第60話 月に半ば黒が覆う
あー、疲れた……本当に……
ジョンの屋敷に戻ってきて、夕食や排泄も一通り終えて、
雲一つない夜空に浮かぶ半月を、部屋のガラス窓から見上げていた。
「元の世界と違って、夜空は綺麗だよなぁ……」
それをのんびりと眺めた後で、ベッドの上でゴロンと仰向けになった。
あれから時間も経って、
少しだけ、心にも余裕が出てきた気がする。
まだ痛む首とお腹の鈍痛や痣は、いつになったら治るんだろうか。
それを気にしちゃうと、また胸が苦しくなってくるんだけど……
今日の夜から ミザリーさんには、
添い寝や着替えの手伝いはさせないことにした。
排泄の準備は手伝ってもらうけど……といっても、
専用の
今の自分の体、痣を見られたくないしね……
ミザリーさんは手伝わないことを嫌がったけど、
ジョンからも言ってもらって、渋々納得してもらった。
声も出るようになったし、
アルテナたちに伝えて、これからどうするのかを聞かないとなぁ……
それを、ベッドの上で ぼーっと考えていたら、
「ソーマさぁーんっ! 」
シアンさんが赤い顔をして部屋に入ってきた。
……もしかして酔ってる?
「えへへ、私、今日もいっぱい依頼をこなしてきましたよっ! 」
笑顔でそう言いながらベッドに乗って、
おれのすぐそばまで……って、
「し、シアンさんっ、ちょっと近いんじゃ――」
「あっ、ソーマさん、声が出るようになったんですね!」
「ちょっ!? んんっ――」
慌てて上体を起こすも、ぎゅっと抱きしめられてしまった。
シアンさんは膝立ちの状態だから、顔が胸に埋められて……
柔らかくて嬉しいんだけど、胸に包まれて窒息してしまうっ!?
「―― ぷはっ、シアンさん酔ってますよね!? 」
「えへへへへ、酔ってませんよ~? 」
なんとかシアンさんの胸から顔を出すと、
強烈な酒と汗と、彼女の香りが色濃く鼻をくすぐった。
シアンさんにしては珍しく、酔ってヘラヘラとした笑顔だった。
「というか、酒をたくさん飲んだんですか? 」
「だって、他の冒険者の人達が奢ってくれるんですもん。」
「奢ってって……だいぶ仲良くなったんですね。」
表情をコロコロ変える彼女を見て、おれはそう言ったんだけど、
「……」
「シアンさん? 」
一瞬にして目も伏せた彼女の表情に、なぜだか心がざわついた。
「やだ。」
「……やだって……何が? 」
「……わからないの……」
「シアンさん……? 」
うつむくシアンさんの目元は夜の影で暗く、
「まだ怖いの、他の男の人たちが……」
「男……」
そう言って体を震わせるシアンさんに、
おれは何を言えば良かったんだろう……
おれが見ていない間に、何があったのかもわからないんだから……
さらに強く抱きしめられ、
見上げたおれと、うつむくシアンさんとの顔の距離が近くなる。
そして――
「うわっ!? 」
――そのまま、ベッドに押し倒された。
胸に押しつぶされるかと思ったら、
シアンさんは少し退がって、顔を唇を近づけてきていた。
「シアンさんっ!? 」
「抵抗しないでっ!! 」
鋭い口調で、その手首を掴まれた。
「ぐっ……~~!! 」
「くぅっ……~~!! 」
強引にキッスを迫ってきて、
顔を背けたおれの頬に彼女の唇が押し当てられる。
唇が離れると思ったら また唇を狙ってくるし、
両腕は押すも引くもできずに掴まれたまま。
「な、なんでこんなことをっ!? 」
「ソーマさんなら良いの! 」
「だからぁっ!? 」
「他の人は嫌っ!! 初めてはソーマさんにって決めたのっ!! 」
「っ!? 」
は、初めては……って、シアンさん……
驚いて、腕の抵抗を緩めてしまったせいで、
おれの両腕は顔の横に、ベッドに押し付けられた。
おれの力が弱いのか、彼女の力が思いのほか強いのか、
一度ベッドに押し付けられたら、もう押し退けられなくなっていて……
おれは、このままシアンさんにムリヤリ――
―― あ、この態勢ヤバい……
頭痛がスる
視界が揺ラぐ
胸奥ノ未知ノ痛ミ
マトモに息がデキなイ
胸が破裂しソうな程に鼓動しテいル
首と腹がズキズキと痛ンで、
胸から熱さと苦さがこみアげてクる
「お願いですから、抵抗しないで……」
ソんな涙を浮かべテ懇願するシアンさんの姿モ、
今のオれにハ――
―― おら、騒ぐんじゃねぇよ!
