第12話 夢

 凛太郎は、自分の部屋にいた。正確に言えば、幼い凛太郎だ。

 歳は四歳かそこらで、ブランケットをかけて寝ている。縁側に続く窓は網戸になっており、うるさいほどのセミの合唱が聞こえていた。


 喉が渇いたな。そう感じた凛太郎は、フラフラと襖の方へ向かう。台所でお茶でも飲もうと思ったのだ。


 開けようと手伸ばした瞬間、その向こうで誰かの足音が聞こえる。誰だろう、とふわふわした思考で凛太郎は考えた。

 ドシドシと歩くそれは、女性の歩き方とは思えない。特に祖母の春江は膝が悪く、こんな足音は考えられなかった。ということは父親の健三だろうと当たりを付けるが、普段とは違い過ぎるので確信が持てない。


 もしや、泥棒ではないか。そんな考えが凛太郎の頭をよぎった。それと同時に、確かめてみようという気持ちが沸き起こる。


 音をたてないようにそっと襖を開き、左目だけでその隙間を覗き込んだ。向かいには見慣れた祖母の部屋の扉があり、板造りの廊下が見える。凛太郎の視界の中には、誰もいなかった。


 もう通り過ぎたのだろうか。凛太郎は耳をすましてみたが、セミの声しか聞こえない。思い切って襖を開けてみると、やはり凛太郎一人であった。


「何だったんだろう?」

 誰に問うでもなく、凛太郎はつぶやく。汗で張り付いた髪が鬱陶しく、乱暴に払いのけた。そこで台所に行こうとしていたことを思い出す。冷たい麦茶を想像して、無意識に喉が鳴った。


 左の方に視線を向けると、居間の扉は閉まっていた。きっとエアコンが効いているに違いない。あちらでテレビでも見ようと決め、凛太郎は一歩前に踏み出した。


 キィ……。


 すると後ろの方で、何か音がした。振り返ると、そこには奥座敷への扉がある。しかしこの時は、開かずの扉ではなかった。


「あ……」

 閂の錠前が、開いていた。それどころか扉も少し開いており、そこから入ってくる風で錠前がプラプラと揺れている。


 それを見ているうちに、凛太郎の中にムクムクと冒険心が沸き起こった。


 普段禁止されているからか、その欲望を抑えることができない。そこに少しの罪悪感が手伝い、堪らないほどのスリルを予感させた。


 ほんの少しだけ扉を開き、体を横ばいにしてすり抜ける。するといつも遠くから見ていた渡り廊下が目の前に広がっていた。


 危険だという割には、特に傷もなくきれいなものだ。恐る恐る一歩踏み出してみれば、小さくギシリと音がするだけ。腐っている様子もない。


 なぜ両親たちは、ここを封鎖したのだろうか。それとも危険なのは、奥座敷の方なのか。しかし聞けばここに入ったことがばれてしまうので、この疑問は胸にしまっておくしかない。


 グネグネと曲がる廊下を、周りの景色を見回しながら進む。いつも見ている山も、少し違ったように感じた。


 暫くすると、建物の前まで来た。凛太郎は思わすそれを見上げる。


 廊下の正面には、黒い鉄製の扉がどっしりと構えていた。両開きの扉の上の方には鉄の棒がはめ込まれた窓があり、下には取り出し口のような四角い穴が開いている。そして扉と同様、重そうな錠前がカッチリと嵌められていた。


「うわぁ……」

 凛太郎は近づくと、その扉に触れる。汗ばんだ手のひらに、ひんやりとした感触が伝わった。


「開かないかな」

 ここまで来たのだから、中も見てみたい。凛太郎はガチャガチャと錠前を鳴らしてみたが、開く様子はなかった。それでも諦めきれず、取っ手を掴んで体を反らしてみる。しかし扉はびくともしなかった。


 「はぁ……。はぁ……」

  手を離した拍子に、凛太郎は尻餅をつく。そこで息を整えながら、睨み付けるようにその扉を見上げた。


 建物の周りを一周するように廊下はまだ続いている。もしかしたら他に窓はないだろうか。そんな考えを思いつき、さっそく凛太郎はそちらに足を向けた。


 漆喰の壁に手をあて、廊下を進む。円柱状のフォルムに違わず、曲線が続いていた。そのせいか、少し見通しが悪い。

 ときおり戯れに壁を叩いてみる。しかし手が痛くなっただけで、特に何も起こりはしなかった。


 そんなことをしていると、あっという間に一周してしまう。そこでもう一度扉の前に立ち、拙いながらも想像力を働かせてみた。


 中は一体どうなっているのだろう。明るいのか、それとも暗いのか。鉄格子が付いているものの、二つも窓があるから暗いということはないだろう。

 

 周った感じとしては、それほど広くはない。そしてこの中に、映画で見るような汲み取り口があるのかもしれない。人間なら、大人の男が一人では少し窮屈だろう。ましてや布団をしいて寝るようなスペースはない。


 それからもう一つ気になるのは、中の温度だ。自身の部屋で昼寝をしていただけでも汗だくになるこの暑さ。こんな厚い壁に覆われている中は、きっとサウナよりもっと暑いのだろう。

 昔の人はこんな中に閉じ込められていたなんて、地獄だったに違いない。それを想像して、凛太郎は思わず顔をしかめた。


 想像だけでは飽き足らず、ますます中を見てみたいという気持ちが強くなる。凛太郎は、決心したように立ち上がった。


 鉄格子の嵌った窓は、凛太郎の背より少し上の方にある。それは背伸びをして届くか届かないかの微妙な距離。

「んー、んー」

 全身を伸ばしてみたが、鉄格子の一本に触れる程度。これではどうしようもない。ピョンピョンとその場で飛んでみても同じ事。


 凛太郎は廊下まで下がり、扉に向かって勢いよく走り出した。かと思うと、力強く地面を蹴り上げる。しばしの間宙を舞うと、鉄格子の一本にしがみついた。


「ぐぬ」

 つま先が扉を滑っていが、なんとか踏ん張る。体勢を整えると、鉄格子をよじ登った。その隙間から、中の様子を覗き込む。


 予想に反して中は暗かった。それから、プンとよくわからない匂いが鼻につく。


 何の匂いだろう?


 原因を確かめようと、暗闇に目を凝らした。すると、何か光るものを見つける。


 それは、二つの目玉だった。


「はっ……!」

 息を荒げながら、凛太郎は目を覚ます。そこは見慣れた自分の部屋だった。確かめるように自分の手を見ると、ニ十歳の自分の手だ。

 隣を見ると、寝息を立てた正樹が布団に横たわっている。外はもう明るくなっていた。


「……夢?」

 それにしてはやけにリアルだったような……。


 背中といわず、いろんな場所から汗が噴き出している。そのせいでTシャツはびしょびしょだった。凛太郎は気持ち悪くなり、着替えようと布団から抜け出す。


 箪笥の前に立つと、視界の端にレースが揺れるのが見えた。昨夜は窓を開けて寝たのを思い出す。そちらの方を見ると、あの奥座敷が夢と寸分たがわずあそこに佇んでいた。

 

 

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