今年の山王祭には派手に参加したぜ
さて6月15日は赤坂日枝神社の山王祭だ。
日枝神社そのものは南北朝時代からすでに存在したらしいが、一度太田道灌によって江戸城内に移築され、慶長9年(1604年)からの徳川秀忠公による江戸城改築の際に社地を江戸城外の麹町隼町に遷座し、庶民が参拝できるようになったのちに、明暦の大火により社殿を焼失したため、今年の万治2年(1659年)に赤坂に遷座したばかりだが、この地は江戸城から見て裏鬼門に位置するから明暦の大火に対しての対応なのだろう。
そして日枝神社は江戸城及び徳川将軍家の産土神つまり江戸城と将軍家の守護神として崇められており、先代の三代将軍家光公以来、この山王祭と神田祭は江戸城内に入った御神輿を歴代の将軍が上覧し拝礼したため、「天下祭」とも呼ばれて、神田明神の神田祭、富岡八幡宮の深川祭をあわせた江戸三大祭の筆頭とされ、さらに京都の祇園祭・大阪の天神祭と共に、日本三大祭に数えられているお祭りでもある。
当然、山王祭が朝廷のある京都の祗園祭や、大阪商人の天神祭に負けては、将軍の権威にもかかわるからそれは盛大に行われた。
要は江戸時代においても山王祭は日本一の祭りだと認識されてるってことさ。
現状では毎年行われているが、後の天和元年(1681年)以後には神田明神の神田祭と交互に子・寅・辰・午・申・戌年の隔年で行われる事になっている、これはそれぞれの祭りに幕府が金や人員を供給していたから幕府の財政悪化により毎年開催がきつくなったんだろうと思うぜ。
名目上は両方の祭りに参加していた町の年に二度の大きな出費がきついからとされているけどな。
まあ、一回の祭りの参加でさほど派手でない町でも祭りの経費で三百五十両(おおよそ3500万円)かかったら結構な支出ではあるが。
そしてもともと日本橋の旧吉原のときは「吉原の課役」として幾つか行わなければならないことが有った。
・江戸城の煤払い、畳替え、火事の際には人夫を差し出すこと
・山王・神田の両大祭には傘鉾を出すこと。
愛宕の祭礼には禿の内で殊に美麗なる者を選び、美服を装わせて練り歩くこと
・老中、三奉行(寺社・勘定・町)が出座する評定所の式日(2日、11日、20日)には
太夫を給仕として差し出すこと。
もっともこれは大奥ができた寛永年間(1624-1643)に中止となったが。
要するに旧吉原の時には山王祭と神田祭には吉原も強制参加だったわけだ。
しかし、新吉原の移転条件で周辺の火事・祭への対応を免除されるとこれ幸いと祭りへの参加を取りやめたわけだが、それは当然各神社やその氏子たちへの反感を買い、広告の機会も失うことだと西田屋二代目は気が付かなかったのかね。
ともかく俺は去年お奉行様と掛け合ったり何だりして、ようやっと吉原も再び祭りに参加できるようになった。
だから今年は大手を振って参加するぜ。
祭りに必要な山車(だし)や笠鉾(かさほこ)、付祭(つけまつり)などは当然、権兵衛親方に作ってもらっている。
笠鉾は山王祭や神田祭など祭礼の時に町の奉納踊りを先導する飾り物で、大きな傘の上に鉾・なぎなた・垂らした造花などを飾りつけたものだ。
神輿のように担ぎ役が持つが、重さは100キロほどでそれを神輿のように担ぐのだ。
祭りに参加する町の町印の役割を果たすもので、傘の上には町を象徴する飾り「飾(だし)」を置いてどこの町のものかわかるようになっている。
付祭だが、笠鉾や山車はある程度構造が内容が決まっているが、付祭はそれ以外の引き物や出し物のことを言い、踊り屋台というその上で娘や子供に手踊りなどをさせたり、長唄や常磐津節などを歌わせた移動式舞台や、様々な趣向を凝らした人の手でひく車が付いた大きな飾り物たとえば白象なんかを引っ張ったり、それに仮装行列などをおこなったりだな。
江戸ッ子はどいつもこいつも見栄っ張りだから当然みんな派手派手なんだ。
ちなみに日枝神社は江戸城そのものの守護を司ったために、この祭りは幕府からも手厚く保護されていて祭礼の際には幕府からの名代が派遣されたり、祭祀に必要な調度品の費用を助成金として交付したり、大名や旗本御家人から人員が動員されたりして祭りを確実に行えるようにする一方で、行列の集合から経路、解散までの順序や時間が厳しく定められそれを尊守することを厳命されていた。
武士は験担ぎを大事にするからな。
俺は工場に行って親方に聞いた。
「親方、山車と傘鉾、付祭の出来はどうだ?」
親方は胸を張っていう。
「おう、きちんと出来てるぜ!。
鈴蘭ちゃんや茉莉花ちゃんの評判を落とさせるようなことをすると思うかい?」
「いんや、思わないがな」
工場には豪華に仕立て上げられた笠鉾と山車、付祭が鎮座していた。
これが吉原そのものの代理のようなものだから当然それ相応に豪華にしないといけない。
作るための費用は吉原の町費から出してるけどな。
稚児行列のための衣装なども禿のために用意する。
見世の禿たちにみんな着せるのは当然として、津軽から売られた子どもたちにも全員分用意した。
「はあ、こんな綺麗なべべきれるなんて夢みたいだぁ」
稚児衣装を来てキャイキャイ言ってる津軽の娘達の姿は微笑ましい。
「お前さん達頑張ってるからな、胸を張って行列に参加してくるんだぞ」
「はい、ありがとうございます」
神幸祭では笠鉾や山車とともに平安装束をまとった人々がそれに付き従って江戸の街を粛々と行進し、巫女装束と壺装束の若い女性4名ずつがそれに花を添えるが、当然そのあたりは大見世の太夫や格子太夫の役どころだ。
「高尾や勝山に負けないようにしないとな」
俺は藤乃や菫、茉莉花にそういう。
「あい、もちろんですわ」
藤乃も気合が入ってるな。
そして山王祭は前日6月14日の午の刻(昼の12時)から始まり、社前で読経や祝詞奏上と神楽の演奏が行われ、翌日の6月15日の木戸が開く朝の未明から、各町から笠鉾を先頭にして中央に山車、最後尾に付祭(つけまつり)を従えた稚児行列と山車行列が江戸中を練り歩きはじめ、やがて町の行列が合流して五十台以上もの山車が連なる名物の祭り行列が、半蔵門から江戸城内に繰り込む。
「それ、行くぞ!」
「おう!」
「あい!」
そして吹き上げの庭で将軍と御台所の上覧に供して大いに意気を揚げるのだ。
この祭りの最中の沿道の市中も大賑わいで、商店や茶店などには桟敷が設けられ、それも見物客で埋め尽くされる。
「あらー可愛いわね」
「さすが吉原は派手だなぁ」
稚児行列や踊り屋台を見た町人たちが色々言ってるが概ね好意的なようだ。
吉原は派手で新しい笠鉾や山車だし、踊り屋台も評判が良かったぜ。
そして多分上様も喜んでくれたんじゃないかと思う。
そして夜になれば吉原の夜見世もまた賑わうわけさ。
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