無理をするのは感心しないな」


 呆れたように顔をしかめ、大きくため息をつく。その背後には、俺たちの背丈よりはるかに高い本棚が見えた。


 見上げれば首が痛くなるほど高くにあるステンドグラスの天井には、夜の闇が映っている。視線を戻せば、あちこちには薄橙に光るランプが明かりを放っている。そして、俺が肘をついているのは巨大なテーブル。周りには三冊本が広げられ、残り五冊がすぐ右横に積まれている。どうやら、俺はここに突っ伏していたらしい。


 ここは、書庫だ――ようやく、そのことを理解した。

 思い出した。俺はここで調べ物をしていて、寝落ちしたんだ。


「すいません。寝落ちしてました」


「いくら体力があるといっても、あれほどの依頼をこなせば疲れもするさ。そんな時に調べ物をしても実にはならんよ」


「すみません」ともう一度謝る。「しかたがない子だ」とミレーナは苦笑いし、小型杖を一振りする。それに呼応して消灯していたランプが起き上がり、光を湛える。


「その量をひとりで運ぶのは難しいだろう。私も運ぼう」


「いえっ、そんな」


「さあ、行った行った。落とさないように」


 反論の間もなく、特に分厚い四冊が放り投げられる。慌てて腕を伸ばすが、本がある位置は俺の指から数センチ先。どう考えても受け止めきれないことは明白だった。


 その瞬間、手を伸ばした数センチ先で本が静止する。今度はしっかりと本を掴むと、それと同時に本が質量を取り戻し手の中に納まる。なんてことはない。そう言った理屈かは知らないが、魔法で浮かされていたのだ。冷や汗をそのままに顔を上げる。放った張本人であるミレーナは、なんとも意地の悪い笑みを浮かべていた。


「……脅かさないでくださいよ」


「反応が遅いな。精進、精進」


 はめられた、その思いから少しばかり文句をつける。だが、ミレーナは薄く笑うだけでそれを流し、俺のことなどお構いなしに先へと進んでいく。遅れるわけにもいかず、小走りで追いつき並んで歩く。ありがとうございます、と声をかける。気にするなと、ミレーナは笑う。


 元々、同じ本棚の本しか持ってきていない。そして、それを持ってきた本棚まではかなりの距離がある。それゆえ、ミレーナとは必然的にずっと一緒にいることとなる。コツコツという、二人分の足音だけが書庫に響く。


「首尾はどうかね」


 唐突に、ミレーナが口を開く。


「あまり……良くはないです。技術的な方から考えていくにはまだ力不足ですから、伝承で近いものがあるかどうかを調べていたんですが」


「見つけたものが大雑把すぎる――といったところだな? 加えて、かなりのブレがある」


「はい。覚悟はしていたんですけど」


「そう簡単に見つかりはしないだろうなぁ。それで、どうするつもりなんだ?」


「一応、見つけた話の中で共通点を探しています。あとは、下調べをしてからその場所に行ってみるかな、と」


「そうだな。今はそれしかできることはない」


 視界の先に、そのままになった脚立が見えた。俺が使っていたものだ。ミレーナを追い越し、その脚立に上る。場所を見失わないように置いて置いたノートの切れ端を抜く。そして、両側の本を起こしてできたその隙間に、切れ端に書かれた題名の本を戻していく。


 下に置いたものを取りに戻ろうと振り返ると、すぐそばにそれが浮いていた。下にいるミレーナに礼を言って、本を受け取り元在った場所へと戻していく。


 脚立移動も含めて約三分。作業が全て終わった。

 今度は出口に向かって歩き出す。再び、コツコツという音が書庫に響く。


「ありがとうございます。手伝ってもらって」


「構わんさ。私も君に用があったからな」


 気にするなとばかりに、ミレーナは手をひらひらと振る。


「用、ですか?」


「そうだ。まあ、付いてきたまえ」


 そう言うと、ミレーナはひょいと角を曲がった。その先には扉がひとつ。どうやら、そこが目的地のようだ。そこまで、距離は十数メートルしかない。ほんの十数秒ほどで、目的地へと到着する。


「ここ……ですか?」


 たどり着いた扉は、何の変哲のない木の扉だ。大きさも、普段使っているものとほとんど同じ標準的なサイズ。『倉庫Ⅰ』という札が、こちらの世界の言語で書かれていた。


「そうだ。何せ正面扉は大きいからな、これを使うには」


 ゴソゴソと、ローブについたポケットをまさぐる。絹ずれの音に混ざり、チャリッという金属のこすれる音が布を通して鈍く鳴いた。どうやらそれがお目当てのものだったようだ。ミレーナの手がするりと抜け出る。


 姿を現したその手には、どこかでよく見たものが握られていた。


「鍵?」


 数本の鍵束だった。

 俺たちが使うシャープペンと同じくらいの、少し大きめの者。造りは単純で、まっすぐかつ細い円柱の先に合い形が付いている。よくドラマなどで見かけるスケルトンキーだ。


「これは、個々のカギですか?」


「そう言っても間違いではないな」


「?」


 意味が解らず首をかしげる。それを見て、ミレーナは一本の鍵を手に持った。


「いいか、イツキ。これは鍵穴がある扉なら大抵使うことができる。使い方は普通の鍵と同じ。入れて回すだけだ」


 手に持った鍵を、そのカギ穴へと差し込む。

 ゆっくりと左に回す。


 カチリ、


 錠の外れる音がした。


「さあ。入ってみたまえ」


 その言葉と同時に、腕をつかまれ扉の方へと放り出される。大きく前へとつんのめり、手を突こうと扉に腕を伸ばす。そのとき、タイミングよくミレーナが扉を開けた。


 ゴウッと、一陣の風が吹いた。それは部屋の中にしていささか強すぎる風で、窓を開け放っているのは明らかだ。だが、部屋の中から何かが飛んでくることはない。紙も、ペンも、部屋の埃さえも。


 前を見る。

 思考が停止する。



 目の前に広がっていたのは、


 ……………。

 ………?

 ………………………ッツ‼


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