13 : Sign

 ハワイ諸島、日付変更直後のラナイ島より西南十キロメートル。


 水の八百分の一の密度にも満たない空気を、腹ばいで泳ぐやや長身の青年はレックス・フィッシュバーン。長めの黒髪がオールバックに流れる。


 三千フィート上空、周りは四方何十キロメートルを殆ど海に包囲されている。視界右遠く微かに陸──人口は少なく、農村だけが置かれ、重要度は低いからか管理軍侵略の報告も無い──やがて後ろに消えていった。


 疲労を考慮して速度は時速七百五十キロメートル、残り十分で着く計算だが、ゲーム機も音楽プレーヤーもサツマイモチップスも、短気なレックスは暇を潰せる物を持っていない。


 だが退屈でもない。体に揃えた腕を翼の如く広げ、錐もみ回転。ラッコの背泳ぎさながら背を海面に向けると、見える。


 やや左前方、ほぼ真上に満月──を沿うよう天球を横切る天の川が闇夜を薄い紺色に仕立て上げていた。


 フラッシュライトに反射する塵埃の如く、無数の白い粒が遙か遠く宙に漂い、暗夜を一刀両断する群れはまさに大河。現地人にとっては満月で普段よりは見えないというが、ラテン白人には緯度が十三、四度変わるだけで新鮮だった。


 遮る物は無い。腹を膨らませて澄んだ空気を肺に取り入れ、ガス交換。クラウディア直伝の腹式呼吸は能力行使で上がりかけていた心拍数を毎分七十回程に落ち着かせてくれる。


 しかし、雲行きが怪しくなってきた。文字通り、天の川が限りなく黒に近い灰の雲がかき消していた。腹を凹ませて二酸化炭素を放出し、天井を見据える。


 次の瞬間、目の前で水滴が弾けた。


 熱帯の気まぐれなスコールは現地では何時もの事だろうが、年中乾いたアメリカ西海岸に長らく居た彼には目新しいものだった。


 降水量の少ないロサンゼルスは海水浄化プラントを備えているが、水道費は高く普段から節水は欠かさない。農業用水は特に不足する事が多い。そのため年中スコールが止まないハワイは羨ましかったが、レックス一人の立場では別だ。


 余程の雷雨でない限り気体制御に支障は無い。雨粒も暴風で飛ばせば良い。しかし地中海性気候で生まれ育ったレックスにとって、ジメジメしたのは良い気分ではない。


 ほぼ私情のコンプレックスを脳の端に追いやり、欠伸で毒を体外に吐き捨て、仕事モード。レックスの尖った黒目は前方、遠くに陸の海岸線を見据えた。


 小雨を亜音速気流で振り払う事数十秒、オアフ島を形作る形作る稜線は真下を過ぎ、一際盛り上がったダイヤモンドヘッドの窪地の上で静止した。


 カルデラでは味方の仮設キャンプが建ち、円周の縁に砲を構えているのが見える。僅かな明かりにキャンプを行き来する人の群れが見えるが、大半は島の奥に警戒を集めているらしい。


 彼らが砲身を向けるのは漆黒の真珠湾に浮かぶ広い長方形のエリア、ヒッカム滑走路だ。ここからであれば榴弾砲の射程範囲内にあるのだが、侵略確認から二時間足らずで敵の手中に落ち、三十六時間以上経った現時点で奪還の目処は立っていない。


 彼に与えられた任務は“調査”だ。戦果を上げて昇給する事も彼にとっては大事だが、戦場でたった一人出しゃばる行為がどれ程の危険かを彼は承知している。


 敵の前線を突破でき、後方の指揮や補給を断つ戦術が飛行能力を有する彼の得意ではあるが、敵の情報が限られた中ですべき行為ではない。


 しかし好奇心は消えない。レックス・フィッシュバーンは戦いが好きだ。一体どんな相手と戦うのか――迷いを胸に、彼は耳をそばだてていた。


 一見、飛行場は北方から到着する輸送機を常時待っているが、騒音低減技術も向上した為か、大気を震わす轟音は届かない。


 敵輸送機の離発着は続いているがペースは落ちている、との現地ダイアモンドヘッド制圧部隊から報告も受けている。


 現地の偵察班のお陰で、空港の警備体制はおおよそ把握した。人数は精々三個中隊程度が常に警戒にあたっている。重戦車数台に対空ミサイルや拠点防御レーザー砲台まで……だがレックスには物足りなかった。


(誘ってんのか?)