押シ倒さレる自分――
―― 他人の女、襲うって興奮するな!
抵抗しヨうにモ体を、腕を体ヲ拘束サれテ――
―― 暴れんじゃねぇぞ!ヒャハハハハ!
―― 今のオれにハ、
いナいはズのあイツらノ姿ガ見エてしマっていタ――
*
「はぁー、やっと帰ってこれた……」
アルテナは屋敷の通路を、
体のあちこちをほぐしながら歩いていた。
あの廃屋での猟奇殺人を国衛館へ報告し、
色々と聴取を受け終えて戻ってきたところであった。
ブラウは冒険者斡旋所への報告をし、
ついでに資料を探すため、遅くに帰ってくると言っていた。
シアンもまたブラウと一緒に行動していたはずなのだが――
「ああアアああぁぁァぁぁぁーーーー!! 」
絶叫が、通路にいるアルテナの耳にも響いてきていた。
「な、何っ!? ソーマなのっ!? 」
絶叫に驚いたものの、覚えのある声に、
アルテナはソーマのいる部屋へと駆けこんだ。
「いったい何があったのっ!? 」
アルテナが扉を開け部屋に入ると、
「ィやだアああああぁぁァぁーーー!! 」
「ソーマさんっ!? 落ち着いてくださいっ!? ソーマさんっ!! 」
叫びもがくソーマの体に
両腕を、彼の体をベッドに押さえつけているシアンの姿があった。
「ソーマっ!? ――っ!? 」
彼の大声に顔をしかめつつ そばに駆け寄ったアルテナだが、
ソーマの目を見て驚き、息を飲んで立ちつくしてしまった。
かつて二度ほど目にした昏い目。
そんな彼の目は焦点が合っておらず、
シアンを振りほどこうと頭を
「これは何の騒ぎだっ!? 」
「どうした!? 」
ソーマの叫び声を聞きつけてジョンとバーントも入ってきた。
扉のところにはミザリーを始め、
他の使用人の女性たちが不安そうに立っていた。
「助ケてえエええェぇェぇーーーー!! 」
「そ、ソーマさんが、急に叫びだしてっ!! 」
「ソーマっ! しっかりしろ!! 」
シアンの言葉を聞き、バーントが彼のそばへ行った。
バーントが近づいたことで、
「あ、ア、あ……」
「そ、ソーマ? 」
ソーマの焦点の合わない目がバーントに固定され、
バーントは心配そうに声をかけた。
「ア、ァあ、あアッ!! ああァァぁ!! 死にタくナいぃィぃぃぃ!! 」
ボロボロと涙をこぼし始め、
止まっていた彼の動きが再び暴れ、激しくもがいていた。
「ソーマっ!? 」
「ソーマさんっ!? 」
バーントとシアンは二人して、
ソーマが暴れないように押さえ込んでいたのだが、
「二人とも彼から離れたまえっ!! 」
ジョンが、ソーマからバーントとシアンを引き剥がし、
彼から遠ざけた。
アルテナたちは、暴れてもがいている彼を自由にしたら、
それこそ暴れてしまうと思っていたが――
「殺サれタくなイよぉぉぉぉ!! 母サぁァァぁんッっ!! 」
―― ソーマは横に寝返りをうって、
手で頭を覆いながら胎児のように丸く縮こまっていた。
「うあアああアアあァぁァァーーーー!! イたいヨぉおオおオォぉォーーー!! 」
彼の
空に浮かぶ半月に、
黒雲が次々と覆いかぶさろうとしている夜だった。
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