第47話 解決の糸口と、こびりつく違和感 1

 ペン先が紙面を駆ける音だけが、カリカリという乾いた音だけが耳に届く。耳に届くのが限度の微かな筆音は、書庫に木霊することなく大気へと溶解する。天井からの光が柔らかく手元を照らす。電気的な光を放つタブレット端末が、書庫の世界で異彩な雰囲気を放っている。充電を確認し、スキャンした日本語訳のデータを端末内に保存する。


 ――……三時間、か。


 入り込む光の色が少し変わっていたのは解っていたが、ここまで時間が経っているとは思わなかった。立ち上がり両手を組み、息を止め、思いっきり伸びをする。凝り固まった関節という関節がバキバキという声を上げ、思わず変な声が飛び出る。


 息を吐き切り、再び吸い込んだ。途端、無視していた情報が、ドッと脳内へと流れ込んでくる。情報過多というその独特の感覚に、クラリと視界が傾く。


 大きく深呼吸を数回、それだけで少しずつ身体が慣れていき、この変な感覚は消えていく。数秒もすれば、もう何ともない。


「はぁー……どうすっかなぁ」


 その言葉は、意図せず零れた。何の脈絡もなく、唐突に。


 いや――、


「本当に、どうすっかなぁ……」


 ちらりと、机に広げられた書物と端末を一瞥する。

 唐突というには少し違うのかもしれない。なぜなら、俺が今していたことは、まさしくそれに直結するものなのだから。


 俺が今やっていたこと、それは――魔法陣、および薬学の文献を翻訳すること。ここでそれをしていたのは、思考とは別の作業に没頭したかったから。そうしなければ、また考えてしまいそうになっていたから。変な思考回路に陥り、抜け出せなくなってしまうから。


 模擬戦が中断され、雨宮がペナルティーを食らった後、今日の修行メニューは一時中止となった。魔術の制御ができなかった雨宮が、基礎訓練の比重を増やされたのだ。


 ――模擬戦で縛りを入れてあるのは、ハルカの魔術制御を鍛えるためでもある。それができないうちは、模擬戦をしても意味がない。そもそも、制御ミスを犯す魔術師などに、安心して背中を預けるなんてできないからな。


 そう言われてしまえば、俺も勿論、ましてや雨宮は反論することなどできなかった。


 その言葉を突き付けられ、小さく返事をする雨宮は、正直言って見ていられなかった。相当にショックだったのだろう。ログハウスへ向かう今でさえ、雨宮は何も言ってこなかった。ずっと、思いつめたような表情をするだけだった。


 だが実際は、今回の模擬戦での課題は雨宮よりむしろ俺の方が重大なのだ。ミレーナも、それは解っていたのだろう。模擬戦直後に肉体強化の訓練をしていくことを具申した時、止めようとしなかったのはきっとそのせいだ。


 もし、あの戦闘が模擬戦ではなく実践だったら、


 雨宮のあの魔術は、最善策ではないが有効打ではあったはずだ。術者自身を巻き込んでしまう恐れがあったが、それは裏を返せば、ほぼ確実に相手にも攻撃を当てられるということになる。あれをしてなお効かなかったなら、端から倒す術などない。それに、あそこまで肉薄されたことだって、近接戦闘の対策を練れば十分に克服可能だ。


 対して、俺はどうだろう。

 戦術の面、そこはひとまずいい。それはカリバー・ロンドの時の経験を思い出し、磨き上げればどうとでもできる。問題は、他にある。


 それは、近づくのが容易ではないということ。遠距離の相手には、近づかなければ俺の攻撃を当てることなどできない。俺には遠距離系の攻撃手段がないのだから。


 近づかなくては、相手に攻撃を当てられない。それに加えて、俺は魔術も魔法も全く使えない。それはつまり、遠距離攻撃どころか、中距離系の攻撃手段もないということ。相手の隙を突いた魔術攻撃が、全くできないということ。


 風属性魔術で相手の動きを鈍らせる。土属性で足元を切り崩す。水属性で視界をふさぎ、火属性で急所を攻撃する。エトセトラ、エトセトラ……。


 近接戦闘において魔術は、相手の隙を突くのは十分な有効打となる。そしてそれは同時に、自分に向けられた場合、防げなければそれが致命打になりかねないということを表している。