 レーザーに気をつけさえすれば壊滅は簡単だろう、というのが率直な感想だった。ただ、それはトランセンド・マンさえ除けばの話ではあるが。


 こんな手薄に見せ掛けてるという事はそれだけの能力者が潜んでいるかもしれない。それに人質も居ては迂闊に手を出す訳にはいくまい。


 葛藤を迎えるレックスだが、彼はある事に決断を迫られる事となった。


 第六感とも取れるエネリオン感覚は他の五感を遮る事で集中力を発揮する。具体的に黒髪のラテン白人は地上一キロメートルで重力加速度と同等の上向き風圧を身体に受ける。意のままの風と自分自身以外を意識から、呼吸と共に全て排する。


 空間に絶えず存在するエネリオンを体表から吸収するトランセンド・マンはその流れを感じる“同族”に位置を探知されやすい。


 ところで、能力者達は空間内の素粒子の分布を直接触れずに感知可能だが、これはエネリオンの”放射”現象に基づくものだ。


 視覚や聴覚と同じように一種の波動が離れた場所に現象を伝えるのと同原理であるが、光は光子という微小素粒子、音も媒体を構成する分子の圧力変動を通じるものだ。これらの例を踏まえる事でエネリオンの状態を伝える更に微小な素粒子が存在するのではないかと予想されている。


 話を戻すが、気流とは圧力変動、即ち音に対して敏感に反応する。レックスも機体制御を通して音響探知能力に長ける面を持つが、それは不可視の質量を持たない素粒子も同じだった。


 ところが、レックスは思索をオアフ島に巡らせる必要はなかった。何故なら、“流れ”は彼の近くを通っていたのだから。


 “それ”は視線中央に据える飛行場から発し、雷と反対に見えざる光の束が空に向かって伸びている。巨大な世界樹の枝の如く、エネリオンの流れは島全てを覆い、暗黒の雲の中へ。


(なんだこりゃあ?! アスガルドの神かギドラでも居るのか?!)


 途方もない力の差に本能が警鐘を鳴らす。どんな能力を持っているのかは分からない。恐らくは電磁波に関係しているであろうが、それ以前に彼は千五百平方キロメートルを覆えるパワーに驚愕しかなかった。


 だから身体の震えに今は従う事にする。必ず斃すと誓う事も忘れない。


(見てこい、ライトニング)


 レックスの想いに応えるべく、戦闘ジャケットと同化した金属製リュックの背面が開いた。


 バシュッ──突風を生じながら鋭角三角形の飛翔体が上空へ投射。


 重力と釣り合って静止した物体は微かな軋みを立て、エイ型の全翼機へと変貌を遂げた。


 テレパシーにおける人間の神経回路活性をヒントに、エネリオンで駆動するジェットタービンとホバリングファンで飛び回る。電波ではなくエネリオンや思考を司るとされる未知の素粒子を介して遠隔操作するので、電波妨害は無視出来る。


 最高速度は超音速戦闘機にも匹敵しながら、小さく電磁波吸収外壁を備えている故、回避・対レーダー性能も高く、小回りも利く。滅多な事では撃墜されない、筈。


(俺とあろうことか考え過ぎだな。兵站着いたらお菓子でも恵んで貰うか)


 今は味方への合流と低血糖を直す事が先だと判断し、地球へ引っ張られる力に従って等速でダイヤモンドヘッドのクレーターへ降りていった。






「俺に怖じ気づいたか」


 管制室の窓を常に大量の雨粒が殴り、傷一つ付けられないまま排水溝へ去る。ガラスと無数の水滴越しに月夜に立ちこめる暗雲を眺め、そう言ったのは銀髪をメッシュ状に尖らせた青年、サム。着込んだジャンパーのジッパーを寂しそうに上下し、膝・肘当てをいじる。


 中肉中背、淡い水色の瞳にシュッとした目鼻立ちをしているが、若い顔に皺が出来る程、口角が不気味に吊り上がっている。


 真円を描く月もミルキーウェイも煙の中へ瞬く間に消えた。残るは窓をガタガタ震わすジェットエンジンの燃焼音。


「ですが本島は撤退を始め、ほぼ遊兵しか残っていませんね。後数時間でこちらにも迫るでしょう。それにオーストラリア側からも反乱軍の艦隊が……」

「分かってるってば、コンスタンス。この調子ならあと半日くらいでここの空港にチェックメイトってとこだな」


 管制官達の雑言に紛れて無表情で咎めるように言うのは、後方でキーボードを叩くダークブロンドの頭髪をポニーテールに束ねた二十代後半程の女性。代わり映えしない景色に飽きたサムは彼女の元へ歩み寄る。


 女性にしては低めの口調には悲観が含まれているものの、紺ベストに同色のネクタイを締め、ヘッドフォンマイクと眼鏡を掛け知的に見える紫の目は、レンズか眠気のせいか詰まらなさそうに細く閉じ気味だった。しかしタイピングの手は衰える素振りを見せない。


「それにしては随分余裕みたいですね」

「当たり前だ。そもそも艦隊など必要無かったって話だ……俺はチェスは嫌いでね、何でか分かるか?」


 さあ、と年上の方は首を横に振った。「ルールが理解出来ないからですか?」

「王が弱いからな。初めっから強けりゃ戦略なんて要らねえ。頭なんて使うだけ無駄だ」


 真顔で放たれる爆弾――コンスタンスは首を傾げていたが、年下側は無傷、というか不発に終わった。わざとらしく握り拳を作り、デスクワークする女性の目の前に割り入れる。


「随分な暴論ですね。しかし目的を果たなくては勝利しても意味がありません」

「分かってるっての。ただ王座が窮屈なだけだ。まあもう暫く待つとするぜ……今何時だ?」


 受け流す秘書に青年の苦笑は、叱られた子供のように決まりが悪そうだった。仕方なく話を強引に変え、最後方の一回り大きな背もたれ古びた椅子に腰掛ける。


「〇時二〇分です。仮眠を取られますか?」

「おうよ。暫く任せたぜ」

「かしこまりました。緊急事態が起これば起こします」

「なるべく遅く頼む。朝食は何だ?」

「生憎私の担当ではないので……」


 人工皮革の背もたれを後ろに倒した青年は椅子の軋むバネに身を委ね、落ち着きのある女性の声に聞きとれながら目を閉じる。


「分かってるよ。さっさと制圧終わりゃ何時ものオムレツ食わせてくれ。勿論パルミジャーノ入り」

「サミュエル様のご希望であれば。ただ、今は仕事に専念下さい」

「ありがとな。そんじゃ、おやすみ」

「はい、ゆっくりお休みなさいませ」


 青年の口元は綻び、柔らかいブランケットが腹の上に乗る感覚。やがて防音ガラスを通って微かに聞こえるジェットエンジンの爆音は小さくなっていった。






 管制塔より二百メートル以内。航空部隊設備が並ぶ棟の外れに一層静かな狭い倉庫があった。


 手先で懐中電灯の先端を絞り、仄暗い倉庫で書類や型落ちの電子機器をぎこちない手で触る。


「ダイアモンドヘッド制圧以来味方の通信の傍受は無かったです」

「ダクトは小さくて逃げられねえ。最悪あの窓を外して脱出するロープは作れそうだが、相手の警備は……」

「オーストラリアからの艦隊が来るまであと半日くらいか……」


 ボソボソと各々雀の涙程の収穫を交換し合う、反乱軍オペレーター達。外から鍵が掛かっているドアに人の気配は感じないが、アサルトライフルを持った歩兵ロボットが待機状態だと分かりきっている。幸いにも室内に監視カメラは無いのが救いではあったが。


 棚の足元には体育座りの老人。シュンとした表情を見かけた若い男は目線の高さを合わせた。


「ハーディさん、大丈夫すか?」

「……私はここに二十年程住んできたが、折角頑張ったのに結果がこれではな……」


 しゃがれ気味の声。別の女性オペレーターもしゃがみ込んで若い男性の援護。


「そんな、誰よりも努力してきたじゃないですか」

「結果が全てだ。貧困は膨れる一方、折角力を注いだ軍事力もこれでは……私など政治家失格だ」


 しかし加勢も泣きっ面に蜂。悲観に暮れるある管制官達は額を掌で押さえ、別の管制官は昔ながらのゲルインクペンのボタンをカチカチ鳴らしていた。


「まあまあ、懺悔なんて安いフラグ立てるのはよしましょうや。ニュースがありますよ」

「良い方? 悪い方?」


 と思った矢先、湿気と絶望に曇った倉庫の中に一筋の光を与えたのは三十代程のツナギ姿の人物だった。


「判断は各自に任せますよ……そんじゃあ速報、電波妨害の正体の一部が見えてきました」


 悲観に暮れる一同は一斉に振り向いた。誰もが藁をもすがる思いで耳を傾ける。食いつきを見て話し手は瞬きを激しくした。


「電波妨害されているんじゃなかったのか?」

「その筈でしたが、妨害電波に特定の情報を見つけたんです」


 一段年上の中年の作業員が質問するがエンジニアと思しき男は興奮を冷ましきれない。しかし顔は喜びや楽しさは無く、怪訝に画面を見詰めている。


 黒いパネル上にはアルファベットと数字の羅列が覆い、何列もの緑の文字が右から左へ……


「複雑に暗号化されていますが、質問に対して返答する味方識別信号と原理は同じです。この細かい暗号が量子数の大きなノイズ代わりになってるんでしょうな」


 幾重にも折れ曲がった線グラフを指す。数人は口をポカンと開けており、「特定は?」と誰かが短く尋ねた。


「この機材じゃあこんな複雑な計算は……しかも暗号は常に変化してて……でも発信受信の場所は分かりますよ。まずこの空港と、そして上空からです」


 誰もがが絶句した。再び誰かが喋り始めたがその声も掠れている。


「まさか衛星兵器か?」

「それならば今まで観測されていた筈……」


 宇宙兵器は西暦二〇三〇年代から飛躍的発達を遂げ、結果的に迎撃・対処の技術も広まった。何より重力の影響を受けないエネリオンを攻撃に用いるトランセンド・マンの登場は、文字通り衛星兵器を次々と消滅させる事となった。


 だが──「あのレーザーの威力もそうでなければ説明出来ませんよ……」

「では一体何と交信しているのか……」

「解析は出来る限りやってみますよ」


 見上げても消灯された天井照明パネルがあるだけ。タイピング音は半透明の換気窓から激しく打ち付ける雨音に飲み込まれる。


 隙間を掠める風音に身震いし、積乱雲に何が隠されているのかは検討も付かない。戦慄に再び静寂を迎えた倉庫は小さな換気用窓から昇る陽を待つしかなかった。

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