 相手が使える手段が自分には使えない。それだけで、戦闘では大きなハンデを背負っている。なによりも――、


 いま現状では、それを克服する手段が見当たらない。


 このままでは、ダメなのだ。

 このままでは、いざとなったら、俺は足手まといだ。雨宮とルナに守られて、それより後ろで何もできずにただただ眺めている。そんなこと、したいわけではないのに……。


 ――……ダメだ。変なことばっかり考える。


 頭を振り、一瞬思考を飛ばす。つい今まで考えていたことを、記憶の彼方へと吹き飛ばす。ダメだ、どうしても、そのことばかり考えてしまう。


 大切なのは何故できないかなどではなく、どうやったら克服できるかということだ。だが、頭では解っていても、どうしたって考えてしまう。どうしたって、その思考へと戻ってしまう。


 それじゃダメなのに。こんなこと考えている場合じゃないのに。そんな思いが空回りし、あの黒い感情が増殖を続けてしまう。


 翻訳、それはこの思考回路に陥ることを避けるための作業でもあり、同時に弱点を打開するための手段でもある。


 簡単な話だ。できなければ、あきらめる。

 魔術が使えないことは確定している。どうあがいたところで、それが覆ることは絶対にない。だとすれば、他の道を探すことの方が有効だろうし、その方が遥かに利口だと、俺はそう思っている。


 できなくても、達成しようと頑張ったことが大切だ。その言葉も、一面では正しいと思う。できないにかかわらず、そこで得たものはその経験なしでは得られないものであることは間違いないから。


 だが、俺の場合、それによって得られる結果は『死』だ。

 日本にいる時とは、背負うリスクの重みが圧倒的に違う。かなわない努力で得られるリターンに、できないということが解るということだけという結末に見合うリスクではない。だからこそ、そんな悠長なことなどやっていられない。


 だからこそ、目を付けたのが魔法陣と薬学だ。

 魔法陣は、俺にない魔術の回路的な役割を代わりに担ってくれる存在だ。薬学は、うまく使えば俺にも効く薬を作ることができる。今していたのは、そのための資料集めだ。


 といっても、それもあまり芳しくはないが。


「………………」


 ポケットに手を突っ込む。ポケットの中で、本来は球体のガムが入っていたプラスチックケースが存在を主張している。


 おもむろに取り出す。紫色、球体をつぶしたようなプラスチック容器が、暁色に変わりかけた陽光を反射し、中の物を甲羅のように守っている。ただし、いまは言っているのはガムなんて生易しいものではないが。


『薬学』この一か月で、俺が唯一成功させたものだ。成功と称してはいるが、なんとか形にして、なんとか効果は保証できるといった具合だが。


 その言葉通り、この中の丸薬には、安全性なんてものはみじんもない。使えば何が起こるかなど知れたものではない。理論上は使える、というだけだ。これに頼るのはいささか……いや、とんでもなく心もとない。できれば、使いたくはない。

 だからこそ、こいつに頼らなくてもいい方法を見つけなければ。


 薬学はまだ心もとない。だとすれば、魔法陣を編み込んだ小道具で武装するか……だけどそれも、俺ひとりでできることかと問われれば、決して首を縦に振ることなどできないが。


 これは、本当に……。


 ポケットにケースを仕舞い込み、開いていた書籍に手をかける。閉じられた分厚い『魔法陣学』が黒鉛の微粒子を巻き上げ、パタリという重めの音が書庫に響く。その他諸々も重ねて、横に置いておいたリュックへと詰め込む。


「…あーあ、前途多難……」


 そのとき、


「――――?」


 コツリ、コツリと、ブーツが床を踏み鳴らす音が耳に届いた。微かなものだが、音がするのは俺の背後――ちょうど扉のところだ。誰だろうか。ルナは歩きにくいブーツなどは履かないし、だとすればミレーナか雨

宮だろうか。

 振り返る。


「……どうしたんだよ」


「ちょっと……いいかな?」


 遠慮の意を多分に含んだ、お願いとは程遠い弱々しい口調。

 暗い表情を湛える雨宮の言葉に、とりあえず俺は頷いた。

